ほろほろ旅日記2002 5/11-20
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ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月11日(土) ビエンチャン
今日は特に用事はない。とりあえず、ラオス南部に向かう時に備えてバスターミナルへバスの時刻を調べに行く。相変わらずここは客引きがしつこい。その後、ターミナル近辺をぶらつく。観光名所でもなんでもない、普通の町並みを歩くのはその土地の直の体温が感じられて、楽しい。バイクの修理屋、金物屋などをひやかしているうち、ふと、美味しそうな屋台が目に止まった。
バンクアンというベトナム料理らしい。見覚えはないけど、ベトナムは駆け足で過ぎたからなあ。もっちりした餃子のような形状で、米粉で練った生地に挽肉を中心とした餡を包み、胡麻やモヤシなどのトッピングとともに甘辛い生姜だれにつけて食べる。これがおいしい。ビエンチャンにいる間は通いつめようっと。
昼近くになったので散策を切り上げ、シーサケット博物館に行く。途中で大統領官邸前を横切る。交通の要衝に位置しているから、タート・ダムとともに毎日見てるなあ。
シーサケット博物館は、博物館というより、お寺だった。普通に本堂と伽藍があるだけの。お寺を見て歩くのも好きだけど、博物館を見るぞ、という意気込みで来ただけに肩透かしを食った気分だ。
それでも壁にびっしりと穿たれた穴にそれぞれ二体の仏像が安置されていたり、本堂内部の壁に東南アジアの寺でおなじみの鮮やかな仏画が一面に描かれていたりと興味深かったのは確か。
仏画は教化と戦争について、かな? 戦象もいるし、首から上の部分に血かオーラのようなものを纏わせた人の画も多い。と、ここは12時に閉館だったので、20分ほど見たところで外に出されてしまった。仕方なく周囲をぶらぶらと歩く。まわりは墓地になっていて、偉い人のお墓が多いようだ。形状も特徴的だし、墓標に写真が飾られているものもあり、興味深い。
と、地元の若者に声を掛けられた。が、何を言っているのか分からない。いろいろ言ってくるが分からないので首をひねっていると、しばらくしてから英語で「タイ人じゃないのか?」と。またか……なんでそう、タイ人だと確信されるんだ……。こっちが日本(ニップン)人だと分かると、友人らしいお坊さんを何人か呼んできた。話を聞くと、彼等は日本語を習い始めて三週間なんだそうだ。まだ基礎発音の段階だと言っていたので、日本語の発音にそんな難しい音があるのか、と尋ねると、「キャ」とかの拗音が難しいらしい。そんなものなのかなあ。中でも意外だったのが、「つ」が難しいという事だった。タ行の法則から、「トゥ」と発音してしまうらしい。言われてみればその通りなんだけど、難しいのか……。
彼等の話によると、ラオス人の多くは日本語を習っていて、日本が好きだそうだ。さすがは最大援助国。確かにここまで東南アジアを旅してきて、反日的な態度に遭遇した事はないし、むしろ好意的だったことが多い。中でも特にラオス人は好意的だと思う。いろいろと認識を改めなければならないことが多いのかもしれない。
その後、二時間ほど彼等の日本語の勉強に付き合った。ネイティブの発音で日本語のテキストを読んでくれと言われたが、関西弁しか話せないため、共通語で吹き込まれた手本のテープとイントネーションがあまりにも違い、彼等をかえって困惑させてしまったようだった。申し訳ない。
その後、道を挟んでシーサケット博物館の南側にあるホーパケオ博物館が夕方まで開館していることに気付き、足を伸ばした。シーサケット博物館よりは広いけど、それでもやっぱり小さかった。この二つの博物館を見て一番印象に残ったのは、タイなどの外敵の侵略によって打ち壊された仏像の多さだった。破壊されたまま、無造作に積み上げられた仏像を見ていると、なんとも言えない気分になってくる。
雨季が近いのか、夕方から夜にかけて、激しい雨が降ることが多くなってきたようだ。
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5月12日(日) ビエンチャン
今日は日曜なので公的機関は閉まっており、特にできることがない。宿にもう2泊することを伝えてからぶらぶらと外へ。すぐ近くにあるワット・シームアンに立ち寄ってみる。参拝客だろう、女の子のグループがお坊さんに何かしてもらっていた。祈祷? 占い? よくわからない。
時折雨がぱらつくので雨宿りをしつつ、食事に。バスステーション近くでバンクアンとピンカイ(鶏の串焼き)の取り合わせは昨日と同じだ。すっかり気に入ってしまったなあ。
天気が不安定なので一度宿に戻り、天気が落ち着いた二時過ぎまで読書をして過ごす。日本大使館で借りた小説「播州平野」、タイトルに惹かれて借りたけど、終戦前後の作者の私小説みたいなものか。最後まで読み進んで、日本共産党絡みの話だったことに驚いた。
主な観光ポイントは大体見たので、今日はガイドブックを見て気になっていたところに行ってみる。
スイミングプール。
最初はなんでガイドブックにわざわざ書いてあるのかと思っていたけど、ラオスをここまで旅してきて納得。普通の人はそもそも泳ごうなんて思わないし、泳ぎたければ川で泳げばいい。プールなんて、ラオス中でここ一箇所しかないのかも。
町外れにあったプールは、日本でいうところの市民プールのようだった。天気がよくないこともあってか、日曜日なのに利用者は少ない。親子連れと子供のグループばかりだ。ちなみに当然というか、外国人は僕一人。あまり定着してないのかな?
一つのプールでいろいろできるようにするためか、一方の端は子供が水遊びできるくらい浅く、もう一方の端では軽く飛び込みができるくらい深い(3メートルくらい?)。おかげでいろいろ遊べる。使用料は5000kip。
ここでも子供が寄ってきた。塩素がきついので3000kipで借りた水中眼鏡をまた貸ししたのをきっかけに、一緒に遊ぶ。本当にラオスの子供はなつっこいなあ。一人で泳いでいたらすぐ飽きたろうけど、くたくたになるまで遊んでしまった。
夕方になってしまったけど、その後にもうひとつ行った。有名な薬草サウナに。ここの使用料も5000kip(マッサージなし・サウナのみ利用の場合)。広大な寺院区画の一角にあり、最初は全然見つからなくて困った。ようやく見つけたサウナは、森の中にひっそりと佇む木造のぼろい高床式建築で、他の寺院が新しい鉄筋コンクリートで堂々としてるのに比べ、正直みすぼらしい。が、まあこれはこれで味だよな。
建物は脱衣所兼休憩所兼マッサージコーナーとサウナ室一つという構造で、男女の区別もないシンプルな作り。サウナ室は想像以上に小さく、明かりもないので真っ暗で、席を譲り合いながらの入室だった。最初はなんだこれはと思ったけど、いざ入って腰を落ち着けると、視覚情報がないため、充満した薬草の香気に深くひたれ、幽玄というか、なかなかオツなものだった。
ここもラオスの観光スポットの例に漏れず、利用者の過半数は外国人だったが、サウナ室で2人のフランス人が声高に話していた。真っ暗で顔なんてわからないし、もちろんフランス語なんて知らないけど、鼻にかかる特徴的な言葉で、フランス語だな、というくらいは分かる。そしてその内容も、おぼろげになら理解できた。
「なんなんだこの国は。どこを見ても日本、日本、日本! JICA、JICA、JICAじゃないか!」
……元はフランスの植民地だったのに、なんで今は日本が幅を利かしてるんだ、とかそういう意識でもあるんだろうか。かなり憤慨した口調だった。いや、だって最大援助国は日本だし。それに、そうは言っても街中では日本語表記なんて見かけないし、ラオス語・英語・フランス語の表記は普通に見かけるんだけど。
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5月13日(月) ビエンチャン
先日来、ずっと考えていた。ラオスの次はどこに行くかを。で、カンボジアにもう一度行く事に決めた。前回の訪問はろくに見ずに走り抜けただけだし、可否がはっきりしないが、ラオスから直接行けるのなら面白そうだし。そのためには、ここでカンボジアビザを取得しておかないと。
今日は一日1万kipで自転車を借りたのだが、サドルが高い位置に固定(白人仕様?)の上に硬く、ブレーキが利かずに参った。ともかく銀行でお金を下ろしてから日本大使館へ借りていた本を返しに行った。
次いでカンボジア大使館にビザの申請をしに立ち寄ったが、午前の部は11時半で閉まっていた。今は11時45分。仕方ないので後回しにして、タイとの国境にかかっている友好橋と、その向こうにあるブッダパークを見物しに南東方面へ向かう。聞いた話だと、ビエンチャンから大体片道20キロくらいらしいので、自転車でもなんの問題もないはずだ。地図はないし、道路標識もラオス語で分からないので、頼りはコンパスと勘のみ。大体の見当をつけて、てれてれと漕いで行く。
一時間後。やられた。つぼった。橋もなんも見えやしねえ。道が細くなり、車通りもなくなり、舗装までなくなった。水たまりとぬかるみに車輪を取られながら、田圃の間を縫う道を行く。じりじりとした日差しが暑い。緑が濃い。見渡す限り、田圃と森。昔の日本の田舎も、夏はこんな感じだったんだろうなあ。喉が渇いたが、商店どころか人家もあまりない。道を間違えたのは明らかだが、どう行けば復帰できるかもわからない。
このへんまで来ると、地元の人が老若男女問わず、やたら「ハロー!」と声をかけてくる。フレンドリーだなあ。でもこれって、外国人がここまで来るのは珍しいという証拠でもある……首都ビエンチャン近郊とはいえ、何もない農村地帯だもんな。このまま進んでも無駄っぽいので、引き返すことにした。自転車の状態が悪いため、手と尻が痛くなってきた。それとは別に、アヌサワリーで買ったタンクトップのシャツを着ているため、肩を含めた露出部分が急激な日焼けでひりひりと痛い。途中、ギブアップしそうになったので数度、雑貨屋でジュースを買って休憩する。言葉が全く通じないところで買い物をするのにも大概慣れたな。午後1時45分、宿に帰着。もう限界だ。フロントで飲み物を買い、中庭に面したロビーでぐてっとへたばる。宿の飼い猫が体の上に這い登ってきて丸くなる。暑くないのか。
一時間後、どうにか動けるくらいに回復した。とはいえ、尻が痛いのは変わらないので、今度は歩いてカンボジア大使館に向かう。市街地の南東の外れにあるので、中心部から東に外れたこの宿からなら歩いて行ける。日本大使館と違い、塀は生垣だし、門番もおらず、自由に出入りできる。大使館の建物も小さく、立派な民家といった風情だ。中に入ると、いたのは来訪者らしき一人の白人女性のみ。係の人がいないので、話し掛けてみた。相変わらず英語は不確かだが、聞き取れたわずかな単語を頼りに、ヤマを張って会話をする。その人は、ベトナム行きのダイレクトバスに乗る予定だそうだ。係の人が戻ってきた。その白人女性のビザを取りに行っていた模様。係の人に聞くと、ラオス−カンボジア間の陸路国境の外国人通過は「No!」とのこと。情報が錯綜しているが、あまり期待しないほうが良さそうだ。ともかく、直近まで行ってみよう。カンボジアビザの申請手続きに入る。ビザ代はアメリカドル払いのみで20ドルとのことだったが、手持ちが13ドルしかなかったため、受取時の支払いにしてもらう。出来上がりは水曜日の朝10時とのこと。それまではビエンチャンか。思わぬ長逗留になったな。
一度宿に戻り、今使い切ったので申請書類用の写真を撮りに出かける。コダックのエクスプレスと看板の出ている店を見つけ、入る。デジカメで撮影したのをプリントし、10枚で2万kip。安いし手軽だな。……この国の物価水準からしたら高いんだけど。しかし、この国の水準からしたら、飛びぬけて小奇麗だな、ここ。外国資本で作られたのかな。それはそうと、出来上がった写真を見て、改めて思った。黒くなったなあ、自分。平均的ラオス人より明らかに黒い。
夜7時前に近くのインターネットカフェに行くと、今日は夜7時までだと言われてしまった。そうなるとなぜか意地でもネットをしたくなり、トゥクトゥクを使って市街の中心部に出向き、そこでネットをする。9時過ぎ、宿に帰ろうと支払いをしていたら、滝のようなスコール(雷雨)襲来。傘なんてなんの役にも立たない勢いだ。仕方なくやむのを待つが、いっかな降り止まない。10時半、ようやっと収まったので外に出たら、道が川になっていた。
比喩じゃなく、文字通りの意味で。なんだこりゃ。こんなことなら、半ズボンを履いてくるんだった。足元は素足にスリッパだからいいとしても。首都とはいえラオスの夜の街は暗いのだが、このスコールで一部の街灯が切れており、さらに暗い。正直、何も見えない。当然、トゥクトゥクも通りかからない。仕方ないので川の中を突き進んで宿を目指す。地元の人も同じようにしている。水の下で、路面がどうなっているか分からないので自然と足取りは慎重になる。そこらで排水溝が口をあけていたりして、運が悪いと水の中にすっ転んでしまいかねないから。あ、バイクを手押ししていたラオス人のお姉ちゃんがひっくり返った。
いくらメコン川のそばとはいえ、低湿地というわけではないのにこんなことになるとは。排水インフラの整備が未熟ということか。宿の近くまで来ると水も引き、11時過ぎ、なんとか宿に帰着した。シャワーを浴びて着替え、日本のそれと変わらない蛙の合唱を聞きながら、眠りに落ちた。
しかしこの天気、もう雨季じゃないのか。
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5月14日(火)ビエンチャン
朝はゲストハウスで食べることにしている。フランス統治の名残か、パンの素っ気無いメニューしかないが、近くに店がないから一番楽だし。
今日はまず、銀行に行って両替だ。先日タイバーツを下ろしたSIAM COMMERCIAL
BANKに行ったら、タイ系の銀行だからアメリカドルへの両替はできない、ラオス系の銀行へ行ってくれと言われた。そういうものか。1000バーツを23ドル強に。
時計を見ると11時。この後何をしたものかと考えながら町を歩いていると、えらくへばった歩き方になっているのが自覚できた。食事も水分も、ちゃんと摂取してるはずなんだけどな。最近ラオス式の麺料理とフランスパン、カオニャウ(もち米)ばかり食べてたから栄養が偏ったのかも。思い切って奮発することにして、目についた外国人観光客目当てのツーリストレストランに入り、フライドライスを所望(奮発してこれかよ(^
^;)。ある程度元気が戻ったような気がする。現金なものだ。
昨日行きそびれたブッダパークに再チャレンジすることにした。今日は素直にバスターミナルからバスに乗って行こう。近郊路線のローカルバスというのもまた、別の風情があっていいものだし。
で、乗ってみて驚いた。1時間乗車して、料金1000kip。安い! これがツーリスト料金でない、ラオスの相場か。乗っている間に二度、乗客が入れ替わった。途中で車窓から、タイとの国境にかかる友好橋を見ることができたし。前もって周りの乗客や運ちゃんに「ブッダパーク」と言っておいたので、降車はスムーズだった。郊外の特に何もない、広々としたところだ。英語ででかでかとブッダパークって看板が出てるや。
入場料2000kip、カメラ持込料2000kip、場内のジュース1缶5000kip。うーむ。
で、ブッダパーク。お寺ではないと事前に聞いてはいたが、仏教・ヒンドゥー教なんかが混合した、石像ではなくコンクリート像が林立する、まさに公園だった。でも味があって、なんか面白い。あまり客もいないので、のんびりと散策を楽しむ。中に入れるほど大きいナンキンのような像……宇宙を表してるのかな?(内部には数多の像で現世・天国・地獄等が表現されている)や寝大仏、等々。普通の仏像もあるけど、ふつう像にしないようなシーンを切り取ったものも多い。以下に写真の一部を並べてみます。重くてごめんなさい。
一通り見終わって一服していると、「アンニョンハセヨ?」とラオス人の兄ちゃんに話しかけられた。僕が日本人だと言うと、嬉しそうに「コンニチハ」と言い直した。その兄ちゃん、韓国語は話せず、日本語を少し話せるだけだったが、ならなぜそんな呼びかけ方を? なんでも、兄ちゃんの持つ日本語のノートを英訳して欲しいらしい。って、日本人に用事があるなら日本語で呼びかければいいのに。そういやベトナムでもこんなことあったなあ。ひらがなだけなので音は拾えるが、文章の意味が分からないらしい。暇だから別にいいんだけど、その文章というのがまあ。
『あなたのくちびる、むねのぬくもりがわすれられません。にほんでひとりでおもいだしてます。あなたもゆめのなかで、わたしをぎゅっとつよくだきしめてね。……』
……なんですか、これ? 日本人のガールフレンドが書いたと言っているけど、本当に本気でこんなことを書いたのか? ネタ入ってないか?
『あなたにだかれてむかえたあさをおぼえています。……』
英訳して伝えると、そばにいた友人らしい坊さんは腹を抱えて爆笑していた。兄ちゃんは苦笑しながら少しとまどっていた。ここまでダイレクトな内容だとは思ってなかったのかな。
帰りのバスでは、昔日本に交換留学生で行ったことがあり、その時に小渕元首相に声をかけてもらったことがあるという人とその奥さんと話をした。小渕元首相が亡くなったことを話すと残念がっていた。
ルアンパバーンでパスポートと現金を取られた事を奥さんに話すと、「こんな所で旅をしていて大丈夫なの? それに、ラオス人がそんなことをするなんて信じられない!」と言い、パスポートは戻ってきたし、取ったのはラオス人ではなかったらしいと言うと、「良かったね、あなたは運のいい人だ。それと、やっぱりラオス人じゃなかったんだ。ラオス人にそんな悪人はいないよ!」とにこにこと笑って言った。いいなあ、ラオス。過ごすほど、ここの人達が好きになっていく。
夕方、もう一度昨日の写真屋に行ったら、ルアンパバーンの宿にいた兄ちゃんに遭った。せまい国だ、というか縁というのは面白いものだ。
今日くらいから行きつけのネット屋や雑貨屋、食堂に顔を出すと「Are you tourist? (あんたは旅行者なのかい?)」と聞かれるようになった。そうだよなあ、9日にビエンチャン来てからもう6日。ツーリスト街でもないのにのんきに長逗留してるんだから、何者だと疑問に思うのも無理はないよなあ。
夜、行きつけの雑貨屋でいつものようにビアラオを飲みながらおばちゃんとだべる。おばちゃんは中国人とベトナム人のハーフで、基本的にベトナムの人らしい。ビエンチャンには小さい頃に少し住んでいただけで、二年前に息子に呼ばれて来たのだと言っていた。1、2年したらサイゴン(ホーチミンシティ)に戻る予定だとか。大陸にはこういう国を越えたスパンで生きている人が多いんだなあ。
移動は木曜日にサバナケット(サワンナケート・SAVANNAKHET)に行くことにした。ラオス南部のパクセに行きたいんだけど、直行便は夜行しかなく、そのバスがまたトラックじゃないだけましだと思えと言わんばかりの代物で、ちと勘弁してくれと思ってしまったので、中継点を置くことにした。
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5月15日(水) ビエンチャン
どうも最近疲れ気味だ。なのに寝つきが悪い。がんばろう。
カンボジア大使館に出向き、約束の20$を払ってビザを受け取った。これで今日の予定は全て終了。
ゲストハウスでうだうだしたり、街中を散策したり、まったりとビエンチャン最後の日を過ごすことにする。
適当に昼食に入った食堂でフライドライスを食べていると、食堂のおばちゃんと娘さんが空いている席に座ってテレビを見始めた。何が始まるのかと見ていると、サッカーを題材にしたタイのコメディードラマだった。タイでもみんな見ていたし、人気あるんだろうな。なんとなく一緒に見る。言葉は分からないが、動きで見せることも多いコメディーなので、楽しさは伝わってくる。うん、結構面白い。
日本のドラマで、動きで見せるコメディーってあんまりないのでは。ドラマは見なかったので、知らないだけかもしれないけど。
ぶらぶら歩いていて、たまたま民家のテレビが目に入ったら、そこで一休さんをやっていた。日本のアニメが海外で人気というのは知ってたけど、まさか一休さんまでやっているとは。
街の住宅街を歩いているとよく耳にするのが、ファミコンの音。ここでは今がファミコンの時期のようだ。ファミスタやマリオの聞き慣れたピコピコ音楽が聞こえてくる。懐かしいというか、なんか変な感じだ。
ここまで東南アジアを旅して気付いたんだが、こっちの公衆トイレって、下手な日本のそれよりずっと清潔だ。手動水洗には慣れるまで抵抗があったけど、そのハードルさえ越えてしまえば、水洗だし紙は使わないしで、悪臭や汚物のこびりつきがほとんどない。正直、これは意外だった。
午後四時、ネットをしに行ったら、今は繋がらないと言わた。なんでも、今はビエンチャン中どこでも繋がらないとか。ビエンチャンでただ一台のサーバーがダウンしてしまっているらしい。……待てよ。ルアンパバーンでもアクセスポイントはビエンチャンだと聞いたことがあるぞ。まさか、今のラオスにあるサーバーは一台きりなんてことはないよな……?
季節が変わったのを感じる。朝晩、めっきり過ごしやすくなった。テレビの天気予報を見たら、最低気温が23℃だった。熱帯夜ですらなくなったのか。
今日が最後といつもの雑貨屋でビールを飲んでいたら、おばちゃんに「コミュニストは好きか?」と聞かれた。社会主義の国でまた答え難い事を……。おばちゃんは好きじゃないらしい。お金をいっぱい儲けられる方がいいと。さすがは中国人の血が入ってるだけありますね。けどおばちゃん、あなたの生活圏の中国・ラオス・ベトナムはどれも社会主義国家ですが……。
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5月16日(木) ビエンチャン →(パクサン)→(タケク)→(セノ)→ サバナケット
朝から雨がぱらつく中を、朝6時半にバスステーションへ行く。すでに席はかなり埋まっていた。ガイドブックではラオスのバスはトラックバスが多いと書かれていたが、北部山岳地帯はともかく、このあたりでは普通のバスがほとんどだ。そのバスのほとんどの車体に、このシールが貼られている。JAPAN
Official Development Assistance、つまりODA。
バスの乗客の中で外人は僕とドイツ人女性の2人だけ。となると、人気が向こうにだけ行くのは当然だ。なにせこっちは横の席に「コートー(ラオス語で『すいません』の意)」と言って座ってきた人に、そのままラオス語で話し掛けられるくらい現地に溶け込んでるんだから。
6:50、発車時刻を待たずに満席。これ以後の乗客は、通路にプラスチックの椅子を置いて、そこに座らされていた。長旅だからか、どんなに混んでいても、基本的に乗客は立たせない。7時過ぎに発車。これでビエンチャンともお別れだ。1時間半ほど走ったところで、そこらの道端で一回目のトイレ休憩。さらに二時間ほど走った10時半、パクサンを過ぎたところにある小集落で食事休憩を30分。学生が帰宅していたが、こんな時間に学校が終わるものなんだろうか。テスト期間か何かかな?
このあたりから田んぼが増えてきた。田んぼの中に、大きな樹木が普通に生えていたりする。稲は樹木を迂回して植えられている。機械化が進んでないからできるんだろうな。農耕機械なんて耕運機くらいしか見なかったし、それより牛の方がずっと多いし。12:40、もう一度トイレ休憩。バスの進路が東から南東やや南よりに変わったのに合わせるように、地勢もさらに変化してきた。東遥かに山脈(ベトナムとの国境をなすアンナン山脈だろう)が望めるようになり、そこまでの平地は森と平野。焼畑はほとんど見かけなくなり、樹々の密度が明らかに濃くなった。
タケクも過ぎて午後3時前、セノという町の停留所で休憩。ぎっしり乗っていた乗客のほとんどがここで降車した。終点かと思って降りようとしたら、スタッフの兄ちゃんに笑いながら「ここはセノ、サバナケットはまだだよ」と制止された。ベトナムのノンを被った物売りの女性たちが商魂たくましく群がってくるのを楽しんでいたが、ドイツ人女性は「ウチに泊まっていけ」と誘ってくるおっちゃんの相手に苦労していた。
ガソリンスタンドでディーゼル燃料を155リットル補充して出発。車内もガラガラだが、道も立派な割に交通量が少ない。そこを快調に15分ほど走ると、もう終点のサバナケットだった。時刻は3時半。8時間ほどで到着した。
幸い雨は止んでいる。バスステーションは町外れにあるが、中心部から何キロほど離れているのか、どの道が中心部に向かうのかが分からない。地図もない。それでもまだ日は高いし、いつもならふらふらと彷徨しながら中心部を目指すのだが、今日はなんだかしんどくて、気力が沸かない。考えた結果、トゥクトゥクに乗ることにした。簡単な英語ができ、人の良さそうな運ちゃんのを選んで乗り込む。特に目当てがあるわけではないので「センター」とだけ告げ、5,000kipで行ってもらった。
適当なところで降り、メインストリート沿いにてれてれと歩いて宿を探し、目についたSAYAMUNGHUN
GUEST HOUSEに転がり込む。シングル一泊34,000kipなり。
チェックインを終えて一服していると、突然の大雨(スコール)がやって来た。一時間近くも降ったか。止むのを待ってから、町の散策に出た。サバナケットは特に観光スポットはないという話なので、適当にうろつくだけだが。
サバナケットは夕焼けがきれいだという話だったので、メコンの川べりに行ってみた。今日は曇っているので夕焼けは望めないが、それでも眺めは良かった。晴れてたらもっといいんだろう。対岸のタイ側には平野が広がっており、開放感のある眺めで、対岸の町灯りがきれいだ。
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5月17日(金) サバナケット → パクセ
選んだ部屋が失敗だった。レセプションの真横で、うるさい。上階の宿泊客の足音もうるさい。朝の四時半に目覚めさせられてしまった……。こんな早朝に起き出すという事は、ベトナム行きのバスに乗るんだろう。一日一本、とんでもない早朝発の便しかないから。この部屋でもう一泊はしたくないが、どうせ部屋を移るならと、パクセに行ってしまうことにした。朝食後、雨の間隙を縫ってバスターミナルへ。ちと遠いがどうせ暇だし、道はもう覚えたから歩きで。
……バスターミナルに着いてみると、バスがない。いや、バスは停まっているし、タイムテーブルにも載っているのだが、10時には出ないという。ラオス語で何か註でも書いてあるのかな。しかし、大動脈たるサバナケット−パクセの便が一日2本しかないって……。混雑ぶりからすれば、もっと増やしても大丈夫だと思うんだが。7時間かかるという話だから、14時発だと延着も考慮して夜10時前くらいになってしまうじゃないか。いいや、行っちゃえ。
バスターミナルには何もないので一度中心部に戻って時間を潰し、13時に再度バスターミナルへ。雨がざんざか降りになってたし、もうしんどいのでトゥクトゥクを使って。着いてみると、座席はすっかり埋まってしまっていた。あうう。やむなく通路に置かれた穀物の麻袋に腰掛ける。まあ最前列で見晴らしはいいからいいか。キップは車内で発車前に購入。パクセまでわずか20,000kip。僕のいる最前列の両側には、中国人男性の二人連れと、ベトナム人女性の二人連れがいた。やはりベトナム人の女性はきれいだ。僕が日本人なのが興味深いらしく、両側からしきりとカタコトの日本語で話し掛けてきてくれる。
30分遅れの14:30、発車。まあ普通。……見晴らしを楽しめたのなんて最初だけだった。元々体調は良くはなかったが、ここに来て一気に悪化した。気分が悪い。ある程度覚悟はしていたので、今日は朝から何も口にしていない。空腹くらい、バスの中で醜態を晒すことに比べればなんてことはない。うずくまって、ただただ時が過ぎ、パクセに辿り着くのを只管に冀う。
元々満席だったのに、停車するたび乗客が増える。参った。途中、トイレ休憩2回。後は降車客がいる時にいろいろと。五時頃には手足の先が痺れてきた。なんだこれ。両側の人がこっちの様子に気付き、「tired?」と尋ねてきてくれるけど、どうやらsickみたいです。ベトナムの人が僕の額に手を当てて少し考え、酔い止めのメンソールオイル(だろう)を貸してくれた。額につけるらしい。他にも色々気を使ってくれたが、今の僕には荒い息の下から「カムオン」と言うしかできない。
6時過ぎ、パクセではないが、客が一気に減った。そんな大きい町があるようには思えないけど。なんにせよ少し楽になったのでありがたい。座席は空かないけど、通路は空いたので、麻袋の上に寝そべる。限界一歩手前だし、なりふり構っていられない。このあたりから、ついに寒気もしてきた。
このままではパクセまで持ちそうにないので、どこか宿がありそうな所で途中下車しようと考えていたら7時半、終点パクセに到着。ガイドブックの情報より2時間も早く、5時間で到着した。助かった。
ここでもバスターミナルは町の中心部から遠く離れたところなので、乗客みんなでトゥクトゥクに乗って移動する。5000kip。PHONESAVANホテルの前で降りた。白人客は皆ここに入っていくが、ガイドブックには安かろう悪かろうと書いてある。普段ならともかく、今の体調でそれは嫌だ。今日は少々奮発してでもそこそこのところに泊まりたい。ふらふらする体に鞭打ち、夜のパクセをさまよい歩いてLao
Chaleuneホテルに決めた。250バーツのシングルルームは埋まっていて、350バーツ(77,000kip)の部屋しかないとのことだったが、構うものか。こんな状態でも、部屋を見てから決めるあたり、慣れてきたと言うべきなのか。テレビと冷蔵庫がある。なくても構わないけど、あればあったでありがたい。
部屋に入り、着替えてシャワーで汗を流し、フロントで買ったジュースと日本から持ってきたカロリーメイトの食事を済ませ、風邪薬を飲んでベッドに倒れ込む。体温を測ってみたら、39度超。37度台だと思ってたのに、きついわけだ。熱帯の風邪は治りにくいと言うし、まだ9時だが、とっとと寝ることにしよう。テレビをつけたらタイの番組か、ショーバイ・ショーバイをやっていた。日本製のあれではないが、タイトルロゴから決め台詞&決めポーズまで、全く一緒だ。おいおい。それ以前に、商売って言葉、通じてるのか?
とにかく休む。他の事は全て後回しだ。……と思っていたが、眠れない。なんか屋外で大音量でカラオケをしていて、うるさい。全然く休まらないじゃないか。12時を過ぎても終わる気配がない。哀しくなってきた。なんのために無理してパクセまで着たんだろう……。
フロントに尋ねてみると、年に一度の何かのフェスティバルで、朝の3時までやっているとの事だった。公衆道徳の概念は期待できないのね……耐えるしかないのか……体調、悪化しなけりゃいいんだが……。
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5月18日(土)パクセ
結局、昨夜は午前2時過ぎまでやっていた。
その後ようやく眠れ、朝遅くに起床。昨夜よりましにはなったが、まだまだ熱がある。テレビをつけると日本のアニメをやっていた。横になったままぼんやりと見ていると、ポケモン・おじゃ魔女どれみ・デジモン02と続けて放送していた。本当に人気あるんだ。
11時過ぎに下に降りる。フロントの兄ちゃんに聞くと、昨日のはフェスティバルで、一晩だけのものだそうだ。ほっ。体調が治るまで何も出来ないので、せめてシングルルームに移りたかったが、空きがないとのことで断念。今夜も高いダブルルームか。ホットシャワーがあるからいいとしよう。
ふらつく足を励ましつつ、近場を少し歩く。
パクセはそれほど大きい町ではないが、ラオス南部最大の町だけあって、そこそこ大きい建物もあり、未舗装が多いが道も広い。いい感じの町だ。
小さなマーケットの片隅の屋台で、あんみつ様のデザートを食べる。屋台といっても椅子代わりの木箱があるのみだが。20分ほど歩いただけだが、体がきつくなってきたので焼きバナナと肉まんを買って宿に戻る。
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5月19日(日) パクセ
体調もかなり良くなったことだし、シングルルームに移る。45,000kip。
昼は春巻。が、これが油がきつくて。やはりまだ完調ではないようだ。それはともかく、ようやくパクセ観光に出る。ガイドブックにあったパクセ唯一の見所、チャムパサック博物館を目指して歩いて行く。が、閉まっていた。休館日ではないはずだが。というか、寂れ具合や雑草の生え具合からして、ずっと開いていないように見えるんだが。潰れたのか?
ま、植民地時代の遺産、コロニアルホテルを見たからこれでいいとしよう。外からだけど、スタジアムも見たし。もう一息足を伸ばしたところにマーケットがあったので入る。リュックがボロボロに破れてきてるので、修理するためのあて布が欲しくて探すが、端布は売ってない。繕い物とか一般的じゃないのか?
観光できそうなところも終わったので、旅行代理店を探して歩く。頼りはガイドブック。が、SODE TOOKもランサーントラベルも閉まっていた。間が悪いったら。ランサーントラベルの前で白人観光客の二人組が室内に張ってある情報を覗き込んでメモしていたので、僕もそれに倣う。ビザの残り日数を考えても、明日にはここを出たかったのに無理かな……。
仕方がないので宿に戻り、洗濯。その後フロントの兄ちゃんと雑談。そこで南部行きの情報がないと嘆いたら、兄ちゃんがいろいろ知っていた。以前、代理店で働いていたとか。それによると、代理店で車を出すと、世界遺産のワット・プーへは45$、最南部のコーンパペンの滝へは80$、両方セットだと120$だそうだ。うへえ、とてもそんな大金は出せないよ。
やはり地元の交通機関を使ってえっちらおっちら行くことにしよう。それが貧乏バックパッカーの流儀だし。とりあえずワット・プーのあるチャムパサックに行くには、バスとボートがあるらしい。そんなに遠くないが、便はあまり良くなく、日帰りはかなり厳しいとか。まあそのへんは、向こうに行った時の感じで考えるからいいや。
まだ明るいので、船着場を確認しておくのを兼ねてメコン川の方へぶらぶらと散歩に出る。この町、のんびりしてていいんだが、日本人の姿を見ない。『地球の歩き方』を見せてもらいたいんだけどな。昨日の甘味屋で軽食。ここのおばちゃんはベトナム人(確かにノンを被っている)で、ハノイの人だそうだ。出稼ぎかな? でも、経済力はラオスよりベトナムの方があると思うんだけど。それはともかく、おばちゃん30歳って、えええ、年下!? ごめん、50歳前後だと思ってた。
夕食はカレー。これもココナッツがふんだんに使われててオイリーだ。きつい。麺料理もラーメン・やきそばともに見るからにオイリーだし。ジュース類は甘すぎる(熱帯では糖分を積極的に摂取する必要があるからこれは分かるが)。早く体調を治さないと辛い。
夜は部屋でボロボロのリュックを修理する。とはいえ、手縫いでどれだけもつのやら。タイに戻ったら、新しいのを買わないといけないかも。
就寝前にテレビを見ると、東ティモールの建国式典をやっていた。今、一つの国が誕生したのか。縁もゆかりもないけど、なんとはなく感慨にふけりつつ眠りにつく。
ラオス人民民主共和国 Lao People's Democratic Republic
5月20日(月) パクセ → チャムパサック(ワット・プー)
目がさめて時計を見たら7:30。チャムパサック行きのバス・ボートは一番遅いのでも8時発だったはず。寝過ごしたのでもう一日パクセかと思いつつ、フロントに降りていくと「ボートならまだ間に合うよ」と。7・8・9時発の三本あるらしい。昨日ランサーントラベルで見たタイムテーブルでは、7時の一本だけだったんだけどなあ。まあいいや、助かった。
身支度して船着場に行くと、すぐに「チャムパサック、ボート?」と客引きが。もちろん「イエス」。乗り込むと既に荷客とも大体埋まりつつあった。スクーターなんかもがんがん積んでくる。屋根の上まで限界いっぱいに人と物を積み込んで、予定通り9時出航。川の色は茶色だ。メコン色。
客はほぼ地元客で、外人客は少ない。北部のスローボートに比べると、船体は一回りも二回りも小さく、エンジンは最後尾、トイレはなし。座席もなし。出航ぎりぎりに来た人は、屋根の上に乗っていた。このごちゃまぜ感は面白い。
船は波に煽られてかなり大きく傾いだり、波のしぶきが内部まで吹き込んできたりしながら進む。やはり小さいな。逆に川幅は上流とは比べ物にならない広さだ。目立った岩場もない。けど、人々はやはりラオス人で愛想がよく、言葉が通じなくても話しかけたり笑いかけたりしてくる。出てすぐにメコンをまたぐ立派な橋の下をくぐった。ラオス国内でメコン川にかかっている橋はまだ2、3本しかないというが、これは確か日本の協力でかけられたもののはずだ。
川で漁をしている船は思いの他多い。エンジンつきの小船で投網漁をしている。途中、漁をしていた小舟が一艘転覆し、仲間の船が慌てて助けに集まっていた。しかしいつも思うのだが、白人ってこういう移動の時、読書トランプ音楽居眠りなどをして、景色を楽しもうとしない。見飽きた景色でもないのに、点でしか旅をしないのは勿体無いと思うんだけどなあ。感性の違いか。
雨季の水位を示している崖がそこここに見られるが、その高さも北部で見たものよりずいぶん低い。
しかし、わずか50キロ離れてるだけの観光地への日帰りが難しいってのもラオスだよなあ。橋のない大河を渡る必要があるとはいえ。チャムパサックの後、カンボジアとの国境地帯のシーパンドンに行くつもりだけど、一度パクセに戻るのがベストのようなので、可能なら日帰りしたいところだけど、どうなるやら……。
10:30過ぎ、チャムパサック着。料金は1万kip。降りたのは僕一人。確かにこの船の最終目的地はシーパンドンのコーン島だけどさ。
乾季なので低い所にある船着場から階段を上がって岸に出ると、一台だけトゥクトゥク……ではなく、バイクのサイドカーが待っていた。運ちゃんが一日チャーターを持ちかけてくる。チャムパサックからワット・プーまではバイクでも30分ほどかかると聞いていたので、こっちもそのつもりだった。サイドカーにも一度乗ってみたかったし。チャーター料は一日3万kip。
チャムパサックは、昔は地域の中心都市として繁栄していたらしい。世界遺産のワット・プーを抱えるくらいだから、かつてはかなりのものだったと考えられるのだが、実際に町中を走ってみるとごく普通の田舎町で、全然ぴんと来ない。メインストリート沿いに細長く町が続いてるのがその名残なのだろうか。
南へ30分以上走り、緑濃い山のふもとで停車。フェンスで囲われている広い区域がワット・プーらしい。ゲートで入場料を払う。2000kip。安っ! ユネスコが修復作業をやろうとしているそうだが、地面に芝生を植えているくらいしか目につかないし、なんというか、その……。
入ってすぐ、いきなりクメール風の石造建築が崩れている。ああ、そういやここには崩れてないものはないんだっけ。ワット(寺院)と思って見れば広大だけど、クメール建築と思えばどうしてもアンコール遺跡群と比してしまうので、こじんまりしていると思ってしまう。観光客の姿もほとんどない。片手で数えられるくらいしかいなかった。いくらローシーズンの平日とはいえ……。この雰囲気が、全てが崩れているこの遺跡に合っているとは言えるけど。
ここは地形を生かした設計がなされており、本殿部分は山の上にある。そんなに高くない山だが、登っていくにつれて開けてくる展望は素晴らしい。緑の海が、見渡す限りの平野に広がっている。
お坊さんの姿は見かけなかったが、仏像はきれいに手入れされ、花や線香が供えられていた。ワット内を歩いていると、お供え物を作っている人の姿もちょくちょく見かけた。
崩れかけている様が風情があっていいのだが、このまま放っては置けないだろう。アンコール遺跡を見たときに感じたのは「風化+破壊」だったけど、ここを見て感じるのは「風化+埋没」だ。どうなっていくんだろうか。事前情報もほとんどなく、どんなものかと思っていたけど、来てよかった。
今日行った中で一番奥は、岩の裂け目のようなところの小さな仏像だった。本当はまだ奥に道が続いているようだったが、ちょうど雨が強く降りだしたので断念。手がかりも何もない、そこそこ傾斜のある、平らな濡れた大岩の上を進んでいかなければならないようだったので、さすがに危険だと思ったので。
とか書いているけれど、実際のところ、それほど落ち着いて観光に集中できたわけではなかった。写真を見てもらえば見当がつくと思うが、ずっと3人の女の子にくっつかれ、そっちの相手がメインになっていたもので。僕の貧弱すぎるラオス語で尋ねると、年は11、12、14。学校が終わってから来てるのだろうか。両手を掴まれてワット内を連れまわされ、仏様の前に来たらお供えする花を次々に持たせてきたり、「こうやってお祈りするのよ」と手本を示して促してきたり。デジカメを持っているのに気付くと、そこらでポーズをとって「撮って」と合図してきたりもした。子供と遊ぶのは大好きだから楽しかったけど。けど、雨で濡れた急な階段を下る時に両手を掴まれてるのって、危ないと思うんだけどな。
ワット観光を終え、昼過ぎにゲートまで戻ってきた。女の子達にお小遣いをあげ、受付横にある食堂で昼食を摂る。食堂には自分の他は、女の子達と食堂の人、サイドカーの運ちゃんしかいない。
さて、これからどうしようか。時刻は一時。今日中にパクセに戻るには、もう船もバスもないので、どうにかしてメコンを渡って国道13号線まで行き、行きずりのバスか何かを捕まえないといけないらしい。面倒臭いな。そこまでして戻らなくても、ここチャムパサックからシーパンドン行きのボートは9時と10時、一日2本あるらしいし。それでいいや。バスだって、朝ならあるはずだし。
チャムパサックに泊まる事にしたので、思い切り時間に余裕が出来た。日差しも強いし、かなり疲れていたので、食堂のおっちゃんが暇潰しにかけていたビデオを一緒に見て休む。ヨーロッパの古い狼男の映画だった。ラオス語に吹き替えられているが、吹き替え部分はBGMから何から切って差し込んでいるので、凄い違和感。いや、こういうのも面白いと思ってしまうんだけど。
その後、運ちゃんに船着場近くにあるGHを紹介してもらい、そこに投宿。Say
Khong G.H.(25000kip)、シャワー・トイレつき。落ち着いてからテラスで夕食を摂るが、どうやらラオス南部のフライドライスはケチャップ入りが定番らしい。
テラスはメコンに面しており、眺めが非常にいい。雨雲が川面を滑っていく様が面白い。
まだ日は高いが疲れたので、部屋でまどろむ。夕方にスコールの音で目がさめた。テラスでぼんやりと雨に打たれる川面を眺めていると、やがて雨雲が抜け、メコンに虹がかかった。
ここで久しぶりに日本人に会った。まこっちゃん(男)で、しばらくチャムパサックに逗留していたそうだ。連れられて近所を散歩しつつ、いろいろ話を聞く。彼は明日シーパンドンに行ってからタイに戻り、その後アフリカに行くらしい。なんでもバンコク→ナイロビが4〜8万円程で買えるとか。安いな……アフリカかあ……。
これも縁ということで、明日一緒にシーパンドンに行く事になった。ボートではなく、乗合バスを乗り継ぎ、パクセ経由で向かうらしい。了解。