ほろほろ旅日記2002 5/1-10

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タイ王国 Kingdom of Thailand
5月1日(水) チェンコン

手塚さんです。お世話になりました。
 ラオス入りするのを明日にしたが、今日は特に用事があるわけでもないので暇だ。だらりと過ごす。こぢんまりした町だが、それだけにこういう過ごし方には合っている。ゲストハウスのロビーで日本人客同士でだべったり、ここに腰を据えて遊びに来ているKさんに、手塚さんともどもタピオカジュースの店に連れて行ってもらったりとまったりと過ごした。
 夕方、一人で散歩がてらタピオカジュースの店を再訪したら、そこのおばちゃんが話し掛けてきた。が、向こうはタイ語と中国語、こっちは日本語と(一応)英語しか話せないので全く通じない。それでもなんとか「ラオスに行ったらマラリアに気をつけるんだよ」という意味の言葉だけは理解できた。ありがとう、気を付けるよ。
 日没後、川べりを歩く。風が気持ちいい。明日の今頃はもうラオスに入国していて、このメコン川を下っていってるんだと思うと、なんだか不思議な気分だ。それを言い出すと、そもそも自分がこんなところを一人旅していること自体、不思議なんだけど。人気のない遊歩道を物思いにふけりながら歩き、宿に戻る。

 
 宿に戻ってから、裏手にある別のゲストハウスにあるネットカフェに行く。ラオスに入ったら、都市部以外ではネットが出来ないとも聞くし。番をしているのはここの娘さんだろう、小さな女の子が三人。今日はバーチャファイターとバーチャコップで遊んでいた。
 完全な夜になってから宿に戻ると、食堂では何かのパーティーをしていた。どこか他の町から宿の人の親戚が来ているらしいので、その関係かな。今日も手塚さんと明日以降のこと等、いろいろダベってから寝る。
 さあ、いよいよラオスだ。今まで会った旅行者は皆、口を揃えて「何もない国だ」と言っていたが、悪く言う人はいなかった。どんな国なんだろう、楽しみだ。


タイ王国 Kingdom of Thailand → ラオス人民民主共和国Lao People's Democratic Republic
5月2日(木) チェンコン →(フェイサイ) → パクベン

 
 8時半、宿の人に別れを告げ、歩いて国境へ。川で遮られてて橋も架かってないとはいえ、のん気な国境だ。
 沢山ある小舟のうち一艘に乗り込み、渡河。棹を差して人力で行く小舟だが、波も穏やかで、安全なものだった。20バーツ。

 ラオス側の町、フェイサイに入る。まずは入国手続きだ。いいかげん慣れたが、まわりはバックパッカーの白人ばかり。入国のイミグレ、入国カードも見ずにスタンプを押してパスポートを返し、それから書類を書いてる。のどかだが、いいのか?
 隣の両替所で1$=9450kipのレート。とりあえずで50ドル両替したら、どかっと札束を渡された。ええ? ラオスでは5,000キップ札までしかないため、こうなってしまうとのこと。なんともまあ、にわかに大金持ちになった気分だ。同行してる手塚さんと半分分け。
 フェイサイの町を見物したい気もするが、ボートの時刻が分からないため、ともかくボート乗り場に向かう。イミグレから北に大分離れていたため、声をかけてきたバンに乗せてもらう。
 スローボートでフェイサイからパクベンまで45,000キップ。チケット売り場の人も、にこやかで感じがいい。乗客名簿にパスポート番号を記載した後、パスポートの漢字なら読めること、日本語も挨拶程度なら話せることを嬉しそうに言ってくる。ラオス語のあいさつも二つ、教えてもらった。ありがとうはコプチャイ、こんにちははサバイディー。タイと人の顔立ちが変わった気はしないが、人懐っこさは明らかに違う。ボートのスタッフも親切だ。
スローボートはこんなのです はしけを使ってタイ側からタンクローリーが続々とやって来てました
 何時に出るとは確言できないからボートの中で待っててくれとのことだったので、その言に従って乗り込んだ。前方のベンチシートは間隔が狭く、長時間座るとしんどいとのことなので、後方のゴザ敷きのお座敷席に陣取って待つ。が、いっかな発進する気配がない。気がついたら11時15分になっていた。いつの間にやらボート内は白人客で満員になっている。乗客は白人7、地元民2.5、それ以外(我々2人)という感じだ。
 焦ってもどうにもならないのでのんびりと外を眺めて過ごす。見ている間だけでも石油のタンクローリー用はしけが4往復はしているよ。と、チェンコンの宿のおばちゃんがやって来た。手を振って挨拶したが、彼らは一族揃って別のボートで先に出発していった。北に向かうボートなのかな。そういや昨夜、ラオスに遊びに行くって言ってたっけ。

 11時30分、スタッフの昼食が済んでから出発。さすがスローボートというだけあってスピードは出ないが、そのぶん安定していて乗り心地がいい。今は乾季だということが、岸辺を見ると実感できる。そこここに水位線がびっしり刻み込まれた土崖があるから。それにしてもラオス側もタイ側も、えらく山肌が荒れてるなあ。周囲の環境からしたらありえないほど。焼畑農業をした後なんだろうか。
乾季だから水位が下がってるのが良く分かります。川岸にはお坊さん達の姿も見えます この山肌は焼畑をしてる証なんでしょうねえ。ちなみにこっちはタイ側
 メコン川は確かに広いが、予想していたほどではなかった。雨季に来たらまた全然違うんだろうけど。ぼんやりと両岸を眺めていると、タイ側に比べ、ラオス側は明らかに山がちだ。時折、スピードボートが抜いていく。けたたましいエンジン音を立て、水飛沫を巻き上げながら。ボートの装飾も派手だし、どう見ても多人数乗りの競艇用ボートだよなあ。
客はいませんが、これがスピードボート。現在、ラオスの地表を走行する乗り物の中で一番速いと思われます
 12時半、川幅がぐんと広くなった。ラオス側では、子供達が裸で泳いでいる。13時、一時寄港。岩崖にはりつくように、店やなんかが建っている。多分、この崖の向こうに村があるんだろう。ポリスチェックもあった。乗客よりも積荷を重点的にチェックしていたようだったけど。30分ほどで出発できるようになったが、白人客のおばちゃんが一人帰って来なくてさらに15分待つ。おいおい。
寄港・休憩したところ。ポリスチェックもあった
 このボートの最後尾にしつらえられているトイレも凄い。オープンエアの空間に、ぽこんと孔が開けられているだけ。しかもトイレに行った白人客が皆、煤で汚れて帰って来るので何かと思ったら、スペースが狭いうえに高さも1メートルほどしかなく、すぐ横にスタッフの物だろう、使い込まれて煤で真っ黒の鍋が吊り下げられていた。なるほど、これでか。これも一種のカルチャーギャップだ。タイ北部から来たから弱められているとは思うけど、見るもの聞くもの、全てが珍しい。
この孔がトイレなんですよ……
 ボートはのんびりと進んでいく。両岸には人家どころか人跡も見当たらない。川の流れに合わせ、時間もゆったりと流れている。こういうのもいいもんだ。頭の中で、原由子の『花咲く旅路』がリフレインしている。象に乗った象使いが急斜面で材木の積み出しをしていた。乗客もみんな、思い思いに過ごしている。景色を眺める者、おしゃべりに興じる者、午睡する者。白人客は、音楽を聞きながら読書に没頭している者が多い。景色を見ないのかなあ。
船はのんびりメコンを行きます こんななだらかな山並みが、手付かずの自然のまま残ってるんです
 もう一箇所寄港して15時前、まとまった雨が降って来た。1時に寄港した時、屋根の上の荷物にシートをかぶせていたのはこのためか。しばらくして雨がやんだ頃、川の向きが南から東に変わった。岩がごつごつと突き出すようになり、ボートの進みも慎重になった。時折、野生らしい水牛の群れが川べりを歩いている。こっちと同じような大きさの材木船? が追い抜いていった。


 17時30分過ぎ、パクベン着。船が着岸した早々、待ち構えていた人達が「baggage」と手を出してくる。自分の荷物くらい自分で持つからいいよ。駄賃とか、自分のゲストハウスに連れて行きたいとかあるんだろうけどさ。

 パクベンは川べりから支流に沿う形で未舗装のメインストリートが一本あるだけの小さな町だ。が、その割には子供の数がやたらに多い。手塚さんと一緒にどのゲストハウスにしようかうろつき、モンサワン?ゲストハウスに決めた。トイレはアジア式しかないが、そんなもんだろう。Wルームで80バーツのところを20,000キップで。なんだ、バーツでも普通に通じるんだ。バーツなんて小銭しか残してないよ。

 この町の電気は夕方6時から10時の間しか点かないらしい。ラオスという事を実感する。夕食は、川の見えるレストラン。明らかに外国人向けだったが、まあいいや。うまいと噂のビアラオにさっそく挑戦。濃い味で、確かに美味い。これならちょくちょく飲みそうだ。それにしてもラオス人は人懐っこい。道を歩いていても子供が構ってくるし、大人も笑顔で挨拶してくる。タイとの一番の違いは、女の人が巻きスカート(シンだっけ?)をしているところかな。夜八時を過ぎ、街灯も点いてないのに子供達は外で遊びまわっている。
 宿に戻り、シャワーを浴びる。山から引いてきた水を貯めた甕からひしゃくですくって使う。暗いしお湯がないので少し侘しいが、夜空を眺めながらの気持ちいい入浴。その後、宿の兄ちゃんと10時半までテレビを見て過ごす。言葉は分からないが、兄ちゃんがテレビの内容について話してくる中身は、おぼろげに分かる気がする。10時を過ぎていることに気付き、電気の供給時間を過ぎているのではないかと尋ねたら、かなりの家で自家発電機を持っているから大丈夫だ、とのこと。なるほど。


ラオス人民民主共和国Lao People's Democratic Republic
5月3日(金) パクベン → ルアンパバーン



 自然と早く目が醒めた。7時ごろから手塚さんと村をうろつく。メインストリートを奥へ、奥へと歩いて行く。この村、幅はないけど奥行きは思ったよりずっとある。歩いても歩いても人家が途切れない。しかも町中に活気がある。小さいながら、マーケットに至ってはもう終わりかけてるし。この時間帯が活動の中心なのだろう。登校中の小中学生と朝食のパン売り屋台が目につく。
ソンテウも軽トラです 
 9時過ぎ、チェックアウトしてボート乗り場に行く。時刻表なんてないので、とにかく行っておかないと。スローボートの客はとっくに出発したそうだ。チケットは12万キップ(600バーツ)か。ここで買うと割高なんだな。便を尋ねると「当分船はない、チャーターするなら3600バーツだ」と。なるほど、スピードボートの乗客は6人乗りだから、それをチャーターすると6人分の料金がいるのか。別に急がないので道端でぼんやりと待つ。ボートの運ちゃんが一人400バーツ上乗せしたらすぐ出すよと言ってきた。だから待つってば。最悪明日になってもいいんだから。11時過ぎ、下で待てと言われたので、降りていくと、水上家屋式の乗り場兼食堂があった。こんなのがあるならとっとと降りてれば良かった。ここでもまた一人200バーツ上乗せしたら出すよと言ってきたが断って待つ。11時15分、ようやくボートが出ることになった。一度に3台くらい出るのか。
スピードボートの発進風景
 昨日も見たけど、スピードボートは大型のモーターボートのようなものだ。全員ライフジャケットにヘルメット着用、狭いところに押し込まれて座る。80キロは出てるんじゃないだろうか。転倒したら一巻の終わりなので、下手に身動きもできない。が、風が気持ちいい。穏やかな水面の時は水を切っていく感じだが、荒れたところだと、波の高いところをガリガリと削りながら、水上を飛んでいるような感じになる。
 荷象に乗った象使いを2度ほど見かけた。そこらで子供達が裸になって泳いでいる。スローボートを何度か追い抜き、川端で水浴びしている水牛を見ながらボートはかっ飛んでいく。慣れとは恐ろしいもので、こんな危険な乗り物に乗っているのに、最後の方は僕も手塚さんも居眠りをするまでになってしまっていた。
 一度エンジンの不調で停まった以外はトラブルもなく、二時過ぎ、無事ルアンパバーン着。大体二時間半か。本当に速いや。着いたのはルアンパバーンから少し離れた村の川べり。
ルアンパバーン近くに到着しました
 ここからトゥクトゥクに乗り換え、ルアンパバーンを目指す。15分、1万キップ。泊まるゲストハウスを決めているらしい白人客は続々と降りていくが、何も決めてない我々は最後まで乗っていた。そして降ろしてもらったところは町中には違いないが、町のどこなのかがさっぱり。いやあ参った。船で日焼けしてるうえ、想像以上に体力を使っていて、そんなに歩かないうちからへばり気味だし。あちこち歩き回り、中心部から少し離れたところにあるBAN LAOゲストハウスにようやく投宿。
宿です。ちょっと張り込みました
 手塚さんの希望でエアコンつきの部屋、一泊10ドル(ローシーズン価格)。たまにはこういうとこに泊まってリフレッシュするのもいいもんだ。このあたりはメインルートから外れているからか、道は未舗装で子供が走り回り、ガチョウの家族が闊歩している。
 旅装を解き、とりあえず附属のレストランで一服。メニューはラオス語と英語、そしてフランス語だ。さすがは元フランスの植民地。体力も回復してきた夕方、散歩に出た。
中心部。時間の関係で車通りは少なかったけど
 中心部をブラブラしていると、ビルマのお坊さんに話し掛けられた。タイの僧侶は黄色いが、ビルマの僧衣は赤い。三年前、二週間ほど奈良にいたことがあるらしい。すごくフレンドリーで、タイではみんなに敬われ、外国人旅行者に話し掛けてくるなんて想像もつかなかったから、ギャップが激しい。話すうち、行く予定のなかった丘上寺院のプー・シーに登ることになった。タダとか言ってたけど8,000キップいるじゃないか。そりゃお坊さんはタダだろうけど。でも、それだけの価値はあるところだった。
 寺院そのものや戦時中の大砲跡とかもいいが、とにかく眺めがいい。他にはあまり高いところのないルアンパバーンは緑に包まれ、町域を外れるとすぐに森になっていた。日本では考えられない地勢だ。夕日もとても美しかった。外国人観光客が日本人を含めて山のようにいて、ここが観光都市だということを初めて実感した。みんな夕日を見に来てるようで、最上部西側は夕日の残光が消えるまで、観光客でびっしりだった。
プー・シー上からのルアンパバーンの眺め プー・シーから見た夕日
 日没後、下山して夕食を摂るところを探す。当然マーケットも閉まっていたので適当な川べりの路上レストランに入る。明かりが十分ではないので薄暗いが、そんなもんだ。ココナッツカレーが甘くて具も多く、おいしかった。ここでくつろぐつもりでいたが、風が出てきて雲行きも怪しくなってきたので慌てて宿に帰る。食べ足りないので妙に広いホテルのレストランに行ったところでとうとう激しい雷雨が降りだした。フライドライス(4千kip)、ビアラオ(8千kip)。
 なんか疲れたので今日はもう休もう。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月4日(土) ルアンパバーン

 朝、食事をしに手塚さんとマーケットまで出向く。あんまり清潔ではないが、そういうものだと鳴れてきた。屋台で麺料理を食べる。これがまたおいしい。それだけでは足りなかったので、別の屋台で串焼肉も買う。野菜や肉をまるのまま買うわけには行かないからマーケットですることは食事だけだが、歩いていると現地の人の生活が見えて楽しい。
朝のマーケットの様子
 しばらく町をそぞろ歩きした後、近くにあった王宮博物館に行くが、11時から13時30分までは休憩中とのことだった。そこで北に岬状に伸びている先端部にある、ワット・シェントーンに先に行くことにした。敷地も広く、堂々としたいい寺だ。ラオス式寺院はタイのそれと似ているようで、やはり独特だ。本堂裏の世界樹はガイドブックにも書いてあったが一見の価値がある。拝観料5,000キップ。
ワット・シェントーン本堂 ワット・シェントーンの本堂裏に描かれている世界樹
 昼食は手塚さんのリクエストで、西洋カフェでサンドイッチ。旧宗主国がフランスとはいえ、妙に西洋的な店が目につくなあ。世界遺産都市としての風情が損なわれているような気もする……。
土産物屋。カラフルな色使いが目を引きました
 13時30分になったので、王宮博物館を再訪。傀儡政権とはいえ、植民地時代の王宮だけあって、立派なものだ。そこまで大きくはないけれど……と、王族が生活をしていた裏手に入ると、途端に質素になった。華美さはなくなり、部屋が広いだけに寂寥感が漂っている感じだ。
王宮博物館。旧王宮です。
 体調があまり良くないのでホテルに戻って静養するという手塚さんとここで別れ、一人でさらに町を散策。とはいえ、特に見に行きたいところもないのでまずはネット。一分200キップですか。その後、メコンの支流、ガーン川沿いの道をぶらぶらと。観光ルートではないだけに、のんびりとしたものだ。いかにもな屋台もいい味を出している。
一般的な屋台はこんな感じです
 メコンに比べて流れが穏やかで、生活にも使いやすいのだろう、川で洗濯をしたり、子供が泳いだりしている。明日は僕も泳ぎたいなあ。なんとなく気が向いたので、向こうに見えた橋まで歩いてみる。
市街地から外を向けばこんな景色です
 行ってみて驚いた。骨組みは鉄骨で、路床部分は木製って……。大きな車は通れないだろうに。橋の向こうは一気に田舎になってたから別にいいのかもしれないけどさ……。凄いな、ラオスって。
鉄橋とはいえ、舗装どころか床は木製。さすがラオス これが歩道ですよ。おっかないと言うかなんと言うか。
 橋の上から水面を見下ろすと、子供達が服を着たまま泳いでいる。子供が元気なのはいいことだ、うん。
橋の下の川では子供達が服を着たまま泳いでました
 夕方になってきたが、まだまだ明るい。ので散策を続ける。ルアンパバーンの町を南西に横切り、市街地の南西端にあるスタジアムを過ぎたあたりで昨日のお坊さんに会った。今日はラオス人の小坊主を連れている。このお坊さんは明後日、ここと首都ビエンチャンの間にある、バンビエンに行くらしい。英語が達者な人だから、コミュニケーションが取りやすい。
「ビエンチャンに行くのか。トレインでか?」ラオスには鉄道はないんだってば。
「ビエンチャンまでいくらかかるんだ、5万キップ? そんなわけないだろう! ……あ、そうか。外国人料金か」
 面白い人だ。
ラオスのお坊さん。何度も会った人は逃げて、この人は小坊主さんです
 6時すぎ、ホテルに戻る。が、手塚さんは寝てしまっていて、ノックしても起きてこない。鍵なんて持っていないので、フロントの人に頼んでドアを開けてもらった。本当に体調が良くないようで、明日北部に向けて動くらしいけど、大丈夫かな。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月5日(日) ルアンパバーン

 9時半、ウドムサイに向かう手塚さんと別れる。こっちはあと一日ルアンパバーンに残るので、一人部屋に移る。今さら宿まで替えるのは面倒臭いし。6ドルのファン部屋。
歩いていきました。奥へ、奥へと。 ここで泳ぎました
 とは言っても特に観光したいところがあるわけではない。ぶらぶらして泳ぎたいだけだ。メコンの支流、カン川が泳ぐには良さそうだ。ぐるっと回り込んで川の北側、舗装もなく、観光客の姿もなく、人家さえまばらな田舎道をてくてく歩いて行く。かなり歩き、メコンと合流する近くまで来たので川べりに出てみると、小さな淵で小舟が一艘、漁をしており、横の岩場で数人の子供が泳いでいた。ジェスチャーで「自分も泳いでいいか」と子供達に尋ねると、笑ってOKの合図。よし、泳ぐか。 

 
 デジカメで撮った写真を見せるとすごく喜ぶので、こっちも調子に乗って撮りまくる。はじめは3、4人だけだったのが、気がつけば15、6人の子供が集まってきていた。大人の男も一人いる。昼の2時から3時半まで写真を撮り、泳ぎ、飛び込み、子供達を放り投げ、大いに遊んだ。ここは子供の数が多く、また人懐っこいので楽しい。

 
 泳ぐ時は裸かそのままかだ。水着みたいなぜいたく品はそうそうないんだろう。女の子は裸になるわけにいかないから着衣のままだ。暑いからすぐ乾くんだろうが、ジーンズのまま泳ぐのか……。
これがまた、人懐っこくて元気なんですよ。画面左にこの時はまだ無事だった携行品袋が映ってるな…… 丁度この子達が泳いでいたんですよ…
 さすがに疲れたので子供達と別れ、帰途につく。途中、喉が渇いたので水でも買おうと鞄の中を探った時、それに気付いた。

 
やられた。パスポートと現金を盗られた……!!

 その瞬間、さあっと血の気が引いていくのを実感した。慌てて岩場に戻って探すがやはりない。やられた……。
 泳ぐ時、貴重品は防水袋に入れ、さらにポーチに入れて頭陀袋にしまっていたんだが、パスポートと現金を入れた防水袋がなくなっていた。盗られたのはパスポート、ビザ、現金(30万キップと40バーツ、70ドルで都合約100ドル)。なんで宿に置いて行かなかったんだ。それか、泳ぐ時も身に付けておくべきだった……。子供達に全く邪気がなかったから安心していたが、一人いた大人、あいつだ。間違いない。写真を撮られるのを嫌がってたし、途中でいなくなったし。

 岩場で途方に暮れていると、場所を替えて遊んでいた先程の子供達が集まってきたので事情を説明する。とはいえ言葉が通じないので「パスポート、マネー、ストールン」と言って落ち込んでみせるくらいしかできないんだが。それでも事情を察した子供が集落まで走り、英語のできる大人を連れてきてくれた。はじめ僕をタイ人だと思ったらしく、タイ語で話しかけてきたが、日本人だと分かったら英語に切り替えてくれた。
 しかし、英語が通じる相手とはいえ、自分の英語レベルは惨憺たるもの。もちろんラオス語なんてできないので、事情説明にとんでもなく苦労する。今ほど英語すら喋れない自分を腹立たしく、口惜しく思った事はない……。それでもなんとか通じたらしく、川を渡って市街地に行くことになった。なぜ? 行くのは自分の他、大人のリッター氏(愛称ター)他数名、それと一緒に遊んでいた子供達。もちろん橋なんてなく、小舟で。
 市街地の北端にある一軒の家に行く。どうも、このあたりの顔役の家らしい。ターから事情を聞いた顔役の人が犯人を捜しに行ってくれた。既に犯人の見当がついているようだ。ラオス人ではなく、他の国から流れてきて、他にもちょくちょく窃盗をやらかしている奴らしい。
 その家で待っていると、たまたま一人の日本人観光客が通りかかった。ターに「日本人だ。話を聞いてもらいなよ」と言われるがままに声をかけ、話し相手になってもらった。大島さん、こんなことに巻き込んで申し訳ない。けど、日本語で事情を話し、愚痴ることができただけでもかなり気が楽になりました。ありがとう、本当に。
 夕方も5時を過ぎ、薄暗くなってきたがやはり見つからないようだ。再度川を渡って一度ターの家に行き、ターのバイクの後ろに乗せてもらい、町を探し回る。あちこちでターが聞き込みをしてくれるが、あまり芳しい反応はないようだ。と、先程の顔役の人がポリスと一緒にバイクでやってきた。警察にも連絡して探してくれていたのか。すいません、よろしく……。
 たまたま大島さんと再会したので少し話し、もう夜なので切り上げて宿に戻る。ターが明日も朝から一緒に警察に行ったりしてくれるらしい。見ず知らずの、言葉もろくに通じない外人にここまでしてくれるとは。本当にありがたい。

 この際お金は仕方ないが、問題はパスポートとビザだ。ないと厳しいし、悪用されないかも怖い。だが正直、見つかる望みは薄いだろう。明日は警察に行って盗難証明書を作ってもらい、大使館に電話して再発行の手続きをしないと。予定は大幅変更だ。もうラオス南部に行くどころの話じゃない。カメラが盗られなかっただけでもよしとしないと。
 夜にはもう、なるようになるしかならないさ、とある程度冷静になっていた。我ながらちょっと意外。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月6日(月) ルアンパバーン

 よく眠れなかった。一時間ごとに目が醒める。
 7時45分、リッターと村のお巡りさんが来て、一緒にポリス(イミグレーション)に行き、一時間ほどで遺失証明書を作ってもらう。リッター達が一緒で本当に助かった。一人だと一日仕事になってただろう。
 リッターの村のお巡りさんはその足でまた捜しに行った。ホテルに戻り、学校に行くというリッターと別れる。夕方、また一緒に捜してくれるらしい。2、3日中には見つかるからそれまでここにいろと言ってくれるが、そうもいかない。とにかく、平日になった事だし、日本大使館に電話しよう。
 海外で電話をするのは初めてだが、そんな事を言っている場合じゃない。ホテルには電話がなく、併設のレストランにある電話を使わせてもらった。最初に出た受付の人が最初、何を言っているのか分からなかったが、何のことはない、当地採用スタッフのカタコト日本語だった。英語かネイティブな日本語を予想してたよ。
 対応してくれたのは小山さんという人で、親身になって話を聞いてくれた。いい人だ。今から手続きを始め、今週中には再発行できるそうだ。そのためには8日中に首都ビエンチャンにある大使館まで行く必要があるらしい。了解。明日ここを発てば間に合う。幸いこの電話がファックスつきだったので、盗難証明書と顛末を書いた紙を送信。とりあえずこれで一区切り。少し気持ちがすっきりした。
 後は何もする気が起きないので夕方にリッターが来るまで部屋で転がってることにしていたら、11時前に村のお巡りさんがやってきた。まさかと思ったが、犯人が捕まり、パスポートが見つかったと。現金はコインと300キップ以外なくなっていたが、パスポートとビザは無事だった。これで旅を続けられる……! お巡りさんは今から(?)祝杯にラオ・ラーオを飲みにいくという。世話になったし、酒代くらい出すよ。
 大使館に慌てて連絡。小山さんもびっくりしていた。そりゃそうだ、さっき電話したとこだもんな。
 気分が晴れやかになったので、町へ繰り出し、昨日泳いでいた場所を再訪する。子供達が今日も泳いでいた。一緒に泳ごうと誘われるが、今日はやめておくよ。
現場にもう一度行ってみました
 そのままいい気分で町をぶらぶらと散策する。いいかげんこの町にも慣れてきた。世界遺産に指定されているというのはよく分からないけど、気持ちよく歩ける町だ。
向こうから写真を撮ってくれと言って来ました。旅行者慣れしてますな
 朝、盗難証明書を作ってもらったポリス(イミグレーション)にも挨拶に寄る。パスポートが見つかった旨を告げ、ありがとうと言うだけのつもりだったけど、なぜか昼食をご馳走になってしまった。ラオスって、本当に人がいい……。

 適当にホテルに戻り、夕方は近所を歩き回り、寄ってきた子供達と遊ぶ。
学校 夕方、宿近くの学校そばで子供達と遊んでました
 夜7時、リッターが来た。パスポートが見つかったというと驚きながらも「見つかると言っただろ」と。リッターにもお礼と余っていたノートをあげ、一緒に夕食。ここで分かったが、リッターは17歳で、僕を22、3歳だと思っていたそうだ。おいおい。ま、こっちも彼を27、8歳だと思っていたけど。
 明日この町を出ると言うと、明日の朝もう一度来てバスステーションまで送ってやると申し出てくるが、大リュックを担いでバイクの後ろに乗るのはメーサイで懲りたので、それは断る。朝の僧侶の托鉢でも見せてもらいに行くかな。

 さあ、動こう。
 急いでビエンチャンに行く必要がなくなったので、その手前の町、ラオスの桂林とガイドブックにあるバンビエンに行くことにする。ルアンパバーンからビエンチャンの間は山岳ルートで、外務省情報では一番軽度とはいえ、危険情報が出ているが……最近は沈静化しているそうだし、ホテルの人とかに話を聞いても大丈夫そうだ。自分の勘でもそんな気がするし、行くか。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月7日(火) ルアンパバーン → バンビエン

 リッターが朝5時半に迎えに来た。バスステーションまで送っていくとの事だったが、気が変わって遅いバスにしたので、朝の托鉢を見に行く。それはそうと、リッターは来週、カレッジの入試があるそうだ。
有名な朝の托鉢。
 6時半のバスから10時のバスに変えたので時間に余裕が出来た。町外れの南バスステーションへ移動開始。なんか気分的に力尽きたので、通りかかったトゥクトゥクを捉まえる。5200kip。
 バス停に着いて、まずはチケット購入。言葉が通じなくてもなんとかするしかない状況に、少しは慣れてきたかな。一息入れていると、日本人らしき人が一人やって来た。一昨日会った大島円郎くんだ。昨日、謎の壷で有名なシェンクアンに向かったはずなのに、なんで?
「いやあ、昨日寝過ごして、バスに間に合わなかったんですよ」
 なるほど。ちなみにルアンパバーンからシェンクアンまでの道中は、ゲリラが出没する可能性ありと危険情報が出されている地域を突っ切っていく。ガイドブックでは飛行機の使用を薦めており、路線バスもないとのことだったが、情勢が落ち着いてきたのか、バスが出るようになったらしい。まあなんにせよ、再会は嬉しい。パスポートが見つかった事も、早々に伝える事が出来たし。これも縁というものだろう。
バスステーションでの荷積み作業中 大島くん出発前
 それにしてもバスの客、白人ばかりだ。地元民は、アジア人はいないのか? 売店で道中用に水を買おうとすると、冷えた水を薦められた。どうせぬるくなるから、常温のやつでいいってば。
 日本車は高いとのことで、ラオスで見かける車は韓国のHYUNDAI(ヒョンデー)製のものが多い。このバスもそうだ。
 例によって予定の10時を大きく過ぎてから出発。乗車率は8割ほど。そして例によって、発車して間もなくガソリンスタンドに寄る。慣れました。こういうものなんだと。このバスはアジア人用なので、体の大きい白人にはきつそうだ。膝を折り曲げ、体を曲げ、どうにか座っている。大きいのも良し悪しだなあ。
白人さんには本当にきつそうです
 ルアンパバーンからビエンチャンに繋がる山岳路線の国道13号線は、さすが大動脈路線で舗装はしっかりしているが、道は比較的細く、曲がりくねり、ガードレールもなにもない。その段階にまでは達していないという事かな。通行量もほとんどないし。登り道を10か20キロでノロノロと進んでも、何も問題なし。
 それにしてもやっぱり白人ツーリストのほとんどは、本を読んだり寝たりで景色を楽しむつもりがない。もったいない話だ。感性が日本人とは違うのか。
山の稜線上に集落が点在してます 本当に山中を走ってるのが実感できます
 一時間も経つと、それでもかなり標高が上がってきて窓から入ってくる風も涼しくなり、眼下にパノラマが広がるようになってきた。手付かずの山々がひたすらに広がるこんな景色、日本では見られない。途中、稜線上に小さな高地集落がいくつもあり、バスはそこに立ち寄りつつぽつぽつと地元客を乗り降りさせている。
 11時30分、待避線があるだけの山の中でトイレ休憩。建物も何もないので、みんな山の中へ入り込んで用を足している。他に手段がないんだから仕方ない。
休憩中
 バスはさらに山を登って行き、少し雲が出てきたこともあってか、さらに涼しくなってきた。とても東南アジアとは思えない気温だ。道はただひたすらに等高線に沿ってコンタリングしていく。昔からある道を拡張して舗装しただけなんだろう、まさに山肌を縫っていく感じ。
 山地集落ではやはり水が貴重なのか、どの集落でも水浴び場は共同だ。電気は来ているようで、電線は張られているが、やはり供給時間か電力量に制限があるらしく、自家用発電機を備えている家も少なくない。今の日本だととっくに廃村になっていてもおかしくないような立地の集落も珍しくない。
集落の一般家屋
 所々、土砂崩れ後の土砂をのけただけのところを通る。山肌自体は放置なので、雨が来たらいっぺんに不通になってしまいそうだ。今は乾季の最後の方で、一年で一番交通事情がいい時期のはずだが……。
土砂崩れも普通にあります
 13時30分、シェンクアン方面との分岐点にある町、ポークーン通過。ここも山上村だが、他に比べてかなり大きい。この辺りの山地集落の中心的役割を果たしているんだろう。
 バスはここから下りに入る。彼方にバンビエン辺りのものらしい奇岩峰が見えてきた。


 14時30分、険しいところを抜けたバスが、急にスピードを上げた。飛ばす飛ばす。14時40分、谷口集落のカーシー(?)で昼食休憩。中国でよく見たスタイルのぶっかけ飯、2品で5000kip。食後ぼんやりしていると、地元のおばちゃんに「チャクモーンダイ?(今何時?)」と尋ねられた。ジェスチャーで分かるけど、僕はタイ人でもラオス人でもないから言葉は分からないんだってば。
 15時18分、出発。もう山岳地帯は抜けたようで、普通の山あいの道を快調に飛ばしていく。道端で遊んでいる子供達がバスに手を振ってくる。やはりいい表情をするなあ。
 16時20分、目的地バンビエン(英語綴りVangVienなのでヴァンヴィエンが正しいかも)着。ガイドブックでは町の中心部、マーケット横に着くことになっていたが、国道13号線から外れることなく、エアポート跡横にぽつんとあるバスストップに停車。
ヴァンヴィエン着。元飛行場だった、広大な空き地を抜け、町へ
 ふらふらと歩き回り、いいかげん疲れたので、その時近くにあった適当な宿に投宿。KHAM PHONE ゲストハウス、ファン部屋一泊3万キップ。予定は2泊。まあまあいい宿だと思うけど、横で新築工事中なので、昼間はうるさそうだ。
KHAM PHONE G.H.(FAN付一泊3万kip) 目抜き通り
 夕闇が迫っていたが、ともかく町をぶらぶらと散策。飛行場と川に挟まれた平地に、ざっくりと碁盤上に区切られた町。昔からの町という感じではないな。川は浅く、流れも緩やかで、生活に密着しているのを感じる。バスが川の中まで乗り入れて車体を洗ったり、主婦連が大挙してやってきて洗濯や入浴をしているのなんて、初めて見た。

  有名な洗濯&入浴です
夕食は適当な屋台で。おかゆ一杯2000kip(安!)、ビアラオ一本6000kip。ネットは回線速度が遅く、少しじりじりしたけど。
 ゆったりした雰囲気の町だが、白人相手の観光保養地としての側面が強く、歩いている人も、ラオス人より白人の方が多い。町の規模からしたらゲストハウスの数も信じられないくらい多いし。
 ルアンパバーンで二度会ったミャンマーのお坊さんに会った。そういやこの町に行くって言ってたっけ。パスポートでごたごたして、忘れてた。しかし、町をそぞろ歩きするのが主な仕事かと思うほど、よく歩いている。今日だけでも二度会った。一度目はイギリス人とアメリカ人のカップル相手に話しこんでいて、二度目は一人で屋台を冷やかしていた。 
 夜は宿の軒下に出してあるテーブルに座り、ビアラオをやりながら宿の主人とだべる。25歳で娘一人。まあ普通だな。けど、ラオスでは女性は15歳で結婚するのが普通だというのは早いなあ。そのせいか、確かにラオスでは日本でいうところの10代後半的な女の子をあまり見かけない。一気に大人になる感じだ。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月8日(水) バンビエン

 この宿に来つけている32の日本人男性が今度、17のラオス人女性とここで結婚するらしい。人生色々だなあ。
 ラオス人の話す英語で一番特徴的なのは「ノープロブレム」と言う時、「ノープノンペン」としか聞こえない事ではないかと思う。はじめのうちは「プノンペン? カンボジアの首都がどうしたって?」とわけがわからなかったけど、やっと慣れた。
バンビエンを特徴付けている奇峰
 今日は特に予定はない。小さい町だから特にする事もない。白人観光客のようにカヌーや古タイヤ川下りとかのアクティビティをする気にもならないし。唯一歩いて行ける見所らしいタムジェン洞窟を見物するくらいか。あとは町をぶらぶら。

 と思っていたのだが、そぞろ歩きだけで予想以上に疲れたので一度部屋に戻って休む。日差しが強いんだから、帽子とサングラスは忘れないようにしないといけないな。体力に任せて歩いてばかりで、あまり休まない性質なんだから。
まだ昼前だけど、学校は終わりです
 11時、タムジェン洞窟へ向かう。町の中心部から2キロほど歩いたところにあるリゾートホテルのさらに奥にあるらしい。てれてれと歩いて行く。町の中心部の外れにある学校に差し掛かったら、丁度下校の時間らしく、子供達が一斉に出てきた。ラオスでは学校は昼前に終わるんだ。制服は男女とも上は白いシャツ、下は男はズボン、女はシン。これはこの国のどこに行っても同じなのかな。グランドではセパタクローをして遊んでいる子供達がいた。
ラオスには珍しい真っ直ぐな太い道。舗装はされてないけど。
 中心部を抜けて歩いて行くと、人家がなくなり、道の両側がびっしりと繁茂した森になった。前を見ても、ただただ森と道があるのみ。その向こうにあるはずのホテルなど、影も形も見えない。どんな奥地に向かってるんだ?
のどかだ……
 その状態で心細くなりながら一キロ以上。ようやく道が終わり、目当てのリゾートホテルに到着した。広大な敷地にバンガローが散在している、閑散とした印象のリゾートホテルの敷地を抜け、目指すタムジェン洞窟にようやく到着。が。入り口が閉まっている。係の人も誰もいない。なんの掲示もない。あれぇ、今日は開く日のはずだけど……閉鎖したか? わけがわからずそのへんをうろうろするが、どうにもならない。ここまで遠い道のりを歩いて来たのでこのまま戻るのは癪だ。僕以外に観光客の姿もない。仕方がないのですぐそばの瀬で孫を遊ばせているおばあちゃんに尋ねてみることにした。しかしこのおばあちゃん、英語が全く話せない。仕方がない、ジェスチャーだ。
 洞窟の入り口を指差してから両手で門が閉まる動作をして「タムジェン?」と首を傾げる。と、おばあちゃんは一言、「ヌーン」と。これはラオス語で「1」。1時になったら開くと言う事らしい。コプチャイライライ(ありがとう)。しかし、まだ一時間からある。暇だ。仕方がないのでおばあちゃんと一緒に瀬で遊ぶ孫娘を見て時間を潰す。
 1時20分になって、やっと係の人がやってきて、入り口が開いた。6000kip。白人やラオス人の観光客も集まってきた。階段を上って山の中腹にある入り口前まで。この洞窟、ある程度の人数が集まってからガイドがついて解放するシステムになっているので、人数が揃うまでさらに20分ほど待つ。
タムジェン洞窟入り口から下を見る
 そんなこんなでようやく洞窟内部へ。
 ……ごめん、しょぼいわ……。
 解放している部分がせいぜい100メートルほどと短く、迫力不足。仏様に見立てた石筍をカラーライトでライトアップするなどの努力は認めるけども。ただ、途中の見晴台からの眺望は素晴らしかった。
タムジェン洞窟の展望所から望む。広々としたいい眺めだ。それこそ日本ではありえない景色。

 宿に戻ってひと休みし、4時過ぎ。日はまだまだ高い。ということで、ルアンパバーンの借りを返す時が来た。いや、川で泳ぐだけなんだけど。今度は貴重品の類は全て部屋に置いて行くことにして、水着・サンダルにカメラを持っただけの格好で川へ。町のすぐ脇に川があるから気楽だ。
 メコン川の支流であるナムソン川は川幅はあるが流れは緩やかで水深は浅く、ほとんどのところで背が立つ。しかも水がきれいで、川遊びにはもってこいだ。子供達もたくさん遊んでいる。年若い男の子はすっ裸、ある程度以上の女の子は着衣のまま(シンではなくズボン)、それ以外の子供はパンツ一丁。やはり水着は一般的ではないようだ。
 今回は子供の輪の中へ入っていかず、一人でぼうっと浮かんだり潜ったりしてくつろぐ。が、子供達にとって暇な外人は格好のおもちゃらしく、すぐに3、4歳くらいの女の子四人がこっちの目をひたと見据え、強烈な遊んで光線を発射しながら迫ってきた。本当にこっちの子供は屈託がないというか、目に力があるなあ。その子達と一時間ほど遊んで別れると、今度は5、6歳の男の子六人が群がってきて、これも一時間ほど遊んだ。この季節、ここでは7時ごろまで明るいから、本当にたっぷり遊べる。けど、さすがに疲れた……。
 子供達が家に帰り、次第に暗くなってきたので川をあがった。完全に暗くなるまで、川岸で女衆の入浴&洗濯、男衆の洗車、観光客のアクティビティからの帰還などを眺めて過ごす。のんびりとした時が流れている町っていいなあ……。
ナムソン川はこの町の生活とこれ以上ないほど密着しています離せないものになっています 女衆の風呂・洗濯が終わったら、男衆の洗車、子供達の水遊びの時間です

 夕食は今日も屋台で。屋台の明かり以外は本当に暗い。ラオスでは夜の闇は、まだまだ人の手に屈していない。白人向けのレストラン、地元の人向けのカラオケレストランなどがたくさんあるが、僕には関係ない。ビッグサイズの焼鳥(ピンカイだっけ?)5000kip、生春巻1000kip、おかゆ。
 宿に戻り、軒下のベンチで今日もビアラオをあおる。ラオスではなんといってもビアラオだと聞いていたが、本当にそうだ。ラオスは何もない国だけど、それが魅力だとも聞いていたけど、それもまさしくその通りだし。うだっていると、同じ宿に泊まっている日本人旅行者がやって来た。大阪の江頭さん(男)と横浜の増田さん(女)のカップル。この後中国・チベット・ネパール・インド・トルコとまわる予定らしい。凄いなあ。またそんな旅をカップルでしてるというのがまた羨ましい。色恋の偏差値は2か3しかない身からしたら特にね。
 二人がラオスの情報に飢えていたのでガイドブックを写させてあげた。こうやって情報交換していると、いかにも旅人という感じがして、心地よい。「何ヶ月くらい旅してるんですか」と聞かれたが、まだ一ヶ月だけですって。それも初海外。「3日いれば一年前からいるように見える」のは、僕の特徴らしいな。
 明日はいよいよ首都ビエンチャンに行く。バスの時間は四時とか五時とか、やけに早いので、今日はさっさと寝よう。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月9日(木) バンビエン → ビエンチャン

 なんとか朝四時に起きる。ちゃんと寝たが、それでも眠い。
 ビエンチャン行きの始発は5:15、二本目は5:50。頑張った甲斐あって始発に間に合ったが、なんというか、見事なオンボロ路線バス。でもこの国では、道が舗装してあって、普通のバスってだけでありがたいんだよな。発車した時点では六割ほどの乗車率だったのが、途中の停留所から続々と乗客が増え、あっと言う間に満席になってしまった。2人がけシートに3人がけという状態が普通のようで、ラオス人は皆平然としている。きついが、それでも眠いので、ガンガン流れるラオス歌謡曲をBGMに、うたた寝。バスは山間の道を走っていく。
 七時半に目が覚めると、あたりは田園地帯になっており、トイレ休憩で停車していた。トイレ休憩と言っても、何もない、広々とした田んぼのど真ん中だ。乗客たちはそこここで適当に用を足している。女性もシンで隠しているからいいのか、堂々としたものだ。うーむ。文化の違いか。そんなこんなで四時間。九時半にビエンチャンに到着した。
タラート・クアディンそば
 アジアの常識通り、バスを降りた途端に客引きが「トゥクトゥク」と群がってきた。いつもは淡々と「No」と立ち去るんだが、ここの客引きはしつこかった。しかも声をかけるだけでなく、馴れ馴れしく肩や腕を掴んでくる。さすがに我慢も限界になって、日本語で「歩くんじゃ!」と怒鳴ったら、ようやく諦めて去っていった。でも、これくらいで諦めるあたり、ラオス標準からしたらしつこいけど、アジア標準からしたらまだまだだな。

 屋台でフランスパンサンド(1,000kip)を買って、食べながら繁華街を目指す。が、到着したバスステーションは市街地の中心部のタラート・クアディンスだったのに、西外れのタラート・ルアンだと勘違いしていたため、街の東外れまで突き進んでしまった。大概歩き疲れたので、間違いに気付いた時点で安宿街に行くのを断念し、ガイドブックに載っている中で一番近かったHEUAN LAO G.H.に転がり込んだ。一泊五ドル。値段分の値打ちはあり、広くて清潔、立派な作りだ。

 ビエンチャン、何もない首都だと聞いてたけど、高層ビルはなくてもやっぱり首都だ。田舎からやって来ると、それを実感する。バンコクから飛行機で来たら、正反対の印象になるのは間違いないけど。道路も舗装されてはいるけど、タイと比べると質が落ちるのは否めない。路肩の処理が甘く、赤土がそこここを舞っている。 
 歩いてるとたまたま見つけた。韓国車が主流で、日本車はステータスとは聞いたが……立川ですか。
 昼まで休んでから、外へ。今日の予定は現金入手(ルアンパバーンで取られたから)と日本大使館訪問(対応してくれた小山さんにあいさつ)、滞在期間延長のためのイミグレ申請(ラオス、気に入りました)だ。
 まずは銀行へ。ラオスにはATMはないので、キャッシュアドバンスができる銀行に行かないといけない。JCBでもできる、サイアムコマーシャルバンクへ。銀行と言っても、日本のそれをイメージしてはいけない。戦後の映画に出てくる地方銀行のイメージが近いかな? 米ドルで欲しかったが無理だったので、タイバーツを入手。
 次は日本大使館を目指すつもりだったが、銀行から近いので、先にアヌサワリーに行く。フランスの凱旋門を模したと言われているだけあって、確かにそれっぽい。元々植民地時代の宗主国はフランスだし。
アヌサワリー。世界各地にある似凱旋門のひとつです。
 入場料は1,000kipとえらく安い。上がってみて、納得。何階かに分かれている内部はほとんど何もない。土産物屋くらいのものだ。と、中学生くらいの女の子3人が話し掛けて来た。が、僕がラオス語もタイ語も駄目で、向こうは英語が駄目なので、さっぱり話ができない。どうしても必要な事ならジェスチャーでしのげるけど、雑談はお手上げだ。手持ちのガイドブックのラオス語ページも、カタカナ表記だけなので役立たずだし。もどかしい。一人の女の子が七月に日本に行くという事はなんとか分かったのだが、それだけ。ゴメン。でも、なんで最後に「さよなら」と手を上げたら爆笑されたんだろう。
 それはそうと、アヌサワリー上からの見晴らしは確かに良かった。高い建物がないから広々として……って、首都の誉め言葉じゃないなぁ。
アヌサワリー上からの眺め。緑の多い首都です。ね。さすがはラオス。ちなみにこれは南、メコン川方面の眺めで、この太い道のどん突きには大統領官邸があります。
 次はいよいよ日本大使館。街の中心部からかなり離れているため、ガイドブックには方向が示してあるだけで、地図に載ってない。参った。通りの名前だけ分かっても無意味だ……。ま、なんとかなるだろうと歩き出す。
 ……大甘でした……。
 ラオスの代表的寺院、タート・ルアンの近くにあるはずだけど、金色のタート・ルアンは解っても、大使館の場所はわからない。地元の人に聞こうにも言葉が通じないし……。結局トゥクトゥクの世話になってしまった。何やってんだか。

 パスポートを見せ、厳重なゲートを通り抜けて大使館の中に入る。アポなしの訪問だったが、しばらく待って16時(大使館の閉館時間)、小山さんに会う事ができた。思っていたより年配の方だったけど、声の印象通り、とても温厚そうな人だった。バックパッカーには大使館は冷たいという話も耳にしていたが、少なくともここはそんな事はなかった。
 先日のお礼から始まって、いろんな話を聞かせてもらった。『ラオス最大の援助国は日本』『第二次産業がほとんどないので、国立大卒業者の働き口がない』『メコン川の水量は、最大で22倍も違う』『今、ラオス在住の日本人は410人くらいだ』『ラオスは田んぼで、人は素朴。屋台は安く、いいところだ』『パスポートを取られたのがラオスでよかった。タイなら偽造パスポートに使われるから絶対取り返せなかったろう』『パスポートはなくてもなんとかなる、まずは命、次に体だ』『旅先の土地で災害とかに遭えば、旅行者も安否を大使館に連絡して欲しい』『すっからかんになったら、とにかく大使館に連絡してみてくれ』等々、等々……。気が付けば、一時間近くも話し込んでしまった。
 ビザ部にある本は、旅人でも貸し出し可能だとのことなので、明日また来て、何か借りよう。手続きの関係で、どうせビエンチャンにはしばらく滞在するんだし。
 気になっていたラオス−カンボジア国境について尋ねると、不法ではなく、お金を払えば入れることもあるらしい。だが正式なものではないので、大使館としては行けますとは言えないらしい。うーむ、前回が短すぎたから、もう一度カンボジアに行きたいところだが、直で行けるのか、一度タイに出る必要があるのか……どうなんだろう。
 大使館を辞して、宿に戻ろうとしたら雨が降ってきたのでトゥクトゥクで帰る。

 今日はもう遅いので、イミグレは明日だ。代わりにインターネットカフェを探すと、なんと一分100kip。これまでの街に比べ、どえらい安さだ。
 すっかり日が暮れてから宿に戻り、夕食を求めて宿の近くをうろつく。ガソリンスタンドに併設されているスーパーでお菓子を買い、近くの雑貨屋でビアラオを飲む。さらに路地裏の地元の人御用達らしい食堂を発見したので、そこで食事。席につくと、店の人にラオス語で普通に話し掛けられた。アヌサワリーでもそうだったが、僕ははじめ、ラオス人に見られる。次いでタイ人。日本人なんだけどなあ。ともかく、ここの麺はおいしかった。食堂の奥さんや子供2人がえらく構ってくれて、鳥の唐揚げやカオニャウ(もち米)を薦めてくるなど、楽しい食事になった。食後、くつろいでいると、店の主人(Sengさん)が帰ってきて、ようやく日本人だと解ってもらえた。この主人は日本語を習っていて、挨拶程度ならできた。ここには何度か通うことになりそうだ。
 いいなあ、ラオス。フレンドリーで、なんというか、くつろぐ。


ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月10日(金) ビエンチャン

 喉が痛い。
 おとつい頃から兆しはあったんだけど、今日は痛みで夜中に目が覚めてしまった。唾を嚥下するだけでも鈍痛がする。風邪ではないんだが。気管がそんなに丈夫じゃないのは自覚してるが……。この国では僕の加入している保険絡みの病院がないから、気をつけないといけないな。

 今日の最大の目的は、昨日できなかったビザの延長だ。5/16まで2週間のビザを持っているけど、もっとラオスを見たくなってしまったから。
 イミグレに行く。お粗末極まる僕の英語でも、外国人用窓口の係の人は慣れたもので、コミュニケーションは成立した。が、「ビザを10日延長したい」と言うと、「ここではできない」との返事。5日までしか延長してくれないという噂は本当だったのか? と戸惑う間もなく係員が用紙と地図を手渡して、「この地図に書いてあるトラベルエージェンシーへ行くといい」と言ってきた。イミグレから歩いて一分とかからない、すぐ近くのエージェンシーだ。気が付くと、他の外国人ツーリストも半分ほどは同じように指示されている。手続き上の制約か何かで、10日の延長だとエージェンシーを通さないと駄目とか、そういうことなんだろう。ガイドブックではエージェンシーを通して延長申請する場合はその期間のホテルの予約が必要とかあったが、そうでもないようだ。
 ともかく言われた通りにエージェンシーに出向く。小さなエージェンシーだが、イミグレが指定するだけあって、手続き作業は慣れたものだ。ラオス人の常として、愛想もいい。ビザを10日延長したいと言うと、てきぱきと手続きを始めた。申請用の写真も必要なく、イミグレでもらった書類とパスポートを渡し、いくつかの簡単な質問を受けただけで申請終了。料金は20ドル、一日2ドルの計算だ。この時点で午前11時。夕方4時過ぎにはできているとのことだった。
 待ち時間を使って観光することにして、外へ。まずは昼食だ。食堂に入ろうかとも思ったが、川堤上の屋台で麺を食べることにした。こういう屋台の雰囲気はタイと似ている。向こうのテーブルでは、高校生らしき男女が雑談に夢中だ。
メコン沿いの屋台。高校生が昼食に寄ってました。
 このあとはタート・ルアンと日本大使館が目当てだが、その前にもう一度アヌサワリーに行き、内部の売店でランニングのTシャツを15,000kipで買った。ラオスグッズが欲しかったのと、日焼けするために肌の露出が多い服が欲しかったもんで。

 ここからタート・ルアンまで結構あることは昨日でよく分かったので、今日は最初からトゥクトゥクを使う。5,000kip。
ラオスの象徴、タート・ルアン 中から
 で、ラオス最大の寺院、タート・ルアン。見ての通り、キンキラキン。他の人がどう思うかは知らないが、個人的には気に入った。ちょっと太陽の反射が眩しすぎて辛かったけど、想像していた以上の迫力が感じられた。夜にライトアップされたらまた綺麗だろうな。周囲では、関連寺院だろう、建築作業があちこちで行われていた。一大寺院区画にでもするつもりなのだろうか。
散策中に見かけた寺院。タイのそれとは様式が違い、ちょっとシックですが、派手には違いありません。
 気が向いたので、ぶらぶらと地元の人用の路地に足を踏み入れてみる。さすが首都というか、日本の基準で見れば、ちょっと昔の地方都市の下町、といった水準のようだが、これまで見てきたパクベンやルアンパバーン郊外の村からすれば、生活水準には雲泥の差がある。やはり首都。この国の中心地だ。
 住宅地を抜け、幹線道路に出る。
タート・ルアンから郊外に向かう主要道。
 幹線道路を使ってぐるりと回り込みながら、日本大使館を目指す。それにしても暑い。帽子とタオル、サングラスがなければもたなかったかもしれない。
 と、目の前に白くて大きな塔が現れた。
革命記念塔。社会主義国家なんだよなあ。このそばには国民議会もある由。
 広々とした敷地の中には人の姿は見えない。タート・ルアンのすぐ近くにこれだけ立派なものがあるのに、観光客の姿もなければガイドブックにも紹介されてない。「これは何だ?」と地図をよく見て、ようやく分かった。革命記念塔だ。そういや塔の頂に☆があるな、なるほど。このすぐそばには国民議会もあるらしい。まさにラオスの中心部だ。
 暑いのもあり、無理せずに歩いて午後三時に日本大使館へ。二日連続の来訪だけあって、顔を覚えられている。来訪者自体そんなに多くなさそうなのに、バックパッカーが二日連続で来るんだから無理もないか。
 現地スタッフは入り口のおっちゃんも、ビザ部の受付の姉ちゃんも、とにかく愛想がいい。今日は本を借りるだけのつもりだったが、トイレに行きたくなったので貸して欲しいと頼むと、二重ロックの扉を開けて職員区画に入れてくれた。なんか緊張する。内部は当然だが、日本人ばかりだ。ふと、日本にいるような感覚に襲われた。……というか、日本大使館の敷地内は日本なんだった。
 トイレからの帰りに中を覗くと、ちょうど小山さんと目が合った。「あ、ちょうどいい。これあげる」と手招きして呼ばれて貰ったのは『海外安全ガイドブック』。たはは……(^^; それはそうと、小山さんって領事だったんだ……。

 本を二冊借りてから、再度トゥクトゥクでエージェンシーに戻る。16時過ぎ。ちゃんと出来上がっていた。5/25まで滞在可能になったわけだ。これで、一度は諦めたラオス南部に行ける。行った人が口を揃えていい所だと言う、ラオス南部に。
 古本屋に行ってみる。日本語の古本を扱う店なんて、ラオスに一軒か二軒しかないんじゃなかろうか。日本語以前に本屋自体を見かけないし、新聞さえ売っているところを見ないんだから。首都なのに。隆慶一郎の本(2万kip)と英語-ラオス語会話集(ラオス文字表記つき)(1万kip)を買う。これで昨日のアヌサワリーのようなことがあってもなんとかなる。
 さらに宿に戻りながら目についた薬局(余談だが、緑十字やワイングラスに絡みつく蛇の図案で薬局を示す国がけっこうある。これはどういうシンボルなんだろう。ラオスでもこのマークが使われていた)で、喉の薬を買う。英語の通じないラオス人相手に熱はない、喉が痛いとジェスチャーで訴えて出してもらった薬だから、多分大丈夫だろう。トローチとのどスプレー、合わせて45,000kip。高いけど仕方ない。
 夜は昨日と同じ食堂で麺料理、そして別の店でビアラオ。各5000kip。さらに少し歩いたところに、大きくてきれいなネットカフェを発見。ツーリスト区画ではないので、地元の子供・若者向けネットゲーム屋のようなものかな。ここではプリントアウトサービスがモノクロ一枚1,000kip。それはいいんだが、プリンターがレーザープリンター……参った。なんなんだこのギャップは。


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