ほろほろ旅日記2002 9/11-20
前へ
タイ王国 Kingdom of Thailand → ラオス人民民主共和国
Lao People's Democratic Republic
9月11日(水) → ウボン・ラチャタニー → ピブン → チョンメック → ワンタオ → パクセ
外が明るくなって目が覚めた。
雨季だけあって空には雲が立ち込めており、車窓に広がる青々とした田んぼと、それに比して少ない人家がイサーン(タイ東北部)だということを感じさせる。列車はほぼ定時に終着のウボン・ラチャタニー駅に到着した。
さあ、いよいよラオスに向かおう……と、いきなりウボン・ラチャタニー駅前でつまづいた。ラオス方面への中継地・ピブンへ向かうバスがいつどこから出るのか分からないので、始発が出るであろうバスステーションに行きたいのだが、そもそもバスステーションの場所が分からない。なんとかバイタクやトゥクトゥクの力を借りずに自力で行きたいが、しょっちゅう来ている循環コミュニティバスみたいなのの表示がタイ語なだけでお手上げになってしまっている現状では、それすら難しい。
どうしようか考えていると、お巡りさんが声をかけてきた。話してみると、丁度停まっている循環バスに乗ればいいらしい。このお巡りさん、運ちゃんに
「この日本人、ラオスに行きたいようだから」
と言づてまでしてくれたし。ありがとう。バス代は5バーツ。
と、発車してすぐ、一つめの停留所で運ちゃんが
「ここがバスターミナルだぞ」
え、もう?
急いで降りるが、周囲を見回してもそれらしいものは見当たらない。というか、そもそもある気配すらない。
日本の梅雨みたいな雨が降ってきたこともあり、今度は意地を張らずにすぐ近くのポリスボックスに行って尋ね、教えられた通りに市場の中を抜け、なんとかバスターミナルに到着。雑多な界隈の一角、未舗装の広場にバスが集まっている、いかにもな地方都市のバスターミナルだ。
発車待ちをしているバスに片っ端から声をかけていき、「ピブン」と言ってうなずいたやつに乗り込む。ソンテウも声をかけてきたが、バスのほうが安いだろうからパス。20バーツ。
思ったより乗客が少なく、快適に乗れたバスはそぼ降る雨の中を一時間程走り、ピブンのバスターミナルに到着。そういや前は途中で乗り換えたから、ピブンのバスターミナルに来るのも初めてだ。今度も「チョンメック」と尋ねてまわり、大きなトラックバスの後ろに乗り込む。25バーツ。
そういや、ここから国境までの景色がいいんだった。道の南側に大きな湖が姿を見せる。雨が降って見通しが良くないのが残念だが、いよいよラオスだという気分が高まってきた。そして国境の町、チョンメック着。雨はあがっていた。
屋台やマーケットがずらりと並んでいる風景は前と同じだが、地元の人しか見当たらない。もしかして、外人は僕一人? そういやウボンまでの列車では白人を数人見かけたけど、そこから先は地元の人の中に僕一人でずっと来ているなあ。
ここまで来るとラオスが近いせいか、田舎でスレてないからか、心なしか人々のフレンドリーさが増している気がする。いい気分のままイミグレへ。僕一人だけで、他に審査を受ける人がいない。こんなの初めてだ。タイのイミグレの係員さんは日本語で対応してくれるし。ありがとうございます。
国境の緊張感のカケラもないボーダーを通り、ラオスに入る。
ラオスのイミグレでも、外人は僕しかいない。のんびり、じっくりとチェックを受ける。旅行代理店で取ったビザのオキュペイション(職業)の欄、やっぱりテクニシャン(技術者)のところで笑われたー!! やっぱり変だったんだ……。手数料で50バーツ払う。土日のみじゃなかったのね。
ついでに450バーツをラオスキープに両替。え、111,000キープ!? 多くない? またインフレが進んだのかなあ。
ともあれ再び降りだした雨の中、ソンテウ乗り場までてくてく歩いて行く。勝手の分かったところだからドキドキ感がないなあ、というのは贅沢なんだろう。そういえば昨夜から何も食べてない。うう、お腹空いた。
ここからパクセに向かう交通機関である軽トラを改造したソンテウは、相変わらず芸術的なまでに人と荷物を詰め込んで走り出した。数えたら、一番多い時で40人も乗っていた。嘘みたいだ。パクセまで5,000(ハー・パン)キープで1時間20分ほど。
いかにも雨季らしく、田んぼや原野がけっこう水浸しになっている。山にはガスがかかり、宮脇俊三さん風に言えば、水墨画の世界だ。田園と原野の風景の中をひた走り、最後にメコン川に架かる橋を渡る。メコン川も雨季だけあって水量が激増している。ほとんどいっぱいいっぱいだ。ともあれ橋を渡りきってパクセ着。
着いたバスターミナルは橋のそばなので、町から離れていたはずだ。町の中心まで行くトゥクトゥクでもつかまえようと思ったが、こういう時に限ってつかまらない。仕方ないので歩いていくことにする。タイミングがよければ商売熱心なトゥクトゥクが声をかけて来るだろう。周囲の人に中心部の方向を尋ね、バスターミナル内を歩いていく。
途中、リヤカーを押しているおっさんが僕を指してしきりに何か言ってくるが、ラオス語なのでさっぱりだ。何を言っているかわからないというしぐさをして歩き去ろうとすると、そのおっさんが憤慨したように追いかけてきて、僕の肩を掴んで振り向かせたと思ったら、おっさん自身を指差して
「ラオ、ラオ!」
と。「俺はラオ(ス)人だ!」と言ってるんだよな? 何を言いたいのか分からない。相手の意図が分からないながらに自分で自分の胸を指し、
「ニップン(日本人です)」
と言うとそのおっさん、納得したように笑い、僕の肩を叩いて去っていった。なんだったんだ?
気を取り直して歩いて行くと、バスターミナルの向こうは市場になっていた。なんかここ、見覚えあるような……思い出した! スタジアムの近くの市場だ!
頭の中で地図が書き換えられた。一気に自分の現在地が理解できた。ここだったのか。なら、ホテルまで歩いていけるや。
などと意気揚揚と歩き出したのも束の間。すぐに後悔することになった。雨は勢いを増して降り続いているし、中心部までは結構距離があったんだった。
今さらトゥクトゥクに乗る気にもなれず、熱帯の雨だから濡れても風邪はひかないさと無理矢理なプラス思考に切り替えて歩いていく。
道すがら、久々のラオスの人々と挨拶をかわす。女の子はかわいくて愛想がよく、男の子は生意気で憎たらしく、青年は礼儀正しい。そうそう、これだよ。これがラオスだよ。
途中の銀行に、バーツをキープに換算してもらいに立ち寄る。あー、国境でも感じたけど、キープ安が進んでいる。1ドル≒10,450キープ、1バーツ≒250.75キープって。わずか四ヶ月で進んだなあ。とりあえず1000バーツをキープに換えておく。
そして宿へ。前回と同じラオ・チャオ(チャルーン)・ホテル。フロントには前もいた兄ちゃんがいて、僕のことも覚えていた。250バーツのシングル。高いのは分かってるけど、一泊だけだからいいだろう。
部屋でシャワーを浴びて一息ついたところで、時刻は14時。外へ出ようと身なりを整えるが、お札でポケットが膨れ上がるこの感じ、久しぶりだ。久しぶりといえば、ラオスの穏やかな感じ、やっぱりいいなあ。
←(クリックすると大きくなります)
メコンの増水が凄かったので、前回との違いを実感しようと川岸に出向く。五月とはまるで別世界だ。
サワンナケートのようにサンセット屋台も出ているし、夕焼けもかなり綺麗なんだろうな。
そのへんをうろついていると、白人2人組みのツーリスト、おじいさんとその娘さんとしょっちゅう出会った。まあパクセの町自体、ラオス基準では大きいけど、都市ってわけでもないもんなあ。
前回建設中だったショッピングセンターらしき建物にも、テナントが入りだしている。この町はこれからどんどん変わっていくんだろう。でもそんな中、建設中のショッピングセンター近くの造成地の水たまりで下校途中に遊ぶ小学生を見ていると、どうなってもラオスはラオスのままでいるのかもとも思う。
まだ日が高いので、一度宿に戻る。
宿の兄ちゃんと話していると、
「日本語を覚えたいんだけど、ここには先生がいない」
と言っていたなあ。日本語教師の必要性はまだまだこれからも増していくんだろう。けど、資格をとるのにかかるお金が……さらには僕の場合、年齢が……うーむ。
ラジオを聞いていて思い出したんだけど、今日は9月11日だ。去年の今日、ニューヨークでテロがあったんだ。そうか、あれから一年か……。
夕方になってきたので再度メコンの岸辺に繰り出す。と、思った通り、いやそれ以上に素晴らしい夕焼けが広がっていた。夢中になって写真を撮りまくる。いいタイミングだった。これだけでも二度目のラオスに来た甲斐があったと言っていいかも。
(ということで、パクセの夕焼けギャラリーをどうぞ。クリックすれば大きい画像が見れます。)
夜に宿に戻ると、白人旅行者が結構いた。昼間はどこにいたんだ? 夜も少し歩いてみるが、やはり暗い。なんか怪しい店もあったけど、気にしないで明日に備えて早々に退散する。
ラオス 9月12日(木) パクセ → バン・キナック → バン・ナカサン → シーパンドン(ドン・コン)
八時過ぎに目が覚めた。ちなみに、シーパンドン方面のバスの出発予定時刻は八時。あかんやん。
まあ、いくらなんでもシーパンドン行きのバスがそれ一本だけって事はないはずだから、気を取り直してバスターミナルへ。
トゥクトゥクで5,000kip。途中、運ちゃんが1万と言いかけたが、5千でしょ? と言うとあっさり引き下がった。このあたり、実にラオスらしい。
今回はトラックバスではなく、ちゃんとしたバスでシーパンドンに向かう事にした。ちゃんとしたと言ってもそこはラオス、ボロはボロだけど。って、バン・ナカサンまで1万kipでいいって本当? ……この国の物価って……。
(左側にキナック、右側にナカサンと行先が書いてある)
にしてもさすが雨季と言うか、雨が降り続いていて、肌寒いのには閉口だ。バスは10時発とのことだったが、その少し前に車内係の兄ちゃんが
「このバスはナカサンには行かない」
と言ったので乗り換え。どのみちそんなに混んでないし。
(左側にはパクセと書いてあります)
例によって10時をすぎても出発なんてするわけがなく、動き出したのは10時20分を過ぎた頃だった。そしてターミナルを出外れたところでいつものようにさらに20分停車。許可か何かを取ってるのか、単に休んでるだけなのかは知らないけど。そして南へ。
前、5月に来た時とはかなり感じが違う。雨がぱらついてて肌寒いし、景色の中の水かさが増していて所々、野原や田んぼが水浸しになってるし。そういう原野と田園が混じりあった風景が延々と続いている。
この辺の家は高床式が多い。高台に家を作りたくても高台自体が見当たらないから仕方ないのだろう。川を利用するしかなく、その川が季節によってこれだけ水位を変えてしまうのだから。
ラオスの人口密度を考えればもっともなのだが、道ばかりが伸びていて、家も人もほとんど見かけない。そんな中、時たま現れるいつくかの集落のバス停で休憩する。バスに群がってきた物売りの人からカオニャウ(もち米)とピンカイ(串焼き鳥)を買う。これこれ、これがラオスだよ。
って前の席にいるおっちゃん、サラドンコン(コン島にある一番いい宿)のオーナーなのか。びっくり。でもそこは高いし、何もなければ前回泊まった宿に行くつもりをしてるんで、ごめん。
バン・ナカサンまで13号線を突き進んでいけば早いのだが、バン・キナックを経由すると道が悪いため、時間がかかる。ほとんど四時間かかってしまった。で、バン・ナカサンに到着。本当に1万kipでいけてしまった。
バン・ナカサンは水位が上がった関係で、町の印象が前回と違ってしまった。河原どころか、商店街の横丁の十字路まで水没してしまっているのだから。
島へ行くボートに客は5人。運ちゃんがやたらとデット島の宿を勧めてきたが、僕はコン島へ行くんだ。
今まで気付かなかったが、この5人の中に、僕以外にも日本人がいた。ウチダさんという女性。白人客2人はデット島に、僕とウチダさんはコン島に。ウチダさんは三ヶ月の予定でインド・ネパール・タイ・ラオスとまわってきたらしい。ボート代は一人1万kip。四時間走ったバスの安さが際立つなあ。
水かさが増え、流れも格段に速くなっているメコン川は、迫力があるというか怖い。でも、ここの人達にはこれが日常なんだからなんてことはないと自分に言い聞かせる。そしてコン島着。
宿のミスターブーンファンの奥さんと旦那さんは僕の顔を覚えていてくれて、ボートが接岸する前から笑顔で手を振ってきた。こういうのって嬉しい。奥さん、相変わらず首を振りながら料理してるんだろうか。ウチダさんは他の宿を探しに行った。僕はここに投宿。
戻ってきたんだ、メコンの楽園・シーパンドンのコン島に。
夕方、前回行きつけていたソムサヌークレストランに行く。ここでも僕を覚えてくれていた。嬉しいなあ。
コン島とデット島を繋ぐ鉄道橋を見ると、前回よりはるかに水かさが増しているのがよく分かる。
今日はソムサヌークのお兄ちゃんもいる。ポーンサワン(ソンパミットの滝の近くで、同名の北部の町とは関係ない)に店を出し、カンボジアで結婚しているそうだ。今は子供の関係で店を閉めているので、ここにいるんだとか。ん、カンボジア? 地元の人は行き来自由だし、立地的にバスで四時間かかるパクセよりずっと近いと。確かにごもっとも。言われてみれば、ソムサヌークが持っているノートもカンボジア製だ。
僕も余ってるノートがあるからあげるよ。するとソムサヌーク、嬉しそうにノートを抱きしめ、目の前にいる親に
「貰っちゃった」
と報告していた。こういうのが素朴で可愛い所だなあ。
そして、ここに来る最大の目的だった、バンコクでプリントアウトした前回の写真を渡す。予想以上に喜んでくれた。これだけ喜んでくれると、持ってきた甲斐があるというものだ。喜ばれるあまり、頼んだフライドライスが大盛りになって、フルーツ盛り合わせまでついてきてしまった。あはは。
そしてその後、お父さんとお兄さんとの三人でラオラーオを伝統にのっとって回し飲みした。確かに強い酒だが、別にあちこちで言われているような、ぶっ倒れるほどのものではない。楽しいお酒だった。
ソムサヌークとお兄さんは簡単な日本語を話すようになっていた。それだけ日本人がよく来ていると言うことだろう。
まず心、次に言葉というのは本当だな。
「アリガト」「マタネ」
これだけのことを言われただけでも嬉しくなってしまうのだから。旅人というか、僕、単純だな……。
宿のバンガロー、予想はついてたけど床の下は川だ。洪水になったりしたら流されてしまうんじゃないか? そうじゃなくてもこんな川ギリギリに建ててたら、岸の浸食によって数年後には役に立たなくなってしまうんじゃ。
それにしても蚊が多い。どうせここが終わったら後は寒い欧州方面に行くだけだし、セーブせずに蚊取り線香を使いまくってやる。
今日は午後はさしたる雨は降らなかったけど、雲が厚く垂れ込めていて、夕日どころか夕焼けさえほとんど見えなかった。残念。時節柄、仕方ないんだけども。でもハンモックでゆらゆらするのは心からのんびりできて、いい。
夜、宿のレストランで白人グループに一緒に飲もうと声をかけられた。聞くと、グループといってもここで出会った人たちばかりだそうだ。奥さんお薦めの焼き魚を肴に、ビアラオからラオラーオまで、よく呑んだ。
酔っていい気分でバンガローに戻り、ベッドに転がって川の音に身を任せていると、唐突に考え事モードに入った。
自分は、この旅で何か変わったろうか? 根本は変わってないと思うが、これだけの経験をしているんだから、何も変化なしってこともないだろう。だが、今は自分を客観的に、以前の自分と比べるにはあまりにも材料が少なすぎて、なんとも言えない。ただ、これだけいい日々を送れているのだから、少なくとも悪くは変わっていないはずだ。
などと酔った頭で考えた挙句に出た結論は、
『評価は後ですればいい。今は骨の髄まで旅だ』
というものだった。なんだそりゃ。なんのために考えたんだか……。
ともあれ、今回のラオスはシーパンドンでくつろぐためだけに来たようなものなのだから、心ゆくまでのんびりしよう。
ラオス 9月13日(金) シーパンドン(ドン・コン)
朝9時半まで寝た。心地いい目覚めだったが、朝の早いこの島でこの時間は、バンコクで昼の一時二時まで寝てしまったのと同じような感じだ。
食事をしていると、他の宿で泊まっていたウチダさんがやって来た。ここが彼女の宿から一番近いレストランなんだそうな。途中、外の道をツアー客らしい白人集団が山のように通り過ぎていった。そして3人の日本人が横の宿に泊まってきた。なんか人が増えてきたかな?
ハンモックでぶらぶらしてから、歩きに出る。
今日はやけにいい天気で、暑いくらいだ。そして今日もだらだらとソムサヌークレストランに。もうここまで来ると、僕を迎えてくれる態度が「お客さん」ではなく「遊びに来た人」だ。まあこれだけ来てたらなあ。
しかし今日はなんか客が多いな。白人や日本人の集団が次から次へとやって来る。ソンパミットの滝への入域チェックポイント前という立地もあるのかもしれないけど、前来た時より時期はよくないはずなのに。
ソムサヌーク達にあげようとバンコクの日本食スーパーで買ってきたおかきを出すと、原材料はもち米、つまりカオニャウだから相性がいいのか、みんなおいしそうに食べている。ただ、おかきを巻いている海苔は海産物だから合わないのか、みんながみんな、外して捨ててしまっている。うーむ。
今回も折り紙を持参しているので折りまくる。いやだから、僕はそんな折り紙マスターとかじゃないから、魚だとかキリンだとかいきなり言われても折れないんだよ……。
とかやっていると、ウチダさんも散歩がてらやって来た。まあこの島じゃあ、行動範囲はどうやったって限定されるもんなあ。
今日は昨日と違い、本当にいい天気だ。このまま暇を持て余しているのもなんなので、リーピーの滝(ソンパミット)でも見に行こうかな。乾季と雨季とでどれくらい違っているのかも見てみたいし。ここの入域をチェックする係の兄ちゃんも前回と変わってなかったし、僕を覚えていたので彼の写真をあげたら、一日の入場料の5,000kipで今日と明日、二日間入っていいとか。ありがとー。
リーピーは、あまりの変貌振りに驚いてしまった。まさか、ここまで変わってしまっていたとは。
(上の二枚の写真の場所、前回来た時はこれとこれですから。まるで別の場所です。)
水量が桁違いに増え、以前来た時に
「雨季でもこの岩は水没しないだろうな」
と思っていた岩が、ものの見事に水没していたりした。
これでは滝というより、巨大な瀬と言ったほうが適切なんじゃあ。こんな流れでは舟なんかとても通行できないな。川幅もずいぶん増しているようだ。うーん、乾季と雨季でここまで極端な差が出るものだとは。地球って凄いな。やっぱりスケールがでかいや。
(久しぶりに動画もどうぞ。)
滝のそばにある茶店では、相変わらずマッチャがいた。
滝見物を終え、宿のあるバン・コンに戻る道の半ばで西の空に雲が広がってきた。
雲の隙間から光が差す、不思議な光景に見とれている場合ではないので急いで帰るが、結局途中で降り出してしまった。それも熱帯特有の強烈なスコール。
仕方なく、ソムサヌークレストランで雨宿り。ソムサヌークのお兄ちゃん、ポーイ(だったかな……)とラオラーオを呑み、カタコトの英語で雑談していたりするうちに雨も上がり、夕方になったので宿に戻る。
自分の隣のバンガローには白人のおじいちゃんと娘さんが入っている。パクセで何度か会った人達だ。このおじいちゃんがまた感じのいい人で、自分が持ち込んだライトで僕が上がろうとするバンガローの入り口の階段を照らしてくれたりする。なんというか、幸せだ。
ラオス 9月14日(土) シーパンドン(ドン・コン → コーンパペン → ドン・コン)
今日の始まりはまず洗濯から。
ごしごしやりながら隣の白人のおじいちゃんと娘さんと雑談。彼らはニュージーランド人らしい。なんか気楽に話を聞けている自分に気付く。少しは英語のヒアリング能力、上がったかな?
洗濯と朝食を終え、メコンを下ってカンボジアに抜けるという、行けるかどうかはっきりしないルートにチャレンジする白人カップルを見送るとすることがなくなったのでぼうっとしていると、おかみさんが
「コーンパペンの滝に行かない? 今なら一艘七万kipで行けるよ」
と言ってきた。雨季で増水して乾季よりボート運行の危険性は増しているだろうに、なんで以前の八万kipから値下がりしてるんだ?
どうしようかな。ウチダさんが行くなら半額の35,000kipで行けるけど。……昨夜からこっちの宿に移ってきた彼女が起きたら誘ってみよう。それまで引き続きぼうっとする。
12時半、起きてきたウチダさんにコーンパペン行きの話を持ちかけてみると「行こう」とのことだった。
ボートはここの若主人が運転するはずだったが、ラオス人の客を急遽バン・ナカサンまで送らないといけなくなったので、おかみさんのお父さんが出してくれることになった。が、なかなか出発しようとしないのでどうしたのかと尋ねると、ボートのエンジンが調子悪いのでちょっと待ってくれとのこと。
おいおい、大丈夫か? ボートでコーンパペンに行くってことは、一歩間違えると滝壷にまっ逆さまになるところまで近づくってことなのに。
しばらく経って、どうにか直ったようだ。よし、行こう。
おなじみの小さなボートに乗り込み、スタート。デット島との間の水路を出外れて、本流に出る。
凄いことになっていた。
一目で川の流れの迫力が違うことに気付く。太い流れの真ん中に、さらに一層激しい流れがある。まさに激流・濁流だ。こんなとんでもない所を、こんなボートで本当に行けるのか?
ボートは極力岸辺近くの流れの緩やかなところを選んで進んでいく。たまに水路を横切る時は、波打ち、蛇行し、波濤を乗り越え、どうにかこうにか進んでいく。危険だというか、結構キてる。前回はこれに比べたら穏やかなものだったんだなあ。
慎重に進んでいるからどれだけかかるのかと思ったら、20分ほどで着いてしまった。えらく早いな。それだけ川の流れが速かったということか。
相変わらず人気なんてどこにもない立派な舗装道路を歩いて滝のビューイングポイントに到着。
……人、いない。前回の比じゃない。外国人なんて他には誰もいないし。
ここにはシーパンドン全体の大まかな見取り図が掲示してある。前回も見かけていたけど写真に撮ってなかったので、今回はちゃんと撮る。
メコンの中に島が無数に浮かんでいるのがよく分かる。横断する形で×が並んでいるのが滝であり、瀬である。戦時中、フランス軍がここだけ船舶輸送を諦めて、コン島とデット島に線路を引いたのもよく分かる。ちなみに、川岸と接している、一番東側の×の並びがここコーンパペーンだ。
入場料9,000kipの元は取らねばと滝に向かうが、水量が前回と比べておかしいくらい増えていて、完全に印象が違う。東南アジア最大の滝というだけあり、昨日のソンパミットの滝とはスケールが違うので、その分迫力も違う。これが『暴れメコン』の真の姿なのか。
(上記の場所をそれぞれ五月と比べると、遠景、アップ、下流とこれだけ違います。あきれるしかない差ですね……)
正直乾季と比べると、迫力と引き換えに美しさは損なわれていると思う。仕方ないけど。
途中、様子を見に来たお父さんが横合いの道から滝の間近まで連れて行ってくれた。目の前まで来ると、さらに迫力が増して、恐怖感すら覚える。
たった一歩を踏み出せば、確実に命はない。大自然の前では、人間一人の命なんて本当にちっぽけなものだと改めて痛感させられた。というか、こんな近くまで安全対策もなしに近づいていいんだろうか?
なんにせよ、来てよかった。これを見れたなら35,000kipは高くない。
激流を遡る形になるため、行きの倍以上の時間をかけてコン島に戻る。
途中、集落とも呼べない島の一角に、ぽつんと家が建って畑が耕されているのを何度か見かける。確かにボートさえあればどこででも暮らせるんだろうけど、それでもなあ。いったいどんな暮らしなんだろう。
宿に戻った時点で時刻は3時。ボート代金の支払いをしていると、朝、宿を出て行ったはずの白人カップルが戻ってきた。険しい顔で首を横に振りながら言うには、「カンボジアとのボーダーは閉まっていた」とのこと。まあ、それを覚悟の上でチャレンジしたんだから仕方ないよなあ。
一息ついてからソムサヌークの所に遊びに行き、今日もまた折り紙やデジカメで遊ぶ。
お父さん、
「今度真ん中の娘に日本に電話をかけさせるから、電話番号を教えてくれ」
って、僕がいないところにかけても無意味でしょう?
それ以前に高い国際通話料金を使ってなんのためにかけるの?
って、第一この島には電話が一台しかないんじゃなかったのか。え、真ん中の娘はビエンチャンの学校に通っている?
いやそんな、会ったこともない人から電話貰っても困るんですが。
(ソムサヌーク一家と僕。一家が一番いい顔で写っているのでアップしましたが、自分が写っているのは堪らなく照れ臭いので、過去ログ行きになった時には差し替えるかも(^^;)
五時過ぎ、ソムサヌークのお兄さん(ポーイという名前らしい)に連れられて、またソンパミットの滝を見に行く。
ソンパミットは何回も見たから別にいいんだけどなーと思いながらついて行くと、滝のそばで以前ポーイがやっていて、今は潰れたというレストランを見せてもらった後、ぐいぐいと獣道を南下しはじめた。おいおい、この道の感じだと、地元の人もあんまり通ってないんじゃないか? 夕方という時刻と人気のなさもあり、ラオス人の人のよさを知らなかったり知り合いじゃなかったりしたら
「こいつ、人気のない所に連れて行って強盗する気じゃないだろうな?」
と思いそうな所をずんずん進んでいく。10分あまり、岩場を降り、枯れ川を道として進んでいく。
と、突然視界が開けた。
驚きのあまり、一瞬言葉が出なかった。
視界一杯に、雄大なパノラマが開けていた。島の南西部からカンボジアの森を望む、広大なメコンの流れを見渡す光景。乾季なら、幾重にも重なる滝の連なりが見られたであろう川の流れは、濁流渦巻く雨季の今は圧倒的な迫力を持って迫ってくる。これは確かに、戦時中、フランス軍が川による物資の輸送を諦めるわけだ。
こんな景色があるなんて知らなかった。
(僕の腕ではこの雄大な景色を写真に納められませんでした。無念。)
ポーイはさらに獣道を分け入って行き、今度は静かな湾口を見せてくれた。地元民しか知らない港か水浴び場なんだろうな。暴れメコンもこの湾内では大人しくしている。
一人じゃ絶対ここまでは来れなかった。地元の人と仲良くなると、見れる物事の深さが違ってくるなあ。二度目のシーパンドン、来て本当に良かった。ありがとう、ポーイ。
すっかり暗くなった帰り道、ソンパミット脇の売店のところでソムサヌークが我々2人を待っていてくれた。ありがとう。今日はこの兄妹に心から感謝。
帰路、ラオラーオの飲みすぎでふらついている人がいた。ガイドブックに書いてある、ラオス人にとってもきつい酒だってのは本当なんだな。
夕食はもちろんソムサヌークレストランで。ソムサヌークは若いながら、立派な戦力だ。外人の注文を英語の分からないお母さんに翻訳して伝えている。そういや彼女、今日はシンを履いてるなあ。初めて見たよ。
レストランから宿へと帰る途中、カラオケビデオショーをしている店があった。祭りでもないんだろうけど、モニターに映像が出るもの自体が珍しいらしく、子供も大人も一杯集まって人だかりになっていた。
そして夕焼け。久しぶりに凄く綺麗だ。やっぱりここの日没はいい。極彩色なのにくどくない、独特の日没だ。思えばここシーパンドンの思い出は、この夕焼けのようなものだ。色鮮やかで鮮烈なのに、さわやかだ。
ここコン島の夜は、静かだ。人工物の音がしないのは当然として、メコンの只中にある島だと言うのに、川の流れの音さえしない。あるのはただ、虫の音と滝の音のみ。静かだ。こんなに静かなのは、他にはマレーシアのチニ湖しか知らない。日本ではどんなところでも、人が暮らしているところだと必ず車の音がするもんなあ。
今夜は先のビデオショーをしていた店屋でカラオケ大会が開かれているらしく、遠くからいつになく賑やかなざわめきが聞こえてくる。それをBGMに、オイルランプの灯りの下、ハンモックに揺られながら日記を書き、早々に眠りについた。満ち足りた一日だった。
ラオス 9月15日(日) シーパンドン(ドン・コン)
今日は非常に天気がいい。川に面したベランダでくつろいでいると、バンガローの壁に使われている椰子の葉の臭いと相まって、実に気持ちがいい。
10時半、ソムサヌークレストランへ。今日はソムサヌークの兄、ポーイとコン島の最南端にある集落、アンコーン(HANE
KHONE)に行く約束をしている。ポーイはとうに準備を済ませて待っていた。交通手段は当然、自分の足だ。
連れ立って歩いていく。
道中、ポーイは出会う人皆に声をかけていた。小さい島だから皆知り合いなんだろうな。
そこで
「どこに行くんだ」
との問いに
「アンコーンに行くところだ」
と答えると、皆驚いていた。普通は用事もなしに行くところじゃないのかな。
ソンパミットの滝に続く道の途中から、川イルカウォッチングの船着場へ続く道に折れ、そこからさらに左に折れる。一人で歩いていたら、決して折れてみようとは思わない道だ。しかも途中、ただの広場とかに出て、道自体がなくなっていたりしたし。
それでもポーイに導かれるまま、ずんずか進んでいくと、旧の線路跡に出た。このあたりはもちろん初めて来た場所だ。
思うんだけど、せっかく路盤がほぼ全路線に渡ってしっかりと残っているんだから、再整備して豆汽車でも走らせれば観光の新たな目玉になるんじゃないだろうか。でも今現在、元線路だったところは九割方、地元の主要道路として定着しているから難しいだろうなあ。まあ、そんな金があれば、先に機関車をもっときちんと保存しているか。
道はずんずんと伸び、緑深い雑木林の中を進んでいく。所々にある田んぼでは、陸稲が作られている。これがカオニャウに繋がっていくのかあ。そして、そんな田んぼのそばでは農家の人が水牛を散歩させている。
1時間経ち、ようやくアンコーンに着いた。小さい島だと思っていたが、ポーイの言う通り、片道1時間かかってしまった。ポーイと雑談しながら行ったので、退屈はしなかったけど。
アンコーンは、小さな、本当に小さな村だった。ゲストハウスなんてもちろんない。が、雑貨屋は2軒あるし、小さいが学校もある。
そして、わざわざ来るだけの価値があるところだった。ここから南側、カンボジア方面を望むと本当に素晴らしいパノラマが広がっている。まあ確かに、行きにくいシーパンドンの最果てというプラスアルファはあるかもしれないけど、この眺めはいい。
対岸のカンボジア、シーパンドンの他の島々が遠くに広がり、その間に所々波立ちながら、雄大なメコンがとうとうと流れている。真正面にはカンボジア、さらには東シナ海へと続く本流のメコンが水平線の彼方まで伸びており、その上には雲が、遠く、遠く積み重なっている。こういう景色、好きだ。
そしてここ、アンコーン自体もなかなか面白い。大東亜戦争時に旧フランス軍が作った船⇔鉄道の荷物積降用のコンクリート製施設がしっかり残っているのだが、これが島の自然や集落の雰囲気と見事なまでにミスマッチで、それが逆にインパクトになっている。
オイルタンクまで従えた、デット島のそれよりはるかに大きい構造物が、緑に覆われた素朴な辺境の島の果てに突如現れるという違和感。
損傷がかなり激しいが、ここにもSLが一両残っている。ガイドブックによってはここの一両の存在が知られていないものもあるくらいだが、もう一両よりはるかにボロボロで、恐らく住人にも省みられていないのだろう。が、それがまた風情と言えなくもない、というのは旅人の勝手な感傷だろう。
この集落でも貸しボートが川イルカ&国境見物用にあるようだが、そもそもここまでのアクセスが悪いので、あまり観光客は来ないんじゃなかろうか。だけどここはいい所だ。来た甲斐があった。誘ってくれてありがとう、ポーイ。
こんな所でも、いや、こんな所だからか、民家のうち何件かは衛星放送受信用のでっかいパラボラアンテナを立てていた。東南アジアを旅していて見慣れてきてはいるが、やはりインパクトがある。テレビによる情報の共有化は世界レベルで急速に進んでいるんだなあ。
そういえば来る途中、コン村のひとつの民家から突然大歓声が聞こえてきたのでポーイに何かと尋ねたら、ムエタイだと言ってたし。ラオスとタイの関係って本当に密接なんだなあ。
帰り道、今度は基本的に線路跡を通って宿のあるコンの村に向かう。途中、アンコーンの村人が集団で釣りに行くのに行き会った。珍しい光景なので写真を撮りまくる。本当、ここに来てから写真の枚数が激増している。
ソムサヌークレストランに帰り着いて、昼食。焼き魚と春巻きを頼んだだけなのに、サービスでバナナと山盛りのご飯がついてきたため、さすがにお腹がぽんぽこぽんだ。僕が食事をしている間、お父さんはずっと漁に使う網を編んでいた。やっぱり漁師さんなんだな。
雑談しながらゆっくりと食事を終えて午後三時、宿に戻ってシャワーを浴び、ハンモックにごろり。至福の一時だ。
同じ宿のニュージーランド人親子と雑談したりしていると、隣の部屋に新しい宿泊客がやって来た。スイス人の女の子が一人。ラオス南部を見にきたそうだ。
そうこうしているとウチダさんが戻ってきた。なんでも今日はレンタサイクルでデット島の北端まで行ってきたとか。往復で10キロほどか。アンコーンまでの往復と似たくらいだと思う。向こうではツーリストを数人しか見かけなかったらしい。やはりオフシーズンなのかなあ。
とか取り留めもなく考えながら、ゆるりとした時間を過ごす。これがこの島のよさだ。できるものならずっとここにいたい。
今日も夕焼けが綺麗だった。
いい夕焼けに出会うと、心が洗われると言うか、もの悲しい中にも荘厳な雰囲気があるというか、その世界に飲み込まれるような印象を受ける。そして、自然と写真の数が激増してしまう。他の旅人と話していても夕焼け好きは多いけど、分かるなあ。
夕食は牛のラープ(7000k)とカオニャウ(3000K)、そしてビアラオ2本(8000k×2)。
それにしても、こんなに楽しい毎日を送ってていいんだろうか。
ああ、これだけ楽しいと、寝るのがもったいない。
ラオス 9月16日(月) シーパンドン(ドン・コン)
珍しく早朝に目が覚めたので、部屋の前のハンモックで揺られながら朝の読書。
今日もいい天気だ。快晴というわけでもなく、薄く雲がかかっているので、風が心地よい。まさに別天地。明日にはここを発つので、シーパンドンでゆっくりできるのも今日までだ。だから、今日は何もする気がない。一日ゆったりまったりのんびりと過ごすつもりだ。
8時に外に散歩に出てみると、人気が全然ない。朝5時から動き出す村だから、もう一段落して、ツーリストが起き出すには少し早い時間帯だからかな。
丁度会った宿の女将さんから、
「子供が学校に持って行かないといけないから、1000kip札を500kip札2枚と交換できない?」
と言われた。もちろんいいよー。
昼過ぎまでゆったりと宿で過ごしてから、ソムサヌークレストランへ。お勧めと言われ続けていたパンケーキを食べてみる。中にスライスしたバナナが入っていて、おいしい。確かに言うだけのことはある。だけど、これを写真に撮って、後で送ってって……。
ソムサヌークは午後から学校があるそうで、ブラウスにシンという制服を着ていた。初めて見たよ。
折角なので看板娘と看板猫を一枚パチリ。
明日ここを発つと言うと、予想通り「今晩もう一度来い」と言われた。もちろん行くよー。
折角なので、ポーイやソムサヌークにラオス文字を教えてもらっていたら、ウチダさんがやって来た。ラオス文字を教えてもらっていると言うと、一言。
「明日ラオスを出るのに、今更勉強しても仕方ないんじゃない? どうせなら、これから使う英語とかにすればいいのに」
……えー……。り、理屈じゃないんだよ。今、ラオス文字を覚えたいんだから、それでいいじゃないか。
などと雑談に興じていたら、3時ごろに別の日本人集団がやってきた。大学のゼミか何かだろう、学生4人と教授1人、現地ガイド1人の構成だ。彼らのかもし出す、日本のノリをそのまま持ち込んだような雰囲気に馴染めず、なんだか居辛くなったので退散。どうせまた夕方に来るし。
戻ると隣の部屋のスイス人女性、ナオミが風景画を描いていた。なるほど、こういうのもアリだな。そういや前のシーパンドンで一緒だったまこっちゃんもクロッキーをしていたっけ。彼女は水彩画だ。気合が入っているなあ。なんでもニュージーランド、オーストラリア、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ、ラオスと動いているそうだ。10月にスイスに戻る予定らしい。
ちなみに彼女のナオミという名前は、日本贔屓の親がつけたものだそうだ。日本の影響力は、日本人が思っている以上にあるのかもしれないな。
ウチダさんが宿に戻ってきた。なんでも件の日本人集団は、「ラオスの子供のまっすぐ見つめてくる目が眩しすぎる」からと、たじろいで写真を撮れなかったり、「この島は電気がないのでパソコンやデジカメが使えない」と言ったりしていたそうだ。まあ、ライフジャケットやバンダナを着込んだ小奇麗な格好からして、正直ここでは違和感がある人達だったもんなあ。もっとも、向こうからしたらこっちの方が「日本人だろうけど何か違う人達」なのかもしれないけど。
日本からピンポイントで直に来るとそういうものかもしれないけど、長旅をしている我々旅人との感性の違いに、不思議な気すらする。
夕方までぶらぶらとのんびり歩き回ったり、休んだりしてくつろぐ。
しかし、今日、前回左手首に巻いてもらった紐が切れたのは、なんとも不思議な偶然だ。
六時前、約束通りにソムサヌークレストランに行く。
日が沈んで暗くなってきているが、ソムサヌークのお父さんはまだ漁をしているそうだ。ソムサヌークと一緒に、呼びに川へと足を運んだ。
川辺に出た瞬間、不意打ちのように景色に飲み込まれた。
昼と夜の狭間、いっとき世界が色を失い、蒼と黒のコントラストの中に沈んでいる、どこか影絵めいた幻想的な風景。ふと現実と幻の狭間に漂いこんだような気がして、傍らのソムサヌークが父親の舟を見つけて声を上げるまで、僕は呆然と立ち尽くしていた。
シーパンドンにはまだこんな顔があったのか。最後に見せてくれたのかな。
夕食の後、前回同様ソムサヌークの家族全員に、手首に紐を巻いてもらう(この紐の名前、ど忘れしてしまった。去り行く者の健康と安全を願う、この地域の仏教関係の風習だったはず)。「三年以内にまた来れますように」って……三年かあ。来れたらいいなあ。
そろそろおいとましようかと思っていると、大雨が降ってきた。しばらく雨宿りだ。
少し前からソムサヌークの姿が見えないので尋ねると、僕の宿のほうに一キロほど行ったところにある家にテレビを見に行っているとのこと。ああ、よく人だかりしているあの家のことだな。一回1000kipかかるのでしょっちゅうは行けないとか。うーむ。
しばらくして帰ってきたソムサヌークに頼まれて、雨待ちの間にここのメニューを全て日本語表記に書き直した。ここまで来るくらいの日本人なら英語くらい読めると思うんだけどなあ。とか言いつつ、正直頼まれて嬉しかったり。日本にないメニューや食べた事のないものも色々あったけど、その前にお父さんやポーイと一緒に結構な量のラオラーオを飲んでいたこともあり、酒の勢いで一気に書き上げた。
それにしても今回は子供と遊ぶより、ポーイやお父さんと話す時間が多かったような気がする。お互い言葉がろくに通じない同士なので、3日続けて同じ話を聞かされたりと、しんどい面もあったけど、楽しかった。
8時を過ぎても雨(コントン)が止む気配はなく、もうこうなったら濡れながら戻ろうかと思っていると、お母さんが傘を貸してくれ、ポーイとソムサヌークが宿まで送ってくれた。ありがとう。こういう人の親切に触れると、旅していて良かったと心から思う。シーパンドン、本当にいい所だ。
それはいいけどポーイ、帰路の雑談の中で、「あなたが来てくれて楽しかった」とでも言いたかったのか、「I
love you」と言ってきた。一瞬ホモかと思ってしまったぞ。ポーイの英語も拙いから、変な意味はないと思うけど。
宿に戻ってきても相変わらず雨の勢いは凄いままだった。送ってくれてありがとう、ソムサヌーク、ポーイ。さようなら。これからも家族仲良くな。
この雨、まさか明日の朝まで続いたりしないだろうな? バン・ナカサン行きボートの乗客は僕一人しかいないとか言われているし。それが本当なら、2万kipかかっても仕方ないか……。雨はまだまだ弱まる気配すら見せない。
ナオミが、もしスイスに来るなら連絡してくれとアドレスを教えてくれた。スイスかあ。今のところ予定には入ってないし、何より貧乏旅を続けている身には物価が……。まあ行く時があれば連絡するよ。
眠くなるまで宿の子供達と遊ぶ。子供と遊ぶのは大好きだ。それもやがて終わり、寝床に潜り込む時がやって来た。
いよいよ明日でラオスともお別れだ。
ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic → タイ王国
Kingdom of Thailand
9月17日(火) シーパンドン(ドン・コン)→ ワンタオ → チョンメック
→ ピブン → ウボン・ラチャタニー →
朝6時半起床。朝から雨。
リュックにカバーをかけるなどの旅支度をしてから身支度にかかる。ぼーっとしながら外のトイレへ歩いていたら滑ってこけて、左足の内くるぶしの下を石か何かでしたたか打ってしまった。少しすりむいている。かなり痛いけど、問題なく動かせるし、まあ大丈夫だろう。
7時25分、ボートに乗り込んで出発。本当に客は僕一人でやんの。貸切じゃあこの値段(2万kip)も仕方ない。
改めて自分の格好を見てみる。リュックと着古したTシャツ、半パン、ボロボロのサンダル。いかにも長旅をしてますってスタイルだなあ、よく考えたら。それはともかく、これでお別れだ。さようなら、シーパンドン。
……とか思っていたら、デット島の横に差し掛かったあたりで再度雨が激しくなり、堪らず一時島影に退避することになった。やはりそう甘くはないか。退避して雨宿りしたのがたまたまデット島のゲストハウスの一つで、船頭さんとゲストハウスの姉ちゃんは例によって顔見知りのようで、気楽に雑談に興じている。雨は一向に止む気配を見せないし、僕もぼんやりと雨に霞む景色に浸る。
45分ほど雨宿りしたが止む気配もなく降り続けているので、船頭のおっちゃんと相談して、少し雨が弱くなったところを見計らって強引にナカサンまで突進することにして雨の中、メコンに乗り出した。その間も定期的に船底に染み出してくる水を掻き出す作業は休まない。だってメコンに沈んで死にたくないし。
9時前、ベタコになりながらもなんとかバン・ナカサン到着。料金は予定通りの2万kip。いきなり疲れてしまったよ。8時発のバスには間に合わなかったけど、9時にもあるらしいのでなんとかそれには乗りたい。でないと今夜の夜行でバンコクに向かうというプラン自体が微妙になってしまう。余裕があるならそれはそれで面白そうだが、今回は飛行機の期日の関係もあるのでできればそれは避けたい。
と、マーケット広場前の道に荷物を満載したバスが停まっているのを発見。なんとかなりそうだ。パクセまで1万kipで9時発らしいので、8時45分過ぎから座って待つが、当然定時に出たりするはずもなく、なんだかんだで出発したのは9時48分だった。まあそんなもんだろう。
雨の湿気で車内も濡れまくっており、そんな中に荷物と乗客が寿司詰めになっている。なんだか気がつけば外国人旅行者も沢山いるし。おまえらどこから湧いて出た。白人旅行者は周囲を省みず騒ぐ傾向が強いので、満員のバスの中では困ったちゃんだ。アジア人は大人しいからあまり注意もしないし。もちろん僕も無用のトラブルを避けるため、放っておく。バスが一時間程進んだあたりで雨が降ったり止んだりになってきて、さらに一時間程進んだあたりであがった。ふう、やれやれ。
途中の休憩停車時に物売りのおばちゃんからピンカイ(2000kip)と甘い芋の串(1000kip)を買う。今日は焼虫の串を見かけたら買って食べてみるつもりだったんだけど、いなかった。残念。前回勇気を出して食べておけばよかったよ。
途中、二十歳くらいの若者の軍人さんが一人、迷彩服に銃といういでたちで乗り込んで来た。こんなところで一人だけ、しかも公共のバスに乗るというのがよく分からないけど、やはり本物の銃は迫力がある。軍人の兄ちゃんは若いだけあって、引き締まった厳しさとあどけなさの両方を感じさせる顔立ちだ。
12時半にパクセの東バスステーションに到着。おお、速い。正味3時間かからずに着いてしまった。
ここで毎度おなじみ、外国人目当ての客引きが何人も乗り込んできた。停車前なら解らんでもないが、停車後に来るのはいただけない。こちとら何時間も蒸す車内にいて疲れてるんだ。が、向こうも勧誘に熱心なあまり、出口をふさいでどく気配がない。
「邪魔や! まず降りさせぇ!」
こういう時は日本語で十分。どいたので外に出て、交渉開始。って、ここから市場横のバスターミナルまでトゥクトゥクで3,000kip。客は僕一人しかいないけど、そんなに安くていいのか? ラオス人ってば。
市場横のバスターミナルに着いたら、今度はタイ国境までの足を確保しないといけない。軽トラを改造したちびソンテウ(勝手に命名(^^;)の運ちゃんが声をかけてきた。
「タイ国境まで200バーツ」
冗談でもふっかけ過ぎだろそれ。試しにキープで値段を言わせてみると
「15,000(フィフティーン・サウザンド)kip」
おいおい、200バーツはキープにしたら約5万kipだぞ。もしかして「フィフティー・サウザンド」と言いたかったのかな? まあどちらにせよ、僕はここから先の適正価格が10,000kipだと知ってるから、当然そこまでまけさせたけど。他に客がいないので、ソンテウが一杯になるまで待つ。しばらくして数人の現地人と白人がやって来た。白人に何か見覚えがあると思ったら、ナカサンからのバスで一緒だった人達だ。満員にはならなかったけど、運ちゃんがこれ以上待っても無駄と判断したのか、1時に出発。
この辺りまで来ると、雲は多いがしっかり晴れていて、濡れていた服も乾いた。運転席の屋根の上にラジエターの水入れがあり、それに穴が開いていて水が思いきりかかりまくったが、これくらいはラオスだし別に。このちびソンテウ、途中の乗降がなかった事もあって快調に飛ばし、なんと1時45分にワンタオ(ラオス側の国境の町)に到着した。
荷物運び屋さんのリヤカーにリュックなどを積み込み始めた白人さん達を尻目に、一人イミグレへ。簡単に出国手続き完了。あれ、手数料は要らないの? ラオスから出る時に必要なのは土日のみ、とかなのかしらん。ともあれイミグレ横の両替所で手持ちのキープをバーツに両替。138,100kip→545バーツ。文句のないレートだ。端数が飲み込まれるのは当然だし。
とっととタイに入ってしまうのもなんだか寂しくて、国境地帯にある免税店に入ってみる。ラオスのいい感じの絵葉書でもないかな。と、店内に入ってびっくり。なんとそこには、10人ほどの日本人ツアー客が。このボーダーを使うツアーって、何しに来てたんだろう。その中の一人、若い兄ちゃんの声が聞こえてきた。
「タバコ1カートンが400バーツ……1200円か、安い!」
はあ。僕はタバコを吸わないから相場とかは知らないけど、400バーツもするものを安いって……これがジャパンマネーの力ってやつか……なんか哀しい。
ところで1200円って、日本ではどれぐらいの価値だっけか? いかん、旅が長くなって数字や理屈の上ではともかく、皮膚感覚としての日本の物価を忘れてきている。
そしてタイ入境。入国イミグレには僕と白人の兄ちゃんが一人の2人のみ。相変わらず、ここのイミグレの人は愛想がいいなあ。無事入国。
バス乗り場の方へのたのた歩いていると、大型自動車を使ったソンテウの前で手招きする人影が見えた。この格好を見て呼ぶと言う事は……やはり、ピブン行きだった。待ち時間ゼロで発車。2時21分。値段を聞かずに乗り、降車時に黙って25バーツ渡す。OK。相場を知っているってのは、やっぱり強い。
結構途中で停車したが、それでもかなり快調に飛ばしていたようで、一時間も経たずにピブンの町に到着。今回も道端で停車したと思ったら、ウボン行きのバスが待ち構えていた。ターミナルまで行かずに乗り換えるのはもう、そういう決まりなのかな? よく見たらここ、前回と同じ道端だし。
今度はタイの地方では毎度おなじみの古い路線バス。今度も集金時に黙って20バーツ渡す。OK。天気がよく、疲れも出てきたのか、うとうととする。その間にもバスは道を走り続け、4時35分、ウボン・ラチャタニー駅前に到着。
朝、島で猛烈なスコールに襲われた時はどうなるかと思ったけど、接続が凄く上手くいったこともあって目論んでいた時刻に無事到着できた。
前回と同じ外国人用チケット販売所、というか駅務員室に見えるところで今夜の寝台券を購入。もう、当日の寝台でも空きがあって当然という頭で動いているが、結局タイでは問題は一度もなかったなあ。19時15分発予定、バンコク翌朝5時35分着予定、二等寝台ファン付きの9号車7番。せっかくだから一度くらい一等寝台に乗ってみてもよかったかなあ。
駅の屋台ででかいピンカイ(40バーツ)とカオニャウ(5バーツ)、アイス2玉(10バーツ)。しみじみ。もう特にする事もないので、ぼーっと駅のプラットホームで時間が来るのを待つ。
と、18時になった時、何やら放送が流れだした。どうやら国王関係の何からしい。その放送を聞いた途端、周囲のタイ人全てがその場に直立不動になって放送を聞いていた。え、これ、毎日の事じゃないよな? 映画館で上映前にしていたのに次いで、見たのは二回目だ。トータルしたら一ヶ月以上タイにいたとんだけど。
時間が来て、列車が入線してきた。勝手知ったる列車に乗り込み、やがて列車は発車した。今回相席になった人は、アメリカ人だった。30〜40代の人で、なんでも昔、3年ほど大阪は江坂に住んでいたそうだ。その関係で、阪急電車が好きらしい。……なんかここんとこ知り合う白人さん、こういう人ばっかりな気がする……。
窓からは温度・湿気・風力、全てがいい具合に気持ちのいい風が吹き込んでくる。窓の外を流れる夜景には、適度な間隔を置いて常夜灯と車の灯りが浮かび上がってくる。なんか日本の田舎の夜景と似た感じだなあ。
それはともかく、前回も思ったけどシーパンドンとの落差が大きすぎる。
タイ 9月18日(水) → バンコク
55分遅れの6時20分、ホァランポーン駅に無事到着。まあこんなもんだろう。
カオサン方面に向かう53番バスはすぐ来た。どうせ一晩だけだし、気分転換に宿を変えてみるかとピーチーゲストハウスを覗いてみたが、うるさいし独房っぽい雰囲気だったしで止め、いつも通りにPSゲストハウスへ。
シャワーしてからフロントのコンセントを使い、充電池の充電を頼む。シーパンドンですっかり使い尽くしてしまったし、明日からヨーロッパへ移動するから、今しかない。シーパンドンからの移動中、リュックにはレインカバーをかけていたんだけど、それでもかなり水が入ってしまっていた。まあ、あれだけ降られたら仕方ないかなあ。本もかなりやられていた。中でも酷かったのが、最近買ったばかりのロードオブザリングの原書一巻。海外のペーパーバックって、紙質あまりいいことないのかなあ?
とにかく、今日はする事が多い。とっとと出かけないと……え、洗濯機が壊れてる? 仕方ないので町の洗濯屋に洗濯物を抱えて行く。2キロで50バーツ。夕方6時に仕上がるらしい。明日タイを発つし、その後の動きがまだ読めないので、今日のうちにしておく必要があったから助かる。
アクロスバンコクに行こうと15番バスを待つが、例によって一向に来ない。仕方ないのでボートに切り替え、BTS乗り換えでサラデーンへ、そしてアクロスバンコクへ。ここで念のため、バンコクから日本への帰国チケットを仮押さえしておくことにした。
12月24日発、台北乗り換えで24日の夜、名古屋空港到着。到着後、自宅に戻る前に日本国内で一泊必要になる。
まあ、ヨーロッパでシベリア鉄道を諦め、さらにいいチケットが手に入らなかった時のための保険としてだけど。アクロスバンコクの山内さんには世話になった。ありがとう。
ついでに古本屋に寄ってから、伊勢丹の紀伊國屋へ。地球の歩き方・バルト三国編と最新の週刊少年チャンピオン購入。高いけど仕方ない。これでとりあえず用事は終わりだ。
宿に戻り、一息つく。思いがけずチャンピオンに没頭してしまい、気が付くと夕方になってしまっていた。ネット屋でメールチェックをして六時、外に出ると強烈なスコールの真っ最中だった。近いので走って宿に戻る。
7時、レセプションで頼んでいた8本の電池の充電が終わっていたので受け取る。一階のレストランで夕食を取り、隣のエージェンシーで明日のドンムァン空港までのミニバスを予約し、さらに小雨の中を外へ。
物価の安い東南アジアもこれで終わりなので、散髪をしておこうと思ったので。宿近くにある、以前から目をつけていた小さな床屋に行き、いつものようにパスポートの写真を見せて頼む。50バーツはべらぼうに安い! その分作業の98%はバリカンだったり、顔そりもシャンプーもないけど、文句はない。ただ、短く刈り込む関係上、刈られた短い毛がシャツの隙間から入り込んでチクチクして鬱陶しいんだよなあ。
7時45分、朝頼んでおいた洗濯屋へ。実のところ、頼んでいたことを忘れていて、もう閉店しているんじゃないかとびくびくしていたのだか、なんとか開いていた。助かったぁ。
これでバンコクでの用事は大体終わった。明日出発前にすることも段取りはできている。あとはいまいちなお腹の調子を整えるだけだ。豆乳と乳酸菌飲料を飲み、さらに正露丸を飲む。なんとか治ってくれよ。
タイ王国 Kingdom of Thailand → バーレーン王国
Kingdom of Bahrain
9月19日(木) バンコク → マナーマ
8時30分起床。いよいよ今日、長かった東南アジアを離れる。
さて、その前に細々としたことを片付けておかなくては。
郵便局に行き、ソムサヌークに頼まれていた料理の写真をシーパンドンに送付。あの国の郵便事情で、果たしてちゃんと届くものなのか。
おいしい米なんてこれから当分食べられないだろうから、PSゲストハウス下のレストランでフライドライスを所望。お腹の調子も大分良くなっているし、これなら長時間のフライトにも耐えられるんじゃないかな。
東南アジアから、ずっと寒いところへ一気に移動するということで、着ている服も久しぶりにフル装備だ。足首までのスラックス、ベルト、運動靴、腰巻型の貴重品入れ、足巻型の貴重品入れ。全部を身に付けたのっていつ以来だろう。特にスラックスと運動靴には強い違和感を覚える。ここ数ヶ月、ずっと半ズボンにサンダルだったもんなあ。
……と。
ふと、ついに感じ始めてしまったのを自覚した。旅が終わるという寂寥感を。最長でも年内というのは分かっていたはずなのに、ここまでは実感してなかった。これから先、トルコに着いて以降の事は全くの未定だからまだ気にすることはないのに。
同時に、久々に全てが未知・未定であるが故の昂揚感も覚える。これが旅しているという感覚だ。
二つの異なる感覚に同時に捕われ、言いようのない気持ちで時が過ぎるのを待つ。
3時10分、迎えに来た空港行きのミニバスに乗り込む。旅行者専用のこのミニバスは、立地から予想した通り自分の宿が最後だったようで、空席は一つしかなかった。日本人も僕一人。
空港まで1時間15分〜1時間半くらいかかると言っていたが、想像以上に道が空いていて快調に飛ばしたおかげで、わずか45分で到着した。まあ、空港で慌てずゆっくりできるのはいいことだ。僕自身、飛行機にはまだ慣れてなくて、正直怖さもあるし手続きとかもよく分からないし。
空港は、4月に友人の室を迎えに来て以来だが、やはりきれいな空港だ。あれから五ヵ月半、経ったのか……。
それにしても、やっぱり飛行機の搭乗手続きは分からない事だらけだ。遅れないように早め早めに動いていこう。
まずはチェックイン。16時30分、大リュックを機械に通して係員チェック……おいおい、往復航空券を提示してるのに、
「タイに帰ってくるんですか? その後どうやって日本に帰るんですか? それとも直接日本に帰る航空券をお持ちですか?」
と来たよ。端っから陸路帰国は想定されてないのか。参った。
昨日、念のために日本への帰国便を仮押さえしておいてよかった。でも仮押さえしていることを示すだけでは足りず、クレジットカードを見せたり、パスポートのコピーを取られたり、色々手続きが必要だった。聞きしに勝る用心ぶりだなあ。僕が長期旅行者だから特になのかもしれないけど。
なんとかチェックインを済ませたはいいが、次にどこに行けばいいのかさっぱり分からない。離陸予定がモニターに表示されているのを見ると、なんか自分の乗るGF151便だけが遅れている。3時間遅れだって? 1900発予定だったのが2130発予定に変更されている。安全第一にして欲しいけど、大丈夫なのかなあ。少なくとも乗り継ぎ予定のバーレーンでぐっすり眠る時間はなさそうだ。
夕食のチケットがもらえたので食べに行く。が、このあたりの食堂、全然タイらしくない。小洒落たヨーロピアンスタイルで、量も少なく、食べた気がしない。お腹が空いて仕方がないのでバーガーキングでフーパーとコーラ(101バーツ)。これって大金をはたいた贅沢なんだけど、向こうに行ったらそうでもなくなるんだろうな……。
思いがけずのんびりすることになったのでぼうっとしていると、だんだん眠くなってきた。元々人気の少ない第2ターミナルということもあり、喧騒もさほどではない。
が、左足首の痛みのせいでうたた寝することもできない。コン島の最後で滑って作った左足内くるぶしの傷が痛い。ただの打ち身と擦り傷だと思っていたけど、雑菌でも入ったかな? 移動が落ち着いたらマキロンでもつけてみよう。
1900、ゲートが表示されたので、500バーツの空港使用料を払い、パスポートコントロールを通過。慣れてないのでもたつき、後ろの乗客に舌打ちされる。仕方ないじゃないか。時間ならあるんだし、大目に見てくれよ。
中に入ったところでネット屋を発見。空港内だからか、1分5バーツと滅茶苦茶高い。でもやる。アジアからのメールはこれで最後だし。ミニマムチャージは15分で75バーツ。くうう、痛い。でも、日本語は入力できないと言われていたけどMS-IMEが入っていて、打つことができたからよしとしよう。
もうこうなったら、さっさと搭乗口に行っておこうと移動開始。指定のゲートは52番。ドンムァン空港の中でも外れの外れにあるせいか、時間が早いせいか、広くてきれいだけどガラガラ。なんか物寂しい。
とりあえずヨーロッパでタイバーツを両替してもらえるか不明だったので、手荷物検査所の手前にあった銀行の両替所で済ませておくことに。
5840バーツを1$=43.23バーツのレートでチェンジ。約135$。……ドルになると途端にありがたみが失せるなあ。使いでがないことを実感してしまうというか。タイで6000バーツあれば、10〜15日は楽勝で暮らせるのに、135ドルと聞くと、せいぜい5日くらいかなと思ってしまう。
手荷物チェックを受ける時も僕一人だけだった。X線にざっと通しておしまい。体の金属もフリーパス。あれえ? 関空では偉そうに全ての金属を外した状態にされてチェックを受けたんだけど。どっちが国際的に普通なんだろうなあ。
待合スペースもやけに広いが、1930に着いた時の先客は5人だけだった。まあ、まだ出発まで2時間あるんだからそんなものか。雰囲気も落ち着いてるし、ゆっくりしよう。
トイレが形的にも方法的にも洋式しかないのが意外だった。
それにしても、時差を考えるとバーレーンのホテルに着くのって、タイ時間で考えると深夜もいいところなのでは。飛行機の中でも眠れるなら眠っておくべきなのかも。
だんだん集まってきた乗客を見ていると、さすがはバーレーン、アラブ圏行きの便だとの実感が湧いてきた。黒人ビジネスマンがマイ絨毯を敷いて、イスラムのお祈りをしている姿がそこここで見られる。今まで見かけることのなかった光景だ。
がらんとした中で本を読んだり日記を書いたりぼんやりしたりして過ごしていたが、ボーディング時刻が近づいてくると一気に人が増えてきた。2120、ボーディング開始。当初の予定よりさらに遅れたようだ。当然離陸時刻もその分遅れ、乗り込みが完了して動き出したのは2200だった。これはもう、バーレーンに着くのは現地時間でも日付が替わった後だなあ。
飛行機に乗るのは久しぶりだし、まだまだ慣れていないこともあって、発進前にはどうしても手に汗をかいてしまう。でも、離陸は滑らかだった。加速が足らないんじゃないのかと思うほどに。
タキシングロードを流れていく誘導灯が黄・赤・青と綺麗だった。
そしてそのまま、滑るように離陸。
ぐんぐん機は上昇していき、窓の外にバンコクの夜景が見えてきた。
思わず息を飲んだ。
こんなに綺麗だとは。一面に光の粒が敷き詰められたようだった。まさに光の絨毯。
東南アジアの最後の眺めがバンコクの夜景ってのも悪くない。
さらば、バンコク。さらば、東南アジア。
ちなみに機外情報によると、バンコクは出発時点で30℃だった。って30!? 慣れてたんだなあ。特に暑いとは思ってなかった。
バーレーンまでの予定所要時間は6時間20分。モニターに現在位置が映し出されているので、今どうなっているのか非常に分かりやすい。バンコクを出て、ほぼ真っ直ぐ西に進んでいる。
2224、ミャンマーとの国境の山岳地帯を越えにかかる。どうせ外は闇で何も見えないので、窓際の席じゃないけど別に気にならない。モニターを見ていれば十分楽しめるし。高度22,000フィート、外気‐12℃、時速484マイルと表示されている。フィートとかマイルとか言われても、全然ぴんと来ないなあ。
疲れていたので、機内食(ヌードル・チキンの中東か欧州、どちらか風の食事)を食べてから一眠り。気がつけば3時間経っていた。それも軽食のサンドイッチ・コーヒーを配る物音・気配で目が覚めた。ここから先は食費も高くなってくる。食べられる時にしっかり食べておかないと。
現在位置はインドを抜け、アラブ半島が近くなってきたところだ。
タイ時間だとそろそろ4時だけど、これから訪れるアラブ近辺は夜はまだこれからなんだよなあ。飛行表示を再度見ると、高度35,000フィート、外気−42℃、時速548マイル。ふぇー。飛行機の到着予定時刻はさらに遅れ、0時42分になっていた。
その時刻が来ると飛行機は高度を下げだした。気候条件がいいのか、パイロットの腕がいいのか、滑らかな降下だ。そのうち窓外に空港が見えてきたと思ったフらスムーズに滑走路に進入し、無事に着陸した。
バンコクでは朝方かもしれないが、こっちではまだまだ夜はこれからだ。
けど、やっぱり眠い。その眠さを我慢して、トランジット手続きの列に並ぶ。これがまた、全然動かない。せめて1時半から2時の間にはホテルに投宿していたいと思っていたのだが、甘かった。トランジットが何とかなった時点でもう1時40分。さらにイミグレでトランジットビザ(24時間有効)の手続きをしてもらい、ようやく外へ。
空港の下で他のトランジットするらしい乗客とともに、航空会社が手配してくれているバスを待つ。疲れているのか眠いのか、誰も口を開かずぐったりしている。周りを見ても、日本人どころかアジア系自体、僕しか見当たらない。タイミング的なものか、そもそもこっちの方では少ないのか。
やがてやってきたバスに乗り込んだ時点でもう2時20分。眠いよ……。
深夜のバーレーンを走り出すと、いきなりおなじみの『SHARP』の看板が目に入ってきた。つくづく世界企業なんだな。
小さな橋を渡り、空港のある小島からすぐ隣にある首都マナーマに入る。バーレーンは本当に小さな島国だというのに、マナーマは想像以上に都会だった。常夜灯は煌々と灯り、こんな時間でも人通りもそれなりにあり、あまつさえある程度店も開いている。凄い。看板を見ていると、アラビア語と英語の並立世界のようだ。面白い。
やがて、バスがホテルに着いた。明日の朝も早いから、とっとと寝よう……って、え? なんで宿泊者リストに僕の名前がないんだ? トランジットだから航空会社が責任を持って手配してくれてるはずだけど……?
問い合わせてもらうと、バスが間違えて別のホテルに降ろした事が分かり、とっくに行ってしまったバスに代わってそのホテルのスタッフに正しいホテルまで送ってもらった。ありがとう。そして頼むよ、もう。
そんなこんなで本日の宿、BAISANインターナショナルホテルの603号室に着いたのが3時過ぎ。明日の8時20分にピックアップのバスが来るのに、寝てる暇あるんだろうか。仕方ない、ともかくシャワーを浴びてから寝よう。
ここはムスリムの國ではないのか、イスラム教徒ももちろん見かけるけど、そうでない人もいっぱいいる。テレビでも英語でポルノ関係のCMをばんばん流しているし、そこらを歩いている女の人でもイスラム頭巾をしていない人はいくらでもいる。そういやこのホテルに来た時、エレベーター前で一緒になった数人の女の人がアラビア語で話し掛けてきのだが、皆陽気で大柄で、親しみやすそうな感じだった。
それにしても左足踝、痛いなあ。雑菌が入ったとかではなくて、もしかしたら骨に影響があるのかも。じっとしてたら全然痛くないんだけど。これはイスタンブールに行ったら一度、医者に行った方がいいかも。
バーレーン王国 Kingdom of Bahrain → トルコ共和国
Republic of Turkey
9月20日(金) マナーマ → イスタンブール
●駆け抜けろバーレーン
ヤバイ。昨日よりも確実に痛い。足首。もうあかんのか。
ともあれ飛行機の時間のため、7時に無理矢理起きた。ううう、眠い。外は実にいい天気だが、寝不足の身には眩しすぎるよ……。
朝食サービスがあったはずだと思い、フロントに聞きに行くと、
「ルームサービスで頼んでくれ」
……うーむ、英語で電話をするのはまだ抵抗があるんだが……そうも言ってられないか。
勇気を振り絞って電話をコールしてみるが、案の定というか、知らないor聞き取れない単語が重要な部位に入ってくるとお手上げだ。電話はこういう時、ジェスチャーが使えないのが辛い。まあ、それでもなんとかルームサービスは頼めた。と、思う。来なかったらその時はその時だ。一日やそこら食事を抜いても問題ないし。
レセプションから、
「バスが8時半に来る予定なので、8時から8時10分頃までには下に降りてきてくれ」
と連絡が入る。分かってた事だけど、余裕ないなあ。次はルームサービス係から電話。
「ティーとコーヒー、どっちがいい?」
さっき聞き忘れてたのね。ティーよろしく。うーん、ばたついてるなあ。
こんな調子で、朝食は出発までに間に合うんだろうか。加えて眠いし。痛いし。
とかわやわやしているうちに朝食が届いた。
このでっかい銀の蓋を開けると……。
うわあ、いかにも「西側」っぽい朝食だ。味も結構よく、ボリュームもあったので満足。
チェックアウトしてから、ロビーでバスを待つ。
思いのほか時間があったので、外に出てみる。日差しがきつい。
今までもタイとかを旅してきて暑さには慣れたつもりだったが、ここのはまた違うきつさだ。刺すような感じ。朝の八時過ぎの時点でこうなら、昼間はどうなってしまうんだろう。まあ、こっちはそれより先に旅立ってしまうんだけど。
やって来たバスで15分ほどのショートトリップ。途中、空港のある島へ向かう際に橋を渡るのだが、そこで見えた海の色が、これまで見たどれとも違っていて独特だった。薄い青とでも言えばいいのか、日差しの強さを感じさせる色だ。
バーレーンは小さな島国だけど、建物はまだ余裕を持って建てられている印象だった。海岸のボート係留所が砂浜にあったり、一角に古い建物が集まっていたりと、興味をそそられる風景にも出会った。そして空港着。
●トルコへのフライト
バーレーン出国にあたって、X線検査が2回あった。ボディーチェックも金属探知バーを使ったチェックが2回。でも、「中の物を出せ」「脱げ」というような扱いはなく、態度は穏やかなものだった。係員もとてもフレンドリーで、感じがいい。
しかしこの空港、さすがと言うか、航空会社のスペースのうち半分がガルフエアラインのものだ。ガルフとそれ以外という分類。ちなみにガルフエアラインはバーレーンの航空会社というわけではなく、湾岸諸国が共同で運営している航空会社だ。だからガルフ。
バーレーンの通貨は1ディナール=1000フィル。そして1米ドル=350フィル。バーレーン土産に新聞を買ったのだが、ディナールを持っていなかったので、ドルで払うことに。英語版とアラビア語版を各一部買い、計一ドルと少し。お釣りに325フィルを貰った。貨幣だし少ないしで使いようがないので、200フィルでマンゴージュースを買い、残りはコインの土産ということに。
飛行機は定時にボーディングを開始した。飛行機に乗り込む時に新聞は貰えたんだった。やられた……。
今日の飛行機は、昨日乗ったものより少し小さい。ジャンボジェットじゃないのか。一列あたりの座席も昨日のは8座席だったが、今日のは6座席だ。通路は真ん中に一本あるだけだし。それだけ近距離のフライトだって事か。いよいよトルコが、ヨーロッパが近付いてきたんだな。座席は窓際の10F。窓際はやっぱり嬉しい。
定時にテイクオフ。バーレーンに滞在していた時は島だから分からなかったけど、やはりアラブ半島は砂漠地帯だ。離陸してすぐのうちは石油のパイプラインなどが見えていたのだが、すぐに陸=砂漠の茶色、海の青、空のやや薄い青の三色しか見えなくなった。
と思う間もなく飛行機はアラビア半島の只中に機首を向け、陸と空の二色だけになった。
12時45分、前方に海が見えた。案内ディスプレイによると、機体はほぼ西を指して飛んでいる。どうやらイラクの領空を通らず、その国境近辺をかすめるようにサウジアラビア、ヨルダンといった国々の上空を駆け抜けたようだ。陸地を抜け、地中海に出た。北に目をやれば、トルコ。
こんな遠く、上空はるかから見ても、海岸地方には人の手も入り、緑豊かなのがよく分かるんだけど、中央高地というか、少し内陸部に入って一気に標高が高くなるあたりとの境目が非常にはっきりしている。飛行機から見ると、海岸近くに細い帯状に広がる緑地帯の上に、エアーズロックの斜面のような印象の傾斜が延々と横たわり、そこから上は急に剥き出しの土の茶色。緑がないわけではないが、ベースはあくまでも茶色。ものすごくはっきりと分かれている。
1405、予定時刻よりやや早めにイスタンブールのアタテュルク空港が迫ってきた。
それはいいんだけどこの飛行機、道中もしばしばなんか不安定にふらついていたし、滑走路の上に来たこの期に及んでもなんかふらふらしている。大丈夫かおい。このまま死ぬなんてごめんだぞ。
着陸が完了する最後の瞬間まで不安ばかりだったのだが、全車輪が接地して減速を開始した瞬間、機内の乗客から盛大な拍手が沸き起こった。
みんな同じ気持ちだったんだなあ。下手なパイロットに命を預けるのはぞっとしないよ。ともあれ、五体満足で到着できた。ほっ。
●トルコ、アタテュルク空港にて
空港はイスタンブールのヨーロッパ側にある。生涯初のヨーロッパだ。
ともあれ入国審査を受けるべく、膨大な人の流れに乗って審査に向かう。入国審査、荷物受け取り。時間はかかるが、問題なく進んでいく。足はやはり痛い。じっとしてたら何ともないし、慣れれば普通に歩けるけど、ふとしたはずみで激痛が走る。軟骨かな? 大事なければいいんだけど。
外に出た瞬間に客引きが声をかけてきた。ああ、やっぱりこっちにもいるんだ。
ここの客引きはなかなかに粘り腰というか、結構しつこい。
「どこ泊まるの? フレンド、いいホテルあるよ。予算は6ドル以下? 大丈夫。街中までセルヴィシュあるよ。大丈夫、俺はパブリックインフォメーションの者だ」
そんな奴がこんな超アグレッシブな客引きやるわけなかろうがぁ! そのマシンガントークの勢いのまま、引っ張り込まれたのはレンタカー屋。いきなりばれる嘘ついてちゃいかんだろ。ま、ぼったくりであろうとなかろうと、高けりゃ今の僕には用はない。どのみち手持ちのお金も少ないし。
客引きを無視して外に出、ATMで引き出そうとしたら、なぜかさくらカードがうまく使えない。金額入力画面まではいくんだが。粘り腰で付いてきていた客引きがしたり顔で言う。
「ならホテルに行って、そこのATMですればいい。この空港にはATMはこの一つしかないぞ」
あーはいはい。ここまで露骨な嘘だと、もう受け狙いで言っているとしか。6ドル以下で泊まれる宿にATMがあるわけないし、こんな大きな空港にATMがここ一つしかないわけないし。
こちとらヨーロッパはおのぼりさんでも、海外自体はもう半年近いキャリアがあるんだよ。初めて来た地、初めて来た國で、勝手に言い寄ってきた初対面の人にいきなり丸投げするほど愚かじゃない。ちゃんと見て考えてから、丸投げするならするで人を選んでするよ。兄ちゃんではダメ。でも、こうやって来るってことは、丸投げしちゃってボられちゃう人もいるってことなんだろうなあ……最初は全ての人を疑ってかかるべきなのに。ま、僕も初めてベトナムに入った日に激しくボられてるからあまり偉そうな事は言えないんだけど。
いい加減鬱陶しくなってきたので、どこまでもしつこく付きまとってくる兄ちゃんをなんとか振り切って、他のを探す前にもう一度同じATMに戻る。もう一枚持っている、三井住友のカードを試してみたらいけた。提携先のPlusとCirrusの違いかなあ? とにかく二億五千万リラ下ろす。お札には0がずらずらと並んでいてもう何がなんだか。1円が大体1万3千リラなので、1ドルが約164万リラらしい。大体二万円か。ドルの方が割がいいんだな。
ともかく現金をしまい込むため、安全そうな場所を探して空港をうろつく。気がつけばアッパーロビーの奥のほうまで来ていた。ここまで来ると人通りも少なくなり、落ち着ける。なんかサッカーの大きな国際大会があるのか、サポーター軍団が騒ぎながら旅立っていったが、それ以外は静かなものだ。ついでなのでガルフエアのオフィスを探し、リコンファームをしておくことにする。これが間借りオフィスが建ち並ぶ一角の小さなところだったので、全然見つからずに往生した。だからこそ、今しておいてよかったとは思う。
一通りの作業を終え、一息ついて時計を見たら16時10分。空港に到着してから2時間が経過していた。気温は24℃ということで、少し肌寒いかな?
ともあれハワシュ(シャトルバス)乗り場へ移動。トラムの乗り場であるアクサライまでは500万(5ミリオン)だから、400円位か。ま、エアポートバスは高いものだから仕方ない。早くこっちの金銭感覚を掴まないといけないな。綺麗で清潔で近代的なエアポートバスで、イスタンブールの街中へと乗り出した。
●初見、イスタンブール
バスはイスタンブール市街を東へ、中心部へと進んでいく。
ここまで見た風景からすると、イスタンブール、かなり感じが良さそうだ。海沿いに進む道から望む海と対岸、そして時々現れる城壁跡。ここが古いイスタンブール、コンスタンティノープルの町だということが実感できる。歴史を感じさせる風格のあるイスラムのモスクがいくつも、当たり前の顔をして建っているあたり、かつてオスマントルコ帝国の帝都だったことを思い出させる。
また、町が綺麗だ。至る所がきちんと手入れされていないとこうはいかないだろう。さすがは世界有数の観光都市。
土と木、茶と緑でできていたアジアとは違う地に来た事が実感できてきた。
乗り換えのため、アクサライというバス停で降りる。トラムヴァイ(早い話が路面電車)乗り場へ。こちらはジェントンというコイン様の切符を購入して乗り込む形だ。一枚65万リラ(50円)。
ここのトラムも新しく、立派なものだった。路面電車、好きなんだよなあ。混んでいてドア近くに立ちっ放しだけど、気にならない。イスタンブールは坂のある町なので車窓風景も楽しい。
ハワシュは郊外を走っていたので風景、町並みが中心だったが、トラムヴァイは市街地を行くので、町を往く人々の姿も見えてくる。トルコというアジアとヨーロッパの境目まで来たからには、はっきりしたアジア人はいなくなって違和感を覚えるだろうと思っていたのだが、今のところ、意外にそんなことはない。人々は明らかに大柄になり、顔立ちもヨーロッパ系になっているんだけど。髪や瞳の色が濃い人が多いからかな。
それと、ここまでの勝手な印象では、女性がきれいで女の子がかわいい。エキゾチックな顔立ちというか、なんかいい感じの人が多い気がする。
とかなんとか観察しながらの楽しい一時を過ごし、安宿が多くあるというスィルケジ駅で降りようと思っていたところ、その一つ手前の停留所から一駅の間、渋滞に巻き込まれて動かなくなってしまった。車と道を共有するトラムならではだよなあ。今回は大荷物を背負っていることもあるし、大人しく乗っていよう。
待つ事約二十分。どうにかスィルケジ駅に着いたので降りようと、リュックを抱え上げようとしたら、これがびくとも動かない。なんだ?
見ると、ドアの隙間にリュックのベルトががっちりと挟み込まれていた。前回開いた時に挟まれていたんだな。こっち側のドアが開いてくれたら問題なく降りられていたんだけどなあ。ともあれ、このままではまずい。ぐいぐい引っ張ってみるが、バックルが向こう側でつっかえ棒の役を果たしていると見えて、びくともしない。駄目だこりゃ。
ここで大騒ぎすれば降りれるかもしれないが、周囲のトルコ人や観光客に失笑された挙句、
「ドアにリュックを挟んで降りられなくなった間抜けな日本人」
のレッテルをヨーロッパ初日にいきなり頂くのは嫌だ。
ということで当面の恥ずかしさを回避することを優先し、そのまま素知らぬ顔で乗り続けることにした。幸い、あと二駅で終点のエミノニュに着く。そこでもドアが開かなかったら、その時は泣きつくしかないと覚悟していたら、幸運にもこちら側のドアが開いてくれた。
よしよし、これで僕の自尊心は守られた(←気にしすぎ(^^;)。
エミノニュ駅を出て、外の景色を見る。……やられた……。
金閣湾を望むパノラマに言葉を失う。有名な観光ポイントのガラタ橋のそばに出ていることは知っていた。でも、こんなに広がりがある景色だとは思ってなかった。
ガラタ橋のたもとから金閣湾の向こう、新市街方面を見やると、風景に調和した、歴史があるであろう古い家々が緩やかで広がりの大きい斜面を埋め尽くすように建ち並んでいる。凄いの一言しか出てこない。
正直、イスタンブールにはあまりいい印象を持たずにやって来たんだけど、間違っていた。露店の兄ちゃんの掛け声とかも、野太くてどことなく日本を髣髴とさせて面白いし。
なんかいろいろ負けたような気分になり、癪なので安ホテル地区まで歩くことにした。二駅分と言ってもトラム路線の二駅だから、たいした距離じゃない。
●『日本のホテル』で予期せぬ再会
『地球の歩き方』に出ていたホテル、エメッキを目指す事にする。日本人客が多そうだけど、良さそうな宿っぽいし、いいか。
町を歩いていても、小さい路地に入っても、そんなに汚れている印象を受けない。歴史の重みは感じるけど。あと、歩いている犬がやたらとでかい。リュックを背負っている身では戦えないぞ、こんなのと。
とかして歩いていると、どうにか目指すホテル・エメッキが見えてきた。
……って、看板に「日本のホテル」と日本語で書いてあるぞ?
なんかげんなりしてしまった。やめよっかなー。まあ行くだけ行ってみよう。もう六時で、薄暗くなりかけてきてるし。
ホテル・エメッキの前に着いてみると、なんか歴史と風格を感じさせる建物で、立派だ。本当にバックパッカーが泊まれるような安宿なのか、ここ!?
フロントで聞いてみると、6ドルの部屋はあるとのこと。この感じなら悪くなさそうだ。町を歩いていてもそんなにツーリストを見かけなかったし、時期的に空いているのかな?
今の気温、19℃。ということは、夜には13、4℃くらいまで下がるんだろうな。なんか涼しいというか、寒い。10℃以上あれば寒くはないはずなのに。ここ半年、常時30℃以上はある地にいたから、体が慣れるまでは辛いかも。これなら遠からず、肌も白くなるだろう。
ともあれここに決め、チェックイン。
と、横のこれまた歴史的な調度が整えられたロビーで話していた日本人カップルが声をかけてきた。
「会ったことありますよね。覚えてませんか?」
え?
なんと、一晩だけ過ごしたラオスのバンビエンで夜、出会った江頭さんと福田さんだった。凄い偶然だ。長旅をしているとたまにこういうことがあると言うけど、自分の身に起きるとは思ってなかったな。
2人は僕と別れた後、中国・チベット・ネパール・インドと旅し、そこからウズベキスタン経由の飛行機で昨夜イスタンブールに来たところで、今夜の夜行でハンガリーのブダペストに行こうとするところだったらしい。またも一晩のみの出会い。よくもまあピンポイントで出会えたものだ。日程、場所、どれだけの偶然が重なって出会えたのだろう。世の中は不思議なものだと改めて思う。2人の旅はまだ半年はあるらしい。いいなあ。
話している間に寒くなってきたので、とりあえず部屋に行って荷物を解き、日本から持って来たユニクロのウィンブレを出して着る。部屋はシングル。とはいえイスタンブールでこの値段なのに立派な部屋だ。ありがたい。コンセントもちゃんとあるし。やばい、長居したくなってきたかも。足も痛いし。
下のロビーに戻って江頭・福田さんカップルと話し込んでいると、そこにもう一人、矢部さんという人が加わってきた。ここは本当に日本人宿のようだ。さすがは『日本のホテル』。
その4人で外へ夕食に出かけた。
きれいな食堂を見つけたので入る。トルコ式サンドイッチ150万リラ、ヨーグルト120万リラ、チャイは無料。ロールサンドっぽいトルコ式のサンドイッチは味もよく、思ったよりボリュームがあり、満足できた。
宿に戻る道すがら、四人でぶらぶらと商店を冷やかしたりしながら歩いていると、カタコトながらも日本語で話しかけてくるトルコ人が多い。挨拶だけじゃなく、会話ができるレベルで話せる人がこんなに多いなんて驚きだ。なんか面白い。
宿に戻ってみると、ロビーにはまた別の日本人客が。何人泊まっているんだろう。
江頭さんと福田さんは9時に旅立っていった。お気をつけて。
「では、また」
「ええ、また」
会う予定も知らなければ、メールアドレスすら知らないけど、この挨拶でいいんだ。縁があればまた会うこともあるだろう。
ロビーでくつろいでいると、チャイがサービスで出てきた。ありがたい。
他の日本人旅行者と話していると、さすがは文化の交流点イスタンブール、コアな旅人が多い。僕の旅についてもあれこれ評論された。新客はいじる対象なのかな?
ラオスに一ヶ月いました。
「いいなあ、うらやましい」
マレーシアにも一ヵ月半いました。
「そんなにいたの? 見るところあった?」
ありましたよー。
タイというかバンコクにはには手続きの関係もあって、数えたくないくらい滞在してしまいました……。
「勿体無いなあ」
確かに。
「タイから飛んできてヨーロッパに行くということは、イランに行かないの? 勿体無い」
それは仕方ないんですよ。僕は北極圏に行くのが最大の目的なんですから。
これだけ色々言われるのも、ここイスタンブールからならどこにでも行けるし、持てる選択の幅が広いからなんだろうなあ。
時差というか、昨夜きちんと眠れてないのでいい加減疲れてきた。
外はもう夜だけど、教えてもらった近くのスーパー(雑貨屋)まで出かけて水(1.5リットルが60万リラ)を買う。
もうしんどい。今日はもういいや。寝よう。
部屋に戻って改めて荷を解き、共同になっているシャワーとトイレを済ませる。そして寝る前に実に色々あった今日の日記を書こうとする……が、疲れていたので途中で力尽きてしまった。部屋の灯りもつけたまま、文机に突っ伏した状態で数時間寝てしまった。目覚めてもまだ深夜だったので、寝直す前に日記を書き上げ、明日のプランを立てる。
ともかくJCBプラザに行き、キャッシュレスの病院を紹介してもらおう。足はもう放置できない痛さだから。この後トルコ内陸部なりブルガリアなりに動くことを考えると、ここで治療を受けておく必要がある。まさか入院になんかならないだろうけど……。が、JCBのパンフレットを見て、愕然。明日は土曜日で、JCBプラザは土日祝日は休みだなんて。行くなら月曜日だから、最短でも火曜日まではここか……。土曜日は開いていると思ってたんだけどなぁ。なら先に動こうかとも思うけど、やはりこの足は診てもらわないといけない。この痛みは普通じゃないから。参ったなあ。
……ええい、ともかく全ては明日だ。今日は寝よう!