ほろほろ旅日記2002 10/11-20
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ルーマニア 10月11日(金) → スチャバ
ルーマニア国鉄CFR路線図
●夜行列車は闇を行く
座席夜行で思いがけず体を伸ばして眠れたのに、なんだかうつらうつらした眠りだった。数十分ごとに目が覚めていたような。まあそれでも5時間ほど寝たからいいや。
同室の夫婦は午前4時40分に到着したバカウ(Bacau)で降りていった。なんでもここからBacau-Bubusi線に乗り換えてBubusiまで行くらしい。自宅に帰るんだろうな。日本人に会ったことを土産話にでもして下さい。お元気で。
夢うつつだったのでよく覚えていないが、なんか夜中に雨が降っていたような。冬場の天気の悪さでも有名な地方らしいけど、大丈夫かな。列車はもうモルドヴィア、旧モルドヴァ公国に入っている。ここのすぐ東にあるモルドヴァの国とは元々一つの地方で、向こうではルーマニアと一つの国になろうという声もあったりするらしい。
しかし、さすがはサマータイム実施中だけある。朝の6時と言っても完全に闇の中だ。秋分を過ぎた10月だというのもあるんだろうけど。
●到着、スチャバ北駅
さて、いよいよ誰に聞いても、それこそ行きずりのルーマニア人に聞いても「あそこはいい所だよ」と言うスチャバ(Suceava)だ。どんな所なんだろう。
7時過ぎに列車がスチャバ北駅に到着しても、外は完全に闇のままで、よく分からない。なんか今にも雨が降り出しそうな空気だし。霧も濃くかかっていて、寒い。この天気でこの寒さだから、晴れてたらどれだけ寒いのか見当もつかない。駅をうろつく人々の厚着姿に、寒い国に来たことを実感する。毛糸の帽子、コート。平たく言えばロシア人ぽい格好とでもいうか。
早朝だけあって、いるのかいないのか、ホテルの客引きの姿はない。声をかけてくるのは『五つの修道院』巡りのタクシーばかりだ。タクシーは一桁多くお金がかかるからなあ。とりあえず荷物を駅に預け、列車で回れそうな修道院がないか窓口で尋ねてみる。
え、プトナ修道院には行けない? 8時38分発のはなくて、次は13時発? うーん、あてにしてたんだけどなあ。じゃあ、モルドヴィッツァ修道院は? ヴァマまでは8時27分発ので行けるけど、そこから先の支線の接続が悪く、15時16分までないらしい。どれも今日中に戻ってくるのはきつそうなのばかりだ。ちょっと困ったけど、まあ予想の範囲内だ。今からでも確実に行けるらしいヴォロネッツはここの修道院観光のハイライトなので、天気と気力が充実している日に行きたいから今日はやめておこう。
ここで困ったのは、町の地図が売ってないことと、ツーリストインフォメーションがないことだ。これではちゃんとしたプランが組めない。まずホテルを確保したいのだが、情報が何もない。
でも、人は感じがいいなあ。さっきの窓口のおばちゃんも感じいいし、タクシーの客引きも強引でもなければ馴れ馴れしくもないし。ここでは僕にかけられる「キノ?」の声にも底意を感じない。スチャバにはチャイナタウンがあるらしいから、それもあるのかな?
ホームをうろうろしてたら一人のおっちゃんが僕の腕時計を指差して、
「カシオ?」
と。半分服で隠れてるのによく分かったなあ。G-SHOCKみたいな有名なやつでもないのに。
「いいねーそれ、いいねー。売ってくれない? 駄目? いくらなら売ってくれる?」
腕時計は必要不可欠だから売るわけにはいかないよ。まあ向こうも半分冗談で、運がよければ程度のつもりなのだろう、実に陽気でカラッとしていて感じがいい。
「日本人ならお金あるだろう? いい三ツ星ホテルあるよ」
三ツ星は勘弁して……他にないならともかく、そんな所に連泊したらお金がなくなってしまうよ……。
とかなんとか、五つの修道院とスチャバのホテルの情報を求めて駅周辺をうろついているうちに、いつの間にか二時間が経過していた。外もすっかり明るくなった。このままでは埒が明かないので、とにかく街中に行ってみることにした。スチャバの町は駅から市街地まで結構距離があるはずなのだが、手持ちのガイドブックには何も書いてないし、地図もないのでよく分からない。
客待ちしているタクシーの運ちゃんにセンター(中心部)のある方向を聞き、そこまで歩いて行けるか尋ねると、俺のタクシーに乗れと言うでもなく、笑って頷いたので、コンパスを取り出して方角を確かめてから歩きだす。バスは言葉が通じないのでとうに断念している。ああ、地図が欲しいなあ……。後からみると、これが失敗だった。
●市街地はどこだ
まずは駅前の住宅地を抜け、太い道に当たる。交通量はさほどでもないが、「CENTRU(中心)」と出ている方へと歩を進める。道は線路をまたぐと一気に畑か何か、荒野っぽい中に突入した。
雨こそ降っていないが、霧が濃くかかり、空がどんよりと重く垂れ込めているのは変わらないため、寒い。トレーナーと薄いウィンドブレーカーだけではもたない。歩いていても、大して温まらない。走れば温まるだろうけど、疲れて止まったら今度は逆に汗で体が冷えてしまうし。センターまでの距離も分からない状態でそれはできない。
それにしても、いつになったらセンターに着くんだろう。ガスで見通しがきかないのが辛い。通行もたまに通る車くらいしかなく、他に歩いている人なんていないし。歩いても歩いても、道を曲がっても折れても、坂を上っても下っても、新たに開ける視界はただ、ただ道のみ。
さすがに途中でへばってきた。寝不足、栄養不足による体力の減衰を実感。装備も重いし、今日は修道院を見に行かないことにして正解だった。だが、今歩いているのも失敗だよなあ。あのタクシーの運ちゃん、そりゃ「歩いて歩けないことはない」だろうけどさあ。遠いよ。
途中、まだ市街地の気配も見えない所に、昔の社宅アパートのような古くてぼろいビルがぽつんと建っていた。掲げてある看板には「TURIST HOTEL」とある。……けどなあ。ここはなあ。あかんて。駅からも町からも遠いし、ホテル自体もなんか敬遠したくなる感じだし。時刻表を見るとスチャバでは朝五時にチケットを買うこととかありそうだし、駅の近くに投宿したほうがいいのかなあ。
一時間あまり歩き、もうそろそろ限界だというところで、ようやく小高い丘の上にセンターらしき場所が見えた。助かった……!
●ホテルはどこだ
疲労とともにお腹が減ってやばい状態だったので、真っ先に目に付いたマクドナルドに飛び込む。世界規模のチェーン店は勝手が分かるから楽だ。
お腹にものを入れ、ようやく人心地がついて時計を見ると10時半。
中央広場を軸にしてセンター一帯を歩き回り、一つ星の安くて快適そうなホテルを探す。が。ない。無駄足だったか……。中央広場横のマガジンでスチャバ地方の地図は入手できたので、意味がなかったわけではないが。駅からセンターってこんなに離れてたのか……知ってたら歩いてなかったよ。
もう一つついでに、日記用のノートがもう終わりなので、新しいのを買おうと文具屋にも見つけるたびに入っていたのだが、今日はいいのがなかった。やはり日本語を書くノートとは罫線の引き方が違っていて、使い辛そうなのばかりだ。
午後二時半になったので、ともかくリュックを取りにスチャバ北駅に戻る。センターがこんなに遠いと知ってたら、持って来てたのに。もう一度歩いて戻る気にはなれなかったので、ここまで人の流れを見て使い方をなんとなく理解したバスに乗り込む。目的地が駅なら降りる所を間違えることはないだろうし。なんと、センターから駅まで5000レイで行けてしまった。事前に知ってたらなあ。『歩き方』には修道院がいい以外のことは書いてないんだよなあ。
スチャバ北駅に着き、リュックを受け取ってからしばらく駅の辺りをうろつくが、やはりプライベートルームの客引きはいない。この駅に併設しているホテルは雰囲気的に、なんか泊まる気になれないし。仕方ない、センターで入ったネットカフェの兄ちゃんが言っていたホテル・スチャバにでも行くか。高いだろうけど。
それにしてもこの駅周辺、ウクライナがすぐ近くなだけあってロシア系の人も結構いる。そのうち一人のおばはんが無茶苦茶してるのを見て、気分が悪くなった。
道の向こうを小さい孫と一緒に歩いているのをバスを待ちながら見るともなく見ていたら、孫がおばはんの足にけつまずいたからと言って、いきなり全力で孫の顔に裏拳を叩き込み、倒れこんだ所に足にストンピングの嵐。さらに孫がようやく立ったところを後ろから全力で蹴って転ばす。これを公衆の面前で堂々とやるんだから無茶苦茶だ。横にいたルーマニアのおばちゃんと顔を見合わせ、眉をしかめる。ああ、世界は暴力と理不尽に満ちている。
何かの民族衣装を着た餓鬼集団(ロマかな?)もそりゃあ好かれないわというような無法をやりたい放題だし。こっちには来るなよ。
清濁ともに経験するからこそ、旅には値打ちがあるんだけども。
などとを思いながらセンターに戻るバスに乗ろうとしたら、近くの屋台の女の子が僕に目をつけ、嬉しそうに手足をばたばたさせながら
「キナ、キーナー♪ キーナ、キーナ、キーナ♪(kina。中国人)」
とじゃれついてきた。え、何?
「ヌー、ジャポン(違うよ、日本人だよ)」
と言うと、きょとんとした顔で
「ジャポン?」
と言って去って行ったけど、なんだったんだろう。
●定番宿なのかな
そんなこんなで辿り付いた、ホテル・スチャバ。二ツ星ホテルなので、朝食抜きで一泊465,000レイする。まあ仕方ないか。建物も結構年季が入っているようで、防音はちょっと弱い。宿泊客が少なく、騒ぎ立てるような者もいないから問題ないんだけど。
ここのフロントのおっちゃん、「地球の歩き方」のスタッフに情報を教えた人らしい。
「日本人旅行者? 任せてくれ」
と言わんばかりの態度が頼もしい。が、ここでもタクシーの手配を勧められた。親切で言ってくれているのは分かるんだけど。
「5つの僧院は自力で回れば最低でも三日はかかり、タクシーはトータルで100jほどかかってしまうけど、自分に手配を任せてくれれば35ドルで一日で回れるよ」
とのこと。確かに35ドルは安いと思う。自力でまわって何泊もかけることとの差を考えれば、一番安いと思う。けど、折角だけど遠慮します。観光地を見るのだけが目的の旅じゃないですから。
地図を指しながら説明してくれるので分かりやすい。他に客がいなかったこともあり、腰をすえて話し込み、色々教えてもらう。スチャバが終わったらマラムレシュ地方に行く予定だと知ると、マラムレシュ地方の地図を取り出し、そっちまで案内してくれた。それでも分かりにくいならこれを読むといいと自分の持っている『地球の歩き方・ルーマニア・ブルガリア編』まで貸してくれるし。ありがとう、助かります。
でも残念ながら、今回自分が行こうとしているのは、そのガイドブックにもろくすっぽ載っていない所なんだよなあ。家族からはメールで
『スチャバなんて世界地図に載ってないよ。どの辺?』
とか言われるし。僕は今、一体どんなところを旅してるんだ?
●夜のスチャバCENTRU
夜、雨が降り出してきた。この季節の冷たい雨は辛いので、今日はホテルのレストランで夕食にする。その後雨がましになったので、ホテルからそんなに離れていないネット屋に行く。その帰り、まだ九時だというのに人気は絶え、マガジンも全て閉まっていた。食べ物はともかく、水を確保しておかなかったのは失敗だったなあ。少し歩き回ってようやく一軒、開いているマガジンを見つけた。水を買うついでにパンと缶ビールも買う。寄らなかったがマクドナルドも開いていた。さすがだ。
スチャバは治安がと聞かされていたけど、天気のせいか、こんな時間で人気がなくなっているにも関わらず、歩いていても別段危険は感じない。
雨がきつくなってきた。降り続くのかな。
ホテルに戻り、部屋で雨音を聞きながらテレビを見ていると、K-1をやっていた。続いて大相撲も。なるほど。知名度があるわけだ。
ルーマニア 10月12日(土) スチャバ
●日記帳を求めて
疲れていたせいか、11時過ぎまで寝てしまった。ほとんど昼じゃないか。今日はもう修道院観光は無理だな。
ホテルの窓から外を見ると、雨。どのみち無理だったか。それにしてもこっちの人って、なんで平気で雨に濡れて歩くんだろう。そこそこの量が降っているのに、傘を差している人なんてほとんどいない。外気も寒く、冷えると思うんだけどなあ。
このままホテルにいてもなんなので、スチャバ中心部の町歩きに出かける。映画でも観ようかと思ったが、映画館の場所を知らないや。別にそこまで観たいわけでもないからまあいいか。
それより今日は新しい日記帳用のノートを探さないといけない。今のノートは今日で使い切ってしまうから。B罫の100枚綴りがこの旅の途中でなくなるとは思わなかったなあ。文房具屋がありそうな気がする所を探して歩く。ホテルの人に尋ねても分からなかったから、これはもう、勘と運に頼るしかない。
こうして諸国を巡っていると、日本がいかに出版事情がいいのかを逆に痛感する。本だけではなく、文房具に関してもそれは同じだ。子供の授業用ノートみたいなのはあるが、それ以外はデザインも紙質も、あまりいいのがない。ネットカフェでプリントしてもらう紙とかは普通に上質紙なんだけどなあ。これから先、まだ三ヶ月近く旅は続くのに、20枚綴のノートだと絶対足りなくなるし。罫線の代わりに升目があるノートならやたらと見かけるが、日本語の文章を綴るのには向いてないしなあ。それに何より、紙が薄くて質が悪いのが多い。これはいかんよ、日記は後に残してなんぼなんだからさ。
大きすぎて暑すぎるジャンパーにひいこら言いながら、小雨の中を歩き回る。気がつけば、センター近辺はあらかた回ってしまっていた。文具屋も何件かあったけど、使えそうなノートは売ってなかった。ここではBicという文具メーカーが強いらしいということが分かったくらいだ。
センターの外れまで来てしまったので、折り返して別の道を行く。と、四ツ辻に一件の文房具屋を発見。見える範囲に学校はないが、いかにも学校の近所にあるという雰囲気の店だ。
この地では陳列してある商品を指差して見せてもらうスタイルなのだが、表紙だけではノートの中身が分からないので、今使っている日記帳を店のお姉ちゃんに見せて、こんな感じのノート、こういう罫線のレイアウトのものはあるかとジェスチャーで尋ねると、
「これなんかどうかしら」
と二冊のノートを出してきてくれた。どっちもやたら分厚くて、また半年くらい旅を続けないと書き終わらないようなものだが、分厚いか薄いか、両極端なのしかないようだ。一冊は厚紙表紙のリング綴じ。中には仕切り用なのだろう、時間割とかを書く紙が挟まっている。もう一冊はB5サイズと小さく、カバーに黒いビニールカバーがかかっている。こちらは糊綴じだ。
どちらがいいのか、たっぷり数分は悩んでいたと思う。後で考えればノートを一冊買うだけでそこまで真剣に悩まなくてもと思うが、その時は真剣だった。結局、黒ビニール表紙の方に決めた。45,000レイ。どっちにせよ、日本で買うより紙質は落ちるが、これならまあなんとかなるだろう。ついでに消しゴムも二つ買ってしまったのは後から考えると意味不明だった。日記はボールペンで書いてるから、使い道なんてないのに。さらにそのすぐ後に見つけたスーパーマーケットでカミソリも買った。肌があまり強くないので、スムーサー付のががありがたい。5本パックで92,000レイ。
今日は結局、観光もせずに雨の中、実用品を買いに歩き回っただけだな……。
●雨のそぞろ歩き
とりあえず今日の用事は終わったので、降り続く雨の中、宿に向かう。
せっかく出来た一日の余裕なんだから、ついでに冬装備のトレーナーとかインナーとか買っておきたいんだけど、この雨の中衣類を買いに歩くのはきついなあ。
途中でNO2がどうとか書いてある電光掲示板があった。その時はなんでこんなものがあるのか分からなかったが、帰国してから調べると、スチャバは社会主義時代にはヨーロッパで最も公害が深刻だった町のひとつらしい。スチャバ病なんて名前の病気まであったらしいから、多分その関係なんだろう。
歩いているうちに、えらくお腹が減っていることに気が付いた。そういや今日は買い置きのパンを一つ食べただけだっけ。何か腹の足しになるものでも買おうとマガジンを求めて歩く。途中で見かけた洋服屋にセーターはあったけど、一着29万レイは高い。露店で探せば、15〜20万くらいであると思うし。
などとセンターの中をうろうろしてると、兄ちゃんが一人、英語で声をかけてきた。
「そっちに行っても向こうは町外れで何もないよ、どこに行くの?」
空腹で歩き詰めだったうえ、雨に打たれて疲れていたこともあり、一体誰が何でまたこんな雨の中、話しかけてきたのかと、じろりと見返す。体内アンテナ的にも注意した方がいい気もしたし。と、その兄ちゃん、予想外の反応だったようで、にわかに戸惑いながら、
「えーと……英語話せる? 日本人でしょ?」
と言ってきた。よく日本人だと分かったね。
けど、僕が向かおうとしていた先にはAUTO GARA(バスステーション)もあるし、商店街だってある。昨日から何度か歩いているから知っているんだ。それを何もないと言うような人はやはり信用できない。が、なんとなく話を聞いてみる気になったので足を止め、その兄ちゃんと手近な軒下に入る。
「こんな所を歩いているなんて、修道院には興味ないの?」
ツーリズム関係の人でしたか。
「いや、明日行くよ。今日は雨だし」
「何で行くの?」
「列車の予定だけど」
「……そう。バイバイ」
えらく諦めがいいなあ。助かったけどさ。オフシーズンで大変なのは分かるけど、一人でスチャバまで来て、ここで一からエージェンシーに頼んで手配する人ってそんなに多くないのでは。……多いのかな? 僕には分からないや。
ホテル近くの昔ながらの風情を残すマガジンで、パンとチーズ、みかんヨーグルトにバター・ハム・ジュースとたんまり買いこんでホテルに戻る。
が、部屋に荷物を置いたところで気が変わり、昨日から気になっていた近所のレストランに足を向けた。メニューを見ても何がなんだか分からないので9万レイのセットを頼んだら、メインディッシュがどえらく大きくてびっくりした。フライドチキンってあるけど、これはもう鳥の丸焼きと言った方がいいような。肉自体には味がついておらず、用意された香辛料から好きなのを選んでつけて食べる形式だ。それにしてもナイフとフォークで食べるのは苦労した。あああ、お箸が使いたいよぅ。
●ルーマニアのテレビ放送
お腹いっぱいになって宿に戻る。一休み。
テレビをつけると、白人さんがお箸でお寿司とかの日本料理を食べようとして悪戦苦闘している番組をやっていた。コメディーらしく、最後は無茶苦茶になって断念していたけど。慣れないと使えないよなあ。それはそうとこの番組をやっていたテレビ局、「TV
POLONIA」ってあったけど、ポーランドの局じゃないのか? 衛星か何かで共有してるとかかなあ。
チャンネルをひねると、ルーマニアの国内大会らしい女子の体操競技会が中継されていた。これはルーマニアの局だな。
本当に小さい子が選手として出場しているのには驚かされた。国を挙げてやっているってのは本当なんだな。体操の女子はしなやかさや身軽さが求められるせいか、大きくなってもびっくりするほど細い子ばかりだ。なんか見たことあるような人も出ていたし、そこそこ大きな大会なのかな。
それにしても、女子の大会なのになんでコーチやスタッフは男ばかりなんだろう。女性コーチとかもっといてもいいと思うんだけど。
夜になってから近くのネット屋へ。ここは明るくて大きくて、居心地がいいんだ。まだ雨は降り続いている。ここのPCは毎回設定がリセットされるようで、毎回日本語IME環境をダウンロードしないといけないのが面倒だが、仕方ない。回線が太くて空いていれば、数分でできる作業だし。夜まで遊んでからホテルに戻る。シャワーを浴びて一息。
明日も雨だったら修道院観光、強行するかどうか悩むところだなあ。タクシーを使えば行けるだろうけど、味気ないしなあ。テレビの天気予報によると、雨はともかくかなり冷え込むようだ。最高気温4℃って。西のハンガリーとの国境近く、サトゥマーレなら14℃の予報なのに。いかにここモルドヴィア地方が寒いかって事だな。
今日はなんか下のレストランでダンスパーティーをしている。おかげで賑やかだ。今は暗く湿って肌寒い空気に心まで浸ってしまい、心細くてやけに寂しい心持だったので、ありがたい。
関係ないが、ルーマニア語とマレー語、どっちも「2」はduaなんだ。こういう偶然の一致は面白い。
ルーマニア 10月13日(日) スチャバ → グラ・フモール(ヴォロネッツ・フモール) → スチャバ
●スタート
7時に目が覚めたので外を見てみると、とりあえず雨は止んでいた。これは一発、チャレンジしてみないといかんだろう。
身繕いして7時50分に宿を出る。スチャバ北駅行きのバスがいい感じで来てくれないと、8時27分発の列車に乗れないなあなどと考えつつ、人ごみの中でバスを待つ。ほどなくバスではないが、ワゴンバスが何台か連なってやって来た。スチャバ北駅に行くというので乗り込む。料金はバスと同じく5000レイ。余裕を持って着いた北駅でも、切符もすんなり買えて、なかなか幸先のいい出だしだ。
ここブコヴィナ地方に来たからには、何はさて置きユネスコの世界遺産に認定されている、五つの修道院を見ないといけないだろう。
かつてこの地がモルドヴァ公国として栄えた15〜16世紀に建てられた修道院群のうちの五つで、別に五つの修道院が一箇所に集まって建っているとか、この地にある修道院が五つだけとかいうわけではない。これらの修道院の見所は、外壁いっぱいに描かれたフレスコ画だ。フレスコ画が何なのか知らないけど、外壁に絵が描かれているなんて珍しいし、ガイドブックの写真を見る限り、なかなか見事なもののようなので楽しみだ。
ちなみに各修道院は各地の山の中に建っているらしく、タクシーとかでツアーを組んで行くのをよしとしない僕のような旅人が巡るにはそれなりに手間がかかるようだ。ちなみに今日行く予定なのはスチャバの西約40キロほどにあるヴォロネッツ修道院、そして可能ならフモール修道院の二つだ。
列車が2番線に来ると思って待っていたらとうに3番線に入線していたという勘違いはあったが、無事乗車できて発車した。
乗り込んだ列車はルーマニアの東端ヤシから西端のティミショアラ(ルーマニア革命の発端となる事件が起きた町)まで走る、長距離列車だ。日本ではぶつ切りが当たり前になってしまっているので、長距離列車というだけでなんか嬉しくなってくる。急行列車なのに座席指定がないので、空いているコンパートメントに適当に腰を落ち着ける。よく空いている。スチャバ北駅を出た時、コンパートメントにいたのは僕とおばあちゃん一人だけだった。
スチャバの町を出外れると、一気に田園風景が広がった。いいなあ。と、それはいいんだけど、ガスが出てきた。スチャバにいる間はなんともなかったんだけど、田園地帯ってガスが出やすいんだよなあ。まあ予報では雨だったんだから、ガスくらいで文句は言えない。歩けるし。
9時10分を過ぎたので、そろそろ降りる準備をしようとコンパートメントのドアに手をかけたが、開け方が分からない。このドア、どうやったら開くんだ? 悪戦苦闘していると、おばあちゃんが親切に教えながら開けてくれた。すいません、ありがとうございます。もしおばあちゃんがいなくてコンパートメントに一人だったらどうなっていたことやら。
ともあれ9時20分、目的のグラ・フモール駅に到着。
●南へ
駅にいたタクシーの運ちゃんが声をかけてくるが断り、地図で見当をつけて歩き出す。このワクワクする感覚がいいんだ。目指すは南にあるヴォロネッツ修道院。シギショアラで世話になったラーレッシュが、五つの修道院の中でナンバーワンだと言っていたので楽しみだ。ここから4キロほどらしいから十分歩いて行けるはず。
鉄道沿いのメインストリートを折れると、いきなり白線なしの道路に変わった。
イチョウ並木を抜け、橋を渡ると、小さな村が現れてきた。グラ・フモールを出る時、ヴォロネッツまであと4キロと出てたので、まだ1キロほどしか歩いてないはずだから、ここは違うだろう。
日曜の午前中とあって、近くの教会に行くのであろう村の人が結構出歩いている。手近な人に道の奥を指差し、
「ヴォロネッツ?」
と尋ねると、
「ダー」
と肯定の返事。よしよし。そのままずんずん進んでいく。
それにしても辺り一帯、見事な『ヨーロッパの田舎』だ。
道行く人々もすれてなくて、僕を見かけると口々に「ズィア」「ブーナズィア」と挨拶をしてきてくれる。ここまですれ違った人で、笑顔で挨拶をしなかった人なんて一人もいなかった。当たり前の事だけど、それだけに凄い事だと思う(余談だが、ルーマニア語でこんにちはを意味する「ブーナズィア」、どうしても「こんにちは」と聞こえる。はじめのうち、なんでこんなところで日本語が!? とかなり驚いた)。
川が流れ、馬や牛が草を食み、子供が走り回るこの風景。いいよなあ。
それはそうと、途中で見かけたこの標識、なんて意味だろう?
なんだかんだで50分ほど歩いたところで道が突き当たりになり、高い壁に囲われた教会らしき建物が現れた。横手に広い駐車場と土産物屋台があるし、これだな。
●ヴォロネッツ修道院
入り口を探して壁伝いに歩くと、ちょっと奥まったところに発見。入り口のところの兄ちゃんに英語で「ウェルカム」と言われたのが新鮮だ。この国で英語を話す人は多くないからなあ。
ともあれ中に入る。チケットを買おうとしたが、売り場のお姉ちゃんと修道女がぺちゃぺちゃ話し込んでいて、声をかけても反応がないのでそのまま中に入る。
そこで目に入ってきたのは、色あせて塗装が剥げ落ちている『五つの修道院』の一つ、『ヴォロネッツ修道院』の外壁だった。これには正直がっかりした。これで世界遺産なのか。お粗末というか、朽ち果てるに任せてるんじゃないのか。
が、反対側に回り込んでいくにつれ、そんな考えは消し飛んだ。看板に偽りなしの色鮮やかな壁面画がそこにあった。特に青の鮮やかさが目を引く。なるほど、これが『ヴォロネッツの青』か。
キリスト教徒ではないし、聖書もちゃんと読んだことがないので描かれている場面はなんだか分からないが、いかにも説法に使われそうな絵が、聖人の姿が、びっしりと描き込まれている。頭の後ろに何か丸いものがついているのはハーロー(後光)かな。
特に見事だったのが西壁の絵で、『最後の審判』だそうだ。文字の読めない住民の教化に使ったと言われているが、なるほど納得だ。
そんな修道院の内部では日曜の午前中ということで礼拝が行われており、内部は信者で一杯だ。中から説法と賛美歌が聞こえてくる。こういうところで聞く讃美歌と鐘は厳かな中に力を感じ、我知らず頭を垂れてしまう。
(この写真を撮った時に流れていた鐘の音です。141KBのWAVファイルです。よければ)
内部にも様々なフレスコ画がびっしりと描かれている。外壁のそれと違って風雨にさらされてないから、当然保存状態はいい。内部はカメラ禁止だったし、それ以前に礼拝の最中だったから撮ってないけど。
そろそろ出ようかと考えながら写真を撮っていたら、パトロールの兄ちゃんが来て「チケットを見せて」と言ってきた。ありません。いやだって、さっき相手してもらえなかったし。今は仕事をしてるようなので受付に行き、改めてチケットを購入。入場料とカメラ使用料、しめて6万レイ。ついでに絵葉書を2枚買い、外へ。
●北へ
帰り道は声をかけられたらタクシーかバスを使ってもいいと思っていたが、外に出てたら誰もいない。ので、行きと同じく歩いてグラ・フモール駅を目指す。この時点で11時。昼までには駅に戻れそうだ。グラ・フモール発スチャバ行きの列車は確か午後三時頃にあったはず。次のフモール修道院まで歩きで往復しても間に合うかな。
相変わらずガスが出ていて、景色が重く暗い印象だ。雨に変わる一歩手前という感じ。雨になってないだけましか。
てくてく歩いていく。道中出会う地元の人達がみんなにこやかに挨拶をしてくれるのが気持ちいい。
この国の車はよく飛ばす。歩いている僕をどんどん追い抜いていく何台もの車は、どれも例外なく飛ばしまくっている。危ないって。またその車のどれもがぎっしり人で埋まっている。修道院の礼拝帰りの人達なんだろう。どれも満員状態なので、ヒッチをしようかと考えたけどやめておいた。
12時過ぎ、駅に戻ってきた。寒いのでまずは駅のトイレへ。使用料2000レイと書いてあるけど誰もいないし料金を置くところもない。勝手に使うよ?
そして次の目的地、フモール修道院へと歩き出す。駅前にバスもタクシーもいなかったからなあ。今度は駅から見て北へ分け入っていくことになる。
どこで北へ折れたらいいのか少々迷ったが、なんとかなった。霧が霧雨に変わりかけているが、傘を差すほどでもない。が、眼鏡はすぐに水滴で見えなくなる。ううむ、やっかいな。
グラ・フモールの市街の中にも当然教会があり、ちょうど礼拝を終えた人々が出てきた。東洋人の個人旅行者が珍しいのだろう、笑いながら話しかけてくる。が、当然ルーマニア語なので内容は分からない。雰囲気でどこに行くのかと尋ねているっぽいので、
「フモール、モネストリー」
と言うと
「ダー」
と笑っていた。ニュアンス的には「あんな所まで歩いていくの? 物好きだなあ」って感じかな。まあ確かに結構距離あるし(大体6キロ)、途中何もないところを行かなきゃならないし。
やがて街中を外れ、畑の中の道になった。日本の田舎でよくある、新道と旧道のようになっている所は少ない。今歩いている道も、元々あったのを使っているようだ。なんか自転車に乗ったおじいちゃんの姿が多い気がする。あ、猫だ。
谷筋の東端を道は行く。反対側の斜面には半分以上ガスがかかっていてよく見えない。上の方まで畑や牧草地になっているような感じだけど。晴れていたらさぞかしきれいなんだろうなあ。
駅からフモール修道院までは、片道6キロ。今日既に10キロ歩いている身だし、全部歩きだと午後三時前の列車に間に合うかどうか。少々不安だけど仕方がない。頑張って歩こう。ここでも道中に出会う人々の愛想は本当にいい。ルーマニアの田舎、いいなあ。どんどん好きになっていくよ。寒いけど。
途中しんどくなってきたので何度かヒッチハイクをしようかと考えたが、なんか恥ずかしくてサインを出せない。仕方ない、大人しく頑張って歩いていこう。
やがてグラ・フモールを抜け、修道院のあるManastirea Humorului(マナスティレア・フモルルイ? モネストリー・フモール?)に入る。川を渡る所ですれ違った家族連れに「ブーナズィア」と挨拶をしたら、お父さんが手にしたパンをちぎって分けてくれた。突然のことだったので戸惑ったけど、ありがたく頂く。確かにちょうどお腹は空いてたし。旅人に施すことは世界共通の善行なのかな。
他にも、挨拶をしたらそれだけで済まずに何事かルーマニア語でまくし立ててくる人がいるんだけど、何て言ってるんだろう。今日の説法に感動して誰かに伝えたいとかかな?
あ、電柱の上にコウノトリかな、大型の鳥が巣を作っている。話には聞いてたけど、実物は初めて見た。
とかなんとかしつつ、ようやくフモール修道院に到着。
●フモール修道院
はじめ、間違えて外壁フレスコ画のない隣の教会に行ってしまい、どういうことか分からなくなって混乱した。だってこっちの方が人の出入りが多かったし。
ここでも擦れ違う人にいきなり握手を求められたりして戸惑う。これもラテンのノリの一つなのかな?(ルーマニアは中欧の中で唯一ラテンの血を引いている民族の国)
改めて修道院に入る。チケットは入場料3万+カメラ撮影料6万で計9万レイ。カメラ代がヴォロネッツ修道院より高いな。まあ確かに修道女の数や敷地の広さ、手入れのされ具合はヴォロネッツより上っぽいけど。
ここでも、入り口の面の外壁は風雪にさらされてか剥げてしまっているが、周囲の景色との調和がよく、これはこれで風情がある。反対側に回るとちゃんとしたフレスコ画が残っていたし。
しかしこれ、修繕しないとただただ風化していってしまうように思うんだが、いいのかな?
外を見終えて中に入ると、さすがに午後なので礼拝は終わっているようで、ガランとしていた。内壁面のフレスコ画を見てから、外へ。
●グラ・フモール駅への遠い道
今日は既に15キロは歩いている。正直結構へばってしまった。帰りは車に乗って行けないかと駐車場でしばらく待つが、一台のタクシーも来ない。バスも来る気配はない。時刻は午後二時前。宿が決まっている以上、なんとかしてそこへ帰らないといけない。
仕方ないのでやっぱり歩いて帰ることにして、グラフモールへ向かいだす。それにしても暗い。まるでもう夜が近いみたいだ。
歩いてだと列車にギリギリ間に合うかどうかってところなので、何とか途中でタクシーをつかまえるか、ヒッチハイクをしたいところだ。
などと考えていたが、甘かった。日曜日は安息日だからなのか、通りかかる村はひっそりと静まり返り、たまに歩いている村人に出会うことはあっても、道路はほとんど車が通らない。特にグラ・フモール方面へ向かう車は。たまに通るのは停まる気配なんて微塵もない走り屋っぽい車か、乗客満載のタクシーくらいなもので、ヒッチハイクなんて望むべくもない。……ってタクシー? どこから沸いて出たんだ。あのまま待っていればよかったのか?
もう体力的にへばっているうえに足も痛くなってきて、全然はかが行かない。午後三時になる頃、どうにかこうにかグラフモールの市街地のとっかかりに差し掛かった。寒くてお腹が減ってへばって足が痛くて……と結構ボロボロの状態で、我ながら荒んだ気持ちになりながら歩いていった。このタイミングで物乞いされても、僕はそこまで出来た人間じゃないよ……。
どうにか駅にたどり着いたのは15時18分。既に列車は出た後だった。
●スチャバへ!
交通の便がなければどうしようもない。次の列車は17時18分。スチャバ北駅着が18時58分。さすがに2時間も待っていられないなあ。
近くにAUTO GARA(バス乗り場)があったので、スチャバ行きがないかと行ってみるが、バスが数台停車しているだけで、全く人気がない。どうやらここは車庫で、乗り場は別らしい。ここのスタッフを見つけて尋ねると、次のスチャバ行きが出るのは16時30分らしい。こっちの方がまだいいか。それに乗ることにして、言われた方向に歩いていく。イタリア人の物乞い二人がイタリア語とルーマニア語でまくしたてつつついて来るが、何を言ってるのかさっぱり分からないんだってば。
それはともかく、AUTO GARAが見つからない。参ったなあ。近くにいたおじいちゃんに尋ねてみるが、返ってきた答えは
「ノー、アウトブズ」
えー……、この町にはバスはない? なんで? いや、そんなはずはないんだけど。ルーマニア語が全然だから会話はやっぱりきついなあ。
「スチャバに行きたいんです」
と言うと、
「バスはないが、もっと小さいのはある」
ワゴン?
「ドミカーだ」
??
訳が分からないでいると、そのおじいちゃん、わざわざ乗り場まで引っ張って行ってくれた。ううう、申し訳ないです。ありがとう、おじいちゃん。……ってここ、案内板も何もない、ただの道端なんですが。待ってたら来るの? ドミカーってヒッチとタクシーの中間みたいなのかな? 普通の車にみんなで乗って割り勘で払うの? シェアってことか。やっと分かりました。了解です。
やがてドミカーがやって来た。なんとか乗り込んだダキア(ルーマニアの車メーカー)は5乗だったせいか、はじめは全然走らなかった。
車道は鉄道とは違うところを走っているし、また別の味わいがあっていい。そんなにかっ飛ばした感じもなかったが、16時50分にはもうスチャバに帰り着いていた。お金を支払って車を去り、しばらく歩いてから気付いたが、車の代金は3万レイと言われていたのに、5万レイ払ってお釣りもらってないや。疲れてぼんやりしてた。
降ろされたのは、スチャバの西の端。昨日町歩きをしていなかったらここがどこか、果たしてスチャバなのかどうかも分からないところだった。無駄に見える行動も、無駄ではないんだな。痛む足を引きずって、ホテルに帰り着く。
●疲れた……
今日はもう、パンとか買って休みたかったが、日曜だからなのか、マガジンがことごとく休んでいる。
仕方なく昨日9万レイでセットを食べたレストランに行き、今日はセットがなかったので75,000レイの500グラムスパゲティを食べる。うう、全然足りない。センターのバス乗り場まで足を伸ばしてマクドでビッグマックを追加で食べる。ようやく人心地がついたかな。ついでにバス乗り場脇にあるノンストップマガジンで、ポテトチップと水を買って帰る。だってパンは全部売り切れてたし。
今日は楽しかったけど、同時に心の底から疲れた。日記を書いたらとっとと寝よう。
明日も予報は雨。さすがはブコヴィナ地方。
ルーマニア 10月14日(月) スチャバ
10時まで寝てしまった。12時間、いやもっとか。
疲れを回復するには寝るしかないんだけど、こんな時間に起きていてはどこにも行けない……。と思っていたが、バスを使えばラダウチまでなら行ける事に気がついた。11時発の便がある。行こう。天気は曇っているが、ギリギリ降ってはいない、昨日と同じような天気だ。
それにしてもヨーロッパ、道を横断する際はとにかく車が停まって待ってくれる。車天下どころか車無法地帯だった東南アジアから来たから余計、ギャップを感じる。
バスステーションまで歩いていく。が、途中で考えが変わった。こうして行ったとしても、ラダウチからスチェヴィツァまでのバスがあるかどうかは分からない。やっぱり今日行くのはやめにしよう。明日、早起きして午前五時の列車に乗って行けばいいや。それでうまくいけばモルドヴィッツァまで行けるし、うまくいかなくても余裕をもってスチェヴィツァには行ける。少々の誤差ならタクシーを使えばカバーできるはずだし。もし雨だったら、もうここを出よう。かなり長居をしてしまったことだし。
後から考えれば、翌日にタクシーを使ってもと考えるなら、今日タクシーを使ってもスチェヴィツァに行っておけば、明日はモルドヴィッツァ一本で余裕をもって動けていたんだよなあ。しまった。
ちなみに、『五つの修道院』を見てまわるのは最大四つまでの予定だ。アルボーレ修道院は場所が分からなかったのでパス。
今日の予定が空いてしまったが、特にどうするあてもない。センター近辺にあるらしい博物館にでも行くかと思って探したが見つからない。あれえ? まあ考えてみれば今日は月曜日だし、普通の博物館は閉まっているか。じゃあ食事でもしよう。行きつけになりつつあるレストランに今日も行く。9万レイのセットって、昼間のメニューだったんだ。やっぱこれはおいしい。満足。でも、そろそろお米が食べたくなってきたなあ。この旅に出てから一度もホームシック、日本シックにはかかってないけど、お米シックにはたびたびかかる。
そろそろスチャバのセンターも慣れてきて、町歩きをしていてもあまりドキドキしなくなってきた。服でも買うかとマーケットに足を向ける。ってトレーナーが20万レイって高いよ。いや、6ドルと考えたら安いんだけどさ。シナイアで薄手とはいえ、12万レイで買ったんだし、マーケットならせめて15万レイくらいでないものか。手を出す気になれないよ。セーターは29〜30万レイ。それこそ20万くらいなら買うんだけどなあ……。この次に向かう予定のシゲット・マルマッティエでもこんなものだったら、諦めてそこで買うことにしよう。代わりに、小物の下着やなんかを買う。ウールのロシア製靴下が15,000レイ×2、毛糸の帽子が3万、パッチが5万。安いから長持ちしなくてもいいや。
一度荷物を置きに宿に戻る。この時点で午後一時過ぎ。一息つこうとテレビをつけたら、日本の九州以南を白人さんが旅する、旅行番組をやっていた。パチンコとかまで丁寧に扱っている。面白いなあ。思わず最後まで観てしまい、最後のクレジットでロンリープラネット製作の番組だったことを知る。納得。こうして外国人の視点で日本を見ると、欧州とは全く異質な文化圏であることがよく分かるなあ。
その後ネットカフェで遊んでいると、親しげに声をかけてくる兄ちゃんがいた。この町に声をかけられるような知り合いは、ホテルの人以外には……思い出した、先日町歩きをしていた時に、アウトガーラの近くで「そっちには何もない」としきりに言ってた兄ちゃんか。あの時は確か、自分のところのツアーに誘いたがっていたよなあ。こっちは中々思い出せなかったが、向こうにすれば、僕はこの町ではレアキャラな日本人旅行者だ。間違えるはずもない。「どうだ、調子は? 修道院には行ったか? いくつ? 2つ? ヴォロネッツとフモールか。俺は明日、アメリカ人二人を連れて回るんだ」今日は暇なんだな。まあ僕もだけど。
ネットで調べた天気予報では今日も明日も、向こう五日間、ずっと雨予報だ。でも明日はまだマシで、明後日にちと強くなるようだ。スチャバではなく、モルドヴァ公国近くのヤシの町の話だけど。
明日は頑張って早起きしないといけないなあ。今日は早く寝るため、水を買ってホテルに戻る……つもりが、気がつけばシュウェップスとビールを買っていた。水がガス入りなので、大差ないからとついつい。そりゃあ、ヨーロッパの食生活をしていたら、日本のそれは健康食に見えるわなあ。お茶、ご飯、味噌汁、煮炊きした野菜、魚。に対比して、パン、チーズ、芋、油……だもんなあ。
夕食はホテルの食堂。ここは作りが豪勢で、僕が入るのは場違いな気がしてならない。チョルバでも食べようかと思っただけだったんだが、メニューを見ているうちに食べたくなったのでオムレツも頼む。っておお、ピラフがある! 久々のお米だ! ……ピラフというよりおじやに近かったけど、まあいい。やっぱりお米を食べられるのは嬉しいな。
食後に再度ネットカフェに行く。オリックスブルーウェーブ、今季は終了か。昨日の藤井康雄さんの引退試合も、今日の最終戦も勝利で飾れなかったのか。残念。
ともあれ明日は早いんだ、今日はもう寝よう。
ルーマニア 10月15日(火) スチャバ → ラダウチ → スチェヴィッツァ → モルドヴィッツァ → ヴァマ → スチャバ
ルーマニア国鉄CFR路線図
●夜明け前に始動
午前3時半、屋外の車両盗難防止用のブザーの誤作動音で目が覚める。うるさいんだよな、これ。
しばらくうつうつして、4時40分。6時間以上眠ったけど、リズムが狂ったので眠い。大あくびをしつつ、頭を振り振り、出発。ホテルのフロントが真っ暗で一瞬焦ったけど、いつもの人がいたので助かった。
バス停に行く。うう、やはりこの時間だとバスもミニバスもいやしない。仕方なく、一台だけ停まっていたタクシーを使うことにした。このタクシーもエンジンを切って休んでたようだけど。バスだと5000レイで行けるスチャバ北駅まで、タクシーだと10倍かかるのか……。ま、仕方ない。おかげで五時前に駅に着けたんだし。
●早暁のスチャバ北駅からラダウチへ
ラダウチまでの切符を19,000レイで買う。こんな早朝だから、ホームはよく空いている。
ホームに出ると、親しげに肩を叩いてくる兄ちゃんが。初日、ここに着いた時、腕時計を欲しがっていた人だ。それにしてもここではやたらと顔を覚えられてるな。短髪眼鏡色黒の日本人なんて、ここでは他にいないからだろうけど。この兄ちゃん、全然英語はダメだけど、それでもある程度のコミュニケーションは取れる。
「ブカレストへ行くのか?」
と尋ねてくるので
「いや、ラダウチだよ」
と答えると、笑って握手をして去っていった。言葉が通じないと分かっているのに平気で話しかけてくるのは、ラテンの血のなせるわざかな。なつっこいよなあ。
ホームは空いているが、こんな早朝だというのに駅舎内は人がいっぱいだ。しかも今日はそんなに寒くない。
待合室でこの日記を書いていると、隣に座ったおばちゃんが覗き込んできて、
「そのノート、マガジンで買ったの? それともバザールで?」
と話しかけてきた。それをきっかけに周囲の人も会話に混じってきて、ああでもないこうでもないと賑やかになった。いや、僕がルーマニア語がさっぱり分からなくて、はじめはおばちゃんの言ってることが理解できず、何がマガジンでバザールなのか分からなかったからなんだけど。
そんなこんなで5時15分、そろそろ時間なのでホームに出る。時刻表によれば発車は5時20分、到着は6時31分。
が、列車が見当たらない。そんな馬鹿なと思ってきょろきょろしていたら、常夜灯の灯っていない、ホームの先の先に停車しているのを発見。車両に向かって歩いていく人がいたから分かったけど、そうでなければ分からなかったよ。そんな暗闇の中に二編成が並んで停車していたので、駅員さんにどちらに乗ればいいのか尋ね、どうにか乗り込む。
自由席なので、駅舎に一番近い車両はコンパートメントがほぼ埋まっていた。こんな真っ暗な早朝なのに、乗客多いなあ。そのまま奥へと歩いていくと、二両目と三両目はコンパートメント式ではなかった。ホームに置かれているベンチみたいなプラスチックの椅子が、両側に四人がけのクロスシート状に並べられている。こんなのは初めて見た。この作りでも、やっぱりスペースに余裕があるのはさすが広軌だなあ。車内は明るく、外は闇。寝ている人もいる。確かに暗いけど、雰囲気は悪くない。
夜の列車の風情で発車した列車は闇の中を進み、いくつかの駅に停車しつつ、6時20分、なんか一時停車じゃない感じで停車。まだラダウチでないのは分かるんだけど。ルーマニアの北東端地域の中心地、スチャバからさらに北、ウクライナ方面へ走る鉄路は、目指すラダウチの一つ手前、ドルネシュティで分岐しているからその関係かな。なんか人もいっぱい乗ってきたし。
例によってここでもまた発車が遅くなり、結局15分ほど遅れて7時前、ラダウチ着。
●ラダウチからスチェヴィッツァへ
外はまだ真っ暗だ。そしてそれ以上に、霧(チャッツァというらしい)がすごい。何だこれは。
駅舎を出ると早速
「タクシー?」
と声をかけてきた運ちゃんに、申し訳ないが
「ウンデ アウト ガラ?(バス乗り場はどこですか)」
と尋ねる。ちょっと歩いたところにあるらしい。
暗いからちょっと不安だが、言われたところに行くとちゃんとあった。バスも数台、発車しかけている。時刻表を見ていると営業所の人が外に出てきたので、
「スチェヴィッツァ?」
と尋ねるも、返ってきた答えは
「ノー」
ローカルバスのスケジュールが分からないから余裕を持って一番列車で来たというのに、15時00分発までないそうだ。参った。
仕方ないので駅に戻り、タクシーを探す。今日めざしているスチェヴィッツァ修道院は地図によると、ここから15キロほど離れているうえ、山の中なのでさすがに歩いて行くのはきつい。
が、駅前に車は何台か停まっているが、タクシーらしきものはない。列車が到着したあのタイミングでないといないのか。焦っても仕方がないのでとりあえず駅でトイレを使わせてもらう。駅員さんに言ってトイレの鍵を開けてもらう。有料トイレなのだが、3000レイをタダでいいと。ありがとう。
それからしばらく待ってもタクシーが来る気配はなかったので、流しのタクシーが見つかるのを期待して歩き出すことにする。地図を広げて見ながら歩いていくと、程なく
「タクシー?」
と声がかけられた。おいおい、表示出してないやん。
スチェヴィッツァまでの料金を尋ねると、20万レイらしい。他の交通機関に比べるととんでもなく高いが、まあそんなものだろう。乗ることにする。同時に地元の兄ちゃんが他の近場までと言って来たので同乗してそちらを先に送り、改めてスチェヴィッツァを目指す。
あたりはものすごい霧(チャッツァ)だったが、市街地を抜けると急に視界が晴れた。朝の7時過ぎ、他に車はほとんどいない。見かけるのは登校中の子供くらいだ。タクシーは一直線にかっ飛ばすので、目的地まではあっという間だった。7時38分、着。いやこれはちょっと、さすがに早すぎないか。
●スチェヴィッツァ修道院
ガスのかかった山あいの谷間にぽつんと、信じられないくらい立派な修道院が建っている。これってもうお城と言っていいレベルじゃないのか。四囲を囲む壁が城壁のようにがっしりとそびえている。
ここスチェヴィッツァ修道院は世界遺産ではないものの、五つの修道院で最大の大きさと敷地を持つらしい。この壁部分で修道女達が生活しているそうなので、きれいでしっかりしているのも当然といえば当然か。壁に囲われた敷地内には広々と芝生が広がり、樹々と共によく手入れされているのが見える。時間が早いので外から眺めていると、道路を次々と馬車が通りすぎていく。それがひと段落すると、周囲から一切の物音が消えた。耳が痛くなるほどの静寂。見渡す限り、人っ子一人いない。
修道院の扉が開いているようだったので、中に入る。あれ、チケットいらないの? そばにいた修道女さんに尋ねてみたが、笑ってそのまま入っていいよというしぐさのみ。時間が早いからかな? そもそもチケット売り場兼土産物売り場も開いてないや。
中に入ると、立派な僧坊に囲まれ、広々とした芝生の庭園の真ん中に、色鮮やかな修道院が建っていた。
修道院は、それはもう立派なものだった。
壁画も実に鮮やかだ。まず目に飛び込んできたのは、北面に描かれた「天国の梯子」。死者が生前の行状を読み上げられ、天国に行ける者と地獄に落ちる者とが生々しく描かれている。
東面には「聖人伝」が。
南面は「エッサイの樹」らしいが、そのエピソードを知らないので、いろいろ描かれているのが総合的に「エッサイの樹」なのか、それとも色んなエピソードが描かれているのかも分からない。
絵を見てそこから類推するしかできない僕にただ分かるのは、宗教画の持つ力のみだ。
うーん、中世に生きていて、これを見ながら説法されたら、教化されてしまうのもの分からないでもない。それにしても立派な修道院だ。今まで見た三つの中で一番かもしれない。横手の僧坊からは修道女さん達の祈りの歌声が聞こえてくる。他に誰もいない修道院の庭園の中で一人たたずみ、朝の空気の中、荘厳な気分に包まれた一時を過ごすことができた。
(修道院の動画です。雰囲気を掴む一助になれば。wmvファイルです)
十分堪能できた。満足したので外へ。
●立ち往生……?
時計を見ると8時30分。まだまだ朝だ。これなら少し離れている次の修道院にも行けるかな。山を西に越えた先にある、モルドヴィッツァへ。
……が。ここスチェヴィッツァは修道院以外何もない、山奥の地。バスやタクシーは全く通りかからず、それどころか時折通りかかる車や馬車の他は、人っ子一人いない。
実のところ、ここからモルドヴィッツァに行く便があるかどうかは確認が取れず、多分あるだろうというスチャバのホテルの支配人の言葉と、地図では道が通じていることだけを頼りに出てきている。
修道院前の駐車場脇の土産物長屋が一軒だけ開いていたので、そこのおかみさんに尋ねてみた。例によってこの人も英語が話せないので、固有名詞とわずかなルーマニア語、ジェスチャーでなんとか。どうも10時にモルドヴィッツァ行きのバスが来るらしい。それならなんとかなるな。
ついでというか、他に何もすることがないので暇つぶしにそのおかみさんとだべる。
土産にと手編みのセーターをすすめられたが、60万レイは手を出せないよ……。さすが土産物(っても大体2000円くらいなんだけど)。ルーマニアンブラウスが40万レイ? いや、この後帰国するなら買ってもいいんだけどね。まだ先は長いし、荷物になるからごめんなさい。せっかくだからオウ(Ou)という卵型の置物を買おうかと思ったが、小さいのが3万レイなのはいいが、お釣りがないらしい。それはちときついなあ。
とかしているうちに隣のマーケットを開けにおばちゃんが来たので、手持ちの10万レイを両替してもらい、改めてオウを購入。さあ、10時まであと一時間。
……暇だ。
でも、天気が良くて本当によかった。駐車場でひなたぼっこしながら森の声を聞いているだけでも十分楽しめる。
馬車が時折通りかかるんだけど、おっちゃんに
「アラビアーナ?」
と聞かれた。なんでやねん。髭もないのに、そんなに浅黒いのかな? 朝乗ったタクシーの運ちゃんには一発で
「ジャポネーゼ?」
と言われたのに。ちなみに土産物屋のおかみさんには
「キナ?」
それはもう慣れたけど、おかみさんにはジャポーネと言っても通じなかった。
道端に時刻表があるのに気付いたので確認すると、10時に来ると言っていたバスは、ラダウチに戻る便だった。モルドヴィッツァに行くバスは、15時30分までないようだ。一日一本か……。参ったなあ。ラダウチで聞いた未確認情報が正しかった訳だ。そのことを土産物屋のおかみさんに話すと、
「ヒッチでもするしかないわね」
確かにそれくらいしかないか。……って、そもそもモルドヴィッツァ方面に行く車なんて全然通りかからないんですが。ここに来て二時間で一台くらいしか見てないし。
地図を見ると、モルドヴィッツァまでは山道を34キロ……さすがに歩くわけにはいかんしなあ……厳しいな。とは言っても他に手はないので、寒さに震えながら車が通りかかるのを待っていると、土産物屋のおかみさんのご主人、若旦那がやって来て(この人は少し英語が出来る)、
「10時15分〜30分頃の出発でいいなら、車でモルドヴィッツァまで送ってあげるよ」
と申し出てくれた。ありがとうございます、願ってもないことです!
そっちの方にある実家に帰るついでらしい。って、土産物屋を朝8時から開けて、10時過ぎに閉めるってのもよく分からないな。
●ツアーバス
若夫婦が店を閉める作業を始めた10時過ぎ、ツアーバスが一台やってきた。とたんに手を止め、再度店を開け始める若夫婦。
「この人達が何か買うかもしれないから、閉めるのはその後。出発は11時ごろになるけどいいかな? ここからモルドヴィッツァまでは30分くらいだから」
もちろん構いませんよ。そちらの商売が大事ですし。というか、ツアーバスの予定って事前に教えてもらってないのかな。
っていうかこのバス、近畿日本ツーリストの「ブルガリア・ルーマニアツアー」じゃないか!
こちとらルーマニアの山奥まで一人でやって来たというのに、日本人のシルバーツアー客が押し寄せてくるのにかち合うなんて、ついてない。なんか一気に旅気分が萎えてしまった。そんな大したとこには来てないんだな、僕……。日本人はどこにでも現れるってのを、寂しい気持ちの中で痛感。
ともあれ、しばらくは時間つぶしだ。
修道院を見ていると、庭を修道女さん達が掃除していた。今気付いたんだけど、この国では大きい荷物を二人がかりで持つ際、向かい合わずに持つことが多い。言うならば有名な「捕らえられた宇宙人」みたいな感じで持っている。
ここまで来てシルバーの日本人旅行者の集団に巻き込まれるのは勘弁なので土産物屋を離れ、たまたま近くで一服中だった、ロバ車に乗って農作業に来ていたおっちゃん三人とカタコトのルーマニア語でだべる。
「寒い」
と言うと、
「こんなの寒くない。ウォッカを飲めばOKだ」
と。なるほど、そんなもんですか。
やがて近ツリのツアーバスは去って行った。若旦那に尋ねると、彼らは見ただけで何も買わなかったそうだ。むう、残念。
改めて店じまいをするのを手伝い、それが済むと若旦那が車を替えに出かけていった。いよいよだ。
●モルドヴィッツァへ、ルーマニアンスタイルで
時刻は11時半。これはさすがにモルドヴィッツァ12時35分発のヴァマまでの蒸気機関車に乗るのは無理だな。まあ仕方ない。
若旦那が戻ってきたのは11時40分。下手したら今日はスチャバまで戻れないかもしれないけど、その時はその時だ。なるようになるさ。後部座席に乗せてもらい、若夫婦は前。夫婦揃って車が動き始めたら十字を切っていた。信心深いのか習慣なのかはわからないけど。
ほどなく彼らの家に着き、商品を置くのを手伝う。こういうのも得難い経験だ。
年季の入ったダキア(ルーマニアの自動車ブランド)は思いきりかっ飛ばして、曲がりくねった山道を征く。正直、そんないい道ではない。少なくとも補修は不十分なように感じられる。ガードレールも木のガード柵だし、所々で路肩が崩れていても、柵をしただけで放置してあったりするし。この交通量の少なさなら大丈夫なのかなあ。
正直、不安はある。もしもし若旦那さん、そんなに飛ばさなくてもいいですよ。怖いから。最初に十字を切ったのが、
「あとは神様に聞いてくれ」
みたいに思えてきて、本当に怖いんですって。
スチェヴィツァとモルドヴィッツァの間に横たわる山地のピークを過ぎた。とたんに目の前に広大なパノラマが広がった。山の斜面が彼方まで延々と連なり、森と牧場のパッチワークが紅葉と常緑の樹々のコントラストと合わせて、本当に美しい。景色に見とれていると、
「You like Romania?」
と尋ねられた。答えはもちろん
「Da!」
おべっかではなく、本当に好きですよ、ルーマニア。
山を下りきると、もう目的地のヴァトラ・モルドビテイ(Vatra Mordvitei)。うわ、本当に30分で着いたよ。いくら実家に帰るついでとはいえ、ありがとう。助かりました。
下ろしてもらったところからモネストリー(修道院)までは村の中を400メートルほどらしい。
村の中を歩いていると、トウモロコシの刈り入れをしていたおばちゃんが近寄ってきた。何か眠るしぐさをしている。プライベートルームかな? ここにもあるんだ。知ってれば荷物を持ってきて泊まったんだけど、もうスチャバに宿を取ってるからなあ……ごめんなさい。すると、次は紙にアドレスを書いて渡してきた。……えーと、どうしろと……? 次に来たら泊めてやるからここに来いってことかな。でも、一度帰ったら次の場所に動くんだよ……。せっかくだし、帰国したら写真でも送ろう。
このおばちゃんもそうだけど、道行く人々が皆、実に愛想がいい。挨拶が無条件に笑顔と共に返ってくる国って、そうはない。いいよなあ、ルーマニア。
あの向こうに見えるのが目指すモネストリーだろう。
●モルドヴィッツァ修道院
そして、目的地のモルドヴィッツァ修道院。スチェヴィツァほどの威容はないが、外壁なんかもぴちっとしていて、なかなか立派だ。
入場料3万レイ、カメラ代6万レイ。
ぐるりと修道院外壁のフレスコ画を見て回っていたら、修道女さんがこいこいと手招きしている。行ってみると、背後の建物を指差して
「Museum」
そんなんあるんですか。もちろん入りますよ。
撮影禁止はまあ当然として、なかなか興味深い。
外壁のフレスコ画の修繕作業をした際取り外した、元々の外壁フレスコ画なんてのもある。修繕というより取替えやね。手は入れてもオリジナルのままだと思っていたので、ちょっと意外。他にもタペストリー、教会にある背もたれと肘掛けが異様に高い椅子、キリル文字やアラビア文字で書かれた昔の聖書などがある。聖書なんてやたらと大きく、縁が金具で補強されていて、映画なんかでよく見る秘本そのままだ。あれは重々しいイメージ作りじゃなくて、本当にそうだったんだ。
外に出て、修道院見物の続き。
正門にツタが絡まっていたり、昔のままのつるべが使われている井戸があったりと、敷地内の庭園の雰囲気もいい。
『地球の歩き方』によれば、ここのフレスコ画の最大の特徴は、戦闘場面が描かれていることらしい。横壁面下部にそれらしいのがあったので見てみる。ペルシャ軍襲来がモチーフだが、書かれている敵軍の顔や装備はどう見てもトルコ人だ……とあるが、僕にはそもそもペルシャ人とトルコ人の違いなんて分からない。でも確かに修道院のフレスコ画に大砲とかが描かれているのは珍しいと思う。
どの絵を見てもそれぞれに意味ありげで、そこに描かれている物語がどんなものか気になってくる。聖書をまともに読んだことがないから分かるはずもないんだけど。最後の審判とかならなんとなく分かるんだけどなあ。
修道院の中に入ると、ツーリストが数人と修道女さんが二、三人いた。キョロキョロと見てまわっていくと、最奥部にはカーテンがかかって入れなかった。修道女さんに
「ヌー、ボイ」
と言われたけど、「No,boy」かな? 女子修道院だから、男子禁制なんだろうか。ともあれ入っちゃ駄目ってことで、了解。
ツーリストの一人に、常時ソニーのビデオカメラを構えているアメリカ人のおっちゃんがいた。押しが強いなあ。ルーマニア語が話せないことなど歯牙にもかけず、俺の英語が通じて当然という態度で闊歩している。自分で解説しながらビデオを回しているのが面白かったけど、いかにもなアメリカ人だ。
●気がつけばヤツがいた
などと見てまわりっていると、昨日スチャバのネットカフェで話しかけてきたツーリストエージェンシーの兄ちゃんにばったり会った。
初対面で嘘をついてきた彼には正直いい印象を持っていない。変にツーリストずれしてて馴れ馴れしいし。が、向こうはそんなのお構いなしに話しかけてくる。連れてきたツーリストが修道院の中にいるので暇なようだ。でもなあ、こっちを日本人と分かったうえで、
「日本語は何を言ってるか分からない変な言葉だ」
と言い放つような奴を好きになんてなれないよ。マナーって言葉知ってる? それともわざと? 23歳だそうだから、生意気盛りなのかもしれないけど。
「俺達と一緒に来ればよかったのに。どうして来なかったんだ?」
今の今まで日本人を揶揄してたその口で、よくもまあいけしゃあしゃあと。元々必要に迫られないとツアーには見向きもしない旅をしてるけど、もし必要でも兄ちゃんには頼まんわ。
「I like selfish」
「おいおい、それは駄目だ。selfishはよくない言葉だぞ。go yourselfと言うべきだ」
へーそうなんだー。マレーシアでそう言ったら
「そんなもってまわった言い回しは駄目だ」
と言われてこっちに直されたんだけどなー。
(帰国後に調べたら、確かにselfishには"自分勝手、わがまま"という訳があてられていた。あまり品のいい言葉じゃないっぽいけど、この時の気分には逆にぴったりだった)
とかしていると、彼が案内しているというアメリカ人カップルが出てきた。って男の人、さっきの賑やかで押しの強い人じゃないか。この人にこの兄ちゃんなら、確かに波長が合うかも。彼ら三人から、時間もいいし一緒に昼食に行こうと誘われる。エージェンシーの兄ちゃんの車でちょっと走ったところにある、グッドなレストランに行くらしい。時間もあるし、お腹も減っていたので申し出を受けることにした。兄ちゃんと二人だったら絶対お断りだったけど、集団ならいいかなと。
兄ちゃんの車に乗りに修道院の外に出る。昼休みか、チケット売り場が閉まっていた。ここの絵葉書買いたかったのに。残念。
●芸能オンチなんですよ
車を取りに行くのかと思っていた兄ちゃんが足を止め、修道院の外壁沿いの下り坂の下を指差して言った。
「TV、Japan」
え?
見ると、確かに何かの撮影をしているらしき一団がいる。確かに東洋人の集団だけど、遠くて日本人かどうかはちょっと分からな……あ、日本人だわ。あの茶髪にしまりと生気のない顔をした兄ちゃん。あの表情は日本人特有だ。スタッフの声が聞こえる。
「はい、行きまーす!」
やっぱり。
近畿日本ツーリストのツアーには遭うし、なんて日だ。
アメリカ人カップルの女の人が、カメラに撮られている女性レポーターを指して
「あの人は日本では有名なの?」
と尋ねてくるけど、まだ遠すぎて僕の目では見えませんがな。もし有名だったとしても、自他共に認める芸能界音痴の僕には分からない可能性が高いけどね。
あ、撮影始まった。
「ここがモルドヴィッツァ修道院です……」
喋りながら坂を歩いてくる一人の女性。落ち着いたたたずまいなので、駆け出しの若手とかではなさそう。喋ったり、外壁を見上げたりしながら我々の前を通り過ぎ、中に入っていった。ぱっちりした目の、きれいな人だ。確かに見たことがあると思う。
誰だろうと思っていたら、ルーマニア人の兄ちゃんがスタッフの一人に尋ねてきた。
彼女の名は「Yoshiko Mita」……「三田佳子」かあ! さすがに名前は知ってるよ。コピーはmitaの人でしょ。顔は知らなかったけど。
既に修道院内での撮影が始まっているので、それ以上見ることは出来ない。顔と名前が一致する芸能人が一人増えるチャンスなんだけどなあ。仕方ない。
外で見張りというか、待機しているスタッフの一人に尋ねてみる。
「撮影してるのは何の番組なんですか?」
「さあ、ドキュメンタリー番組かと……」
普通に日本語で答えてくれたのは、上の写真では左端を歩いていた、現地スタッフのルーマニア人。そりゃあ日本語通訳を雇うくらいはするだろうけど、日本語を話せるルーマニア人は珍しいのかな? こっちのルーマニア人の兄ちゃんが
「おまえ、日本語が喋れるのか!」
と驚いていたし。確かに英語でさえあまり通じない国だからなあ。
●楽しい昼食?
いい加減空腹になってきたので、当初の予定通りに兄ちゃんの車に4乗してレストランに向かう。
その道すがら、アメリカ人カップルが
「あの女優さん、有名なの? テレビ? 映画?」
と聞いてきた。えーと……テレビ、かな? 申し訳ないけど、知らないことを尋ねられても分からないです……。
運転中の兄ちゃんがもう一度名前を尋ねてきたので教えると、突然大声で
「ヨシコ・ミター! コンニチワ、オハヨウゴザイマス! ニャムニャム○☆×◎▲&%……」
とがなりたてだした。ええい、うるさい。前から思ってたけど、兄ちゃん、日本人が嫌いだろう? 少なくとも見下してるだろう? 日本人限定かどうかはともかく。
妙な日だ。今日じゃなかったら、土産物屋夫婦に送ってもらわなかったら、この展開にはなってなかったんだよな。
僕以外の三人は、この後スチェヴィツァ修道院に行くらしい。僕と反対のルートだな。
それにしてもレストラン、思ったより遠い。東へ、スチェヴィツァ方向へ既に10分ほど走っており、もう集落は完全に抜けてしまった。
ようやく着いたレストランは、そこそここじゃれた建物だったが、英語表記のあるメニューは値段が書いてなかった。ちっ、外国人用メニューか。これは高くつきそうだ。無難にママリガ&チーズにポーツガルツ、ティーを注文して、15万レイ。予定の1.5倍か。まあ仕方ない。
食べながら何くれとなく話す。例によって僕の身の上もパターン通りに尋ねられる。
「日本のどこに住んでいるのか」
「いつから旅しているのか」
「何故ルーマニアなのか」
等々。
「スポーツは何を?」
と尋ねられたので
「柔道」
と答えると、またルーマニア人の兄ちゃんが、
「殺さないでー!」
この大げさな反応にもいいかげん慣れてきた。
そろそろ動こうかと席を立ったのが14時。元々12時36分ヴァトラ・モルドビテイ発のヴァマVama行きには間に合ってなかったので気楽なものだ。
このままスチャバまで一緒に来ると思い込んでいた兄ちゃんは露骨に不満そうな顔をするが、最初からランチだけって言っただろ。「selfish」に考えすぎ。村から数キロ東に連れて来て、元のところまで送り返すつもりがないんだから、これはもう同行するだろうと思ってたようだけど、甘い。この程度で信用できない奴と楽しくない行動を共になんてしないよ。
東に向かうという彼らとレストランで別れ、一人歩きだす。
僕もちょっと迂闊だったな。反省。
●GO WEST
期せずして逆戻りしてしまった道を、再度ヴァトラ・モルドビテイめざして歩きだす。まずはさっきの村まで戻り、そこからどうにかして15キロ南下したところにあるヴァマの町まで行かなければ。そこまでの交通機関の情報はないが、ま、まだまだ日は高いし、なんとでもなるさ。それにしても相変わらず人気のない道だなあ。
後ろから馬車がやってきたので挨拶する。「ブーナズィア」を縮めて「ズィア」と言う人が多いので、かねてから発音がそっくりだと思っていた日本語で
「ちわ」
と言ってみたところ、普通に通じてしまった。
おっちゃん達に挨拶ついでに確認しようと進行方向を指差して、
「こっちがヴァトラですね」
と言ったら、僕の前で馬車が停まった。そして笑顔で
「乗りな」
と。まさか馬車に乗れるとは思ってなかった。ありがとうございます。この暖かさが本来のルーマニア人なんだよなあ。
干草を積んだ馬車は、思ったより乗り心地がいい。カポカポとのんきに進んでいく馬車は、それでも人間の徒歩よりずっと速い。手綱を握りながらおっちゃんが
「スチェヴィツァから歩いてきたのか。さぞかし足が疲れたろう」
とねぎらってくれる。いや、あのう……違うんですが……ああああ、申し訳なくてとても本当のことは言えない……。
馬もここまで長時間馬車を曳いてきて疲れてるのだろう、時折歩みが遅くなったり、足を硬いアスファルトで滑らせたりしている。ごめんね。でも初めて乗った馬車は、楽しい体験だった。おっちゃんが気を利かせて、わざわざメイン道路から外れたモルドヴィッツァ修道院の近くまで連れて行ってくれた。
「ほら、ここが修道院だ。よい旅を」
本当にありがとうございました。
●モルドヴィッツァ修道院・二回目
せっかくだから、もう一度見ていこう。そう思って門の前まで行くが、扉が閉まっている。あれえ? 午後は開放しないのかな? などと考えていると、外にいた修道女さんが扉の前で立ちつくす僕に声をかけてくれた。
「日本のテレビ局が取材で来てるから閉めてるのよ」
まだやってたのか。なら仕方ない、どうせ一度見てるし、ヴァマに向かうかと考えていると、修道女さんが笑顔でウインクして
「でも大丈夫、ノープロブレムよ。入って」
と開けてくれた。入り口のところに先のルーマニア人現地スタッフが休んでいるが、あとは人の姿もなく、境内はがらんと静まり返っている。テレビスタッフは修道院内部の撮影中かな。外壁にある修道女さん達の生活の場からコードを引っ張っているのが見えるし。まあおかげで静かに、じっくりと見てまわることができる。
やっぱりこういう所はわいわい見るより、静かにじっくり見るのが心に沁みていい。撮影の邪魔をするつもりはないので修道院の中には入らず、寺域をじっくりと散策する。
しかし、今回はチケット売り場を閉めたまま、無料で入れてくれたなあ。再入場だからかな。
それにしても今日見た修道院は二つとも、色々あったけど来た甲斐のある、いいところだった。
●歩こう、歩こう
十分堪能して外に出て、時計を見ると15時前。
ここからスチャバ行きの鉄道が通るヴァマまでは、地図によれば15キロ。
列車は当分なないし(元々朝・昼・晩の一日三往復しかない。)、探してみてもバス乗り場もタクシーも見当たらない。となると残る手は一つ。歩こう。15キロなら大丈夫だし。そこらの人にヴァマへの道を尋ねながら歩きだす。
ヴァトラ・モルドビテイの集落さえ抜けてしまえば、あとは谷筋に沿って南下するだけなので、迷う心配はない。道は線路と寄り添うように、谷底を走っている。
それにしても、ほぼ全ての人がフレンドリーだ。皆、挨拶をすると笑顔で返してくれる。遠くの人ともお互いに手を振りあったりしつつ歩いていく。感じいいなあ。
馬車でやってきた人が僕を抜いたところで停まり、
「写真を撮ってくれ」
と言ってきた。馬車に乗ってポーズをする彼らを撮ると
「ありがとう。ところでこの写真、紙には出ないのか」
すいません、ポラロイドじゃないんです……。
谷間(といっても結構広い)を歩いていくと、どうやらこの辺りでは外国人を見かけることがないようで、僕が通りかかると皆興味津々の態でこちらを見てくる。
子供が遠くで遊んでいて、手を止めてこちらを見たので手を振ると、わっと歓声を上げつつこっちに駆け寄ってきて、口々に
「ハロー!」
「サンキュー!」
と言いながらしばらく一緒に歩いていったりした。
そうでなくても、物珍しげにこっちをじいいっと見てきて、笑顔で「ちわ」と言いながら手を振ると、にこやかに振り返してくれる人は老若男女問わず、たくさんいた。
ブコヴィナ地方ではどの車も尋常じゃなくかっ飛ばしているので、路肩を歩いている身としては気をつけていかないといけない。
ヴァマ発16時51分のスチャバ方面行き列車に乗るのは、このまま最後まで歩きだとちときついかな。まあそれが今日の最終ってわけでもないし、別にいいや。
途中の道端で声をかけてきたお姉ちゃんが、歩いてヴァマに向かっていると聞くと
「まだ12キロもあるのよ! ヒッチハイクしなよ!」
と言ってくれた。そうだなあ、その方がいいんだろうなあ。でもまだ時間はあるし、もうちょっと歩いてから考えるよ。
ヴァマから谷を北上し、モルドヴィッツァまで線路が通っているのだが、そこを走るヴァマ15時16分発の列車と、15時43分頃、すれ違った。
こんなローカル線でも編成は長い。これがルーマニアのスタイルなんだな。列車内の乗客の何人かと目が合うが、皆一様に驚いた顔になってこっちを見る。よっぽど外国人旅行者が歩いているのが似合わない場所なんだな。気持ちは分かる。それにしても、ゆっくりと進む列車だ。パンフレットに「スロートレイン」と書かれているのも納得。
時間があるならモルドヴィッツァのさらに奥にある、私営のナローゲージ(軽便鉄道)も見てみたかったが、仕方ない。昨日スチェヴィッツァを見ておけば行けてたんだよなあ。
このあたりの中心産業は、どうやら林業のようだ。ここまででも馬車やなんやで木材を運搬しているのは何度も見たし、伐採した原木を山積みした駅なんてのも、何度も出てきた。
それと、このあたりのヨーロッパなら当たり前に行われている放牧と。
ひたすらに歩き続け、16時10分。気がつけば中間のドラゴシャ村を過ぎ、ヴァトラから10キロ離れたフルモスFurumosuという集落まで来た。三分の二、歩いたんだな。ここまでくればあと一息だ。
とある道端の民家で、一人のお母さんが赤ん坊をあやしているのと目が合った。
「ちわ」
「ズィア」
感じが良かったので、写真を撮らせてもらう。いつものように撮った写真をモニターで見せるとお母さん、嬉しそうに「ちょっと待ってて」とジェスチャーして、家の中に入っていった。程なく、家の中にいた全家族が出てきた。お婆さん、赤ちゃんのお姉ちゃんだろう、二人の姉妹。もう一度撮ってくれとのこと。喜んで。
撮った写真を見せると、姉妹もお婆ちゃんも喜んでくれた。歩いてゆっくり旅すると、楽しいことにいっぱい出会えるなあ。
●方針転換
フルモスの集落の中を歩き続けていると、すれ違ったおじいちゃんが僕を呼びとめ、ようこそフルモスへと握手をしながら、
「歩いていくのはしんどいだろう。ここからならアウトブズ(バス)があるぞ。ほら、あそこから発着する。16時30分に来るからヴァマまで乗っていくといい」
と教えてくれた。
ここまで素直にお膳立てされると、歩きに意地を張る気も失せる。どのみち、田舎の谷間の風景は十分に満喫できたし、いいか。
教えてもらった停留所に行き、先客のおばちゃん達に確認する。確かに16時30分にヴァマ行きのバスが来るらしい。料金は15,000レイ。OK。
バスは定刻よりはるかに早く、16時23分に来た。ここではそういうものなんだろう。
バス自体はいかにもといった風体のローカルバス。一緒にバスに乗ったおばちゃん達がずいぶんと気にかけてくれた。
「Vama? tren? gara?」
と。僕が鉄道駅に行きたがっていると知ると、降りる停留所を教えてくれ、運ちゃんにも
「外人さんが降りるわよ!」
とわざわざ言ってくれた。そのホスピタリティーに心から感謝。この人達がいなかったら、こんな何もない、ただの道端で降りるなんて分からなかったよ。
降りた後も、鉄道駅の場所が分からないのでそこらの人に尋ねながら行く。
「トレンガーラ?」
「ああ、ここをまっすぐ行って右に折れるのよ(と、ルーマニア語とジェスチャーで)」
みたいな感じで五分ほど歩き、ヴァマ駅に無事到着。時刻は16時45分。51分発に間に合ったよ。
……なのにチケット売り場が分からず、情けなくもまごついていると、近くにいたおっちゃんが連れて行ってくれ、売り場に人がいないと分かると近くを探し回って駅員を呼んできてくれた。
ううう、人の情けが身に沁みる。多くの人の親切がなければ、今日のこんな動きはとうてい出来なかった。今日はある意味、今回の旅の中でもっとも印象深い移動をした日のひとつになると思う。
●長い一日の終わり
ここからスチャバまでは普通列車が通っていて、料金は31,000レイ。シギショアラ−ブラショフの時に乗ったような、コンパートメントではない普通のクロスシート車両だ。
そこそこの乗車率で、混雑も寂しさもない。一昨日使ったグラ・フモール駅にも停車した列車は、定刻どおり18時43分にスチャバ北駅着。そろそろ乗り慣れてきた乗り合いミニバスでセンターに戻る。
部屋に戻り、テレビを見ながら一服。お、カートゥーンネットワークでサムライジャックをやっている。台詞が少ないうえにアクション中心なので、英語が苦手でも話についていけるから気楽に見れるんだよな。
今日の夕食は、ホテル一階のレストランにする。チョルバ・デ・ムリショール、ピラフ、チキンソテー、ヨーグルトで12万レイちょっと。やっぱり昼はややボられてたよなあ。
関係ないが、ヨーロッパに入ってからこっち、目薬が手放せなくなっている。乾燥しているんだな。差すとすごく沁みるし。
それにしても今日はよく写真を撮った。数えてみたら、ざっと250枚に達していた。この後整理して減らさなきゃ。
ルーマニア 10月16日(水) スチャバ
7時に目覚ましをかけておいたのに、目が覚めたのは7時40分だった。しかも起きることが出来ずに二度寝してしまい、結局起きたのは9時過ぎ。
8時27分スチャバ北駅発の列車でスチャバを出ようと考えていたのだが、もう出てしまっている。今からでは次の目的地、シゲット・マルマッティエイに当日移動できない。一度ブカレストかブラショフまで出れば、今からでも明日の昼前に着けるようだが、なんか面倒くさくなったので、ここにもう一泊することにした。
とはいえ、今からではプトナの修道院を見に行くのも無理なので、ブコヴィナ地方最後の一日を、スチャバのセンターで過ごすしかない。とりあえず甘いパンが食べたくなったのでパン屋へ。その後ネット屋で時間を潰す。それでもどうしても時間が余って仕方ないので、博物館にでも行くことにした。
国立博物館は美術品が中心のようで、なんとなく気分が乗らなかったのでやめにし、もう一軒のブコヴィナ民族博物館へ。前回は見つけられなかったので、情報を元にじっくりと探す。あった。建物はもとより、看板も普通の家の表札と大差がなく、入り口の木の扉はぴったりと閉じられている。これでは分からないのも無理はないや。
扉を開けて中に入るが、全く人気がない。呼びかけても誰も出てこないし、なんだか民家に無断侵入をしたような気分になってくる。しばらくして職員のお姉ちゃんが一人、のんびりと無表情に、おっとり刀でやって来た。
入場料1万レイ、カメラは3万レイと、嘘みたいに安い。絶対採算取れてないだろう、ここ。地方自治体が運営してるのかな。
静まり返った博物館の中には、他に人の気配はない。だから節電のためか展示室の明りは全て落とされていて、僕が入ろうとするとお姉ちゃんが点けてくれ、出ると消していった。
この博物館は二階建てで、ブコヴィナ地方の暮らし、民族衣装、生活用品などが展示されていた。なかなか興味深い展示だったが、外国人の僕には正直ブコヴィナ地方内部での細かな違いなんてさっぱり分からない。でもここブコヴィナ地方の民族衣装はなかなか綺麗でいい感じだ。
売ってもいたのでちょっと考えたが、ベストが一着300万レイと0が一つ多い額を言われては手が出せない。
外に出てもまだまだ時間があるので、駅に行って明日の切符を買っておくことにした。スチャバからシゲット・マルマティエイまでの乗車券と8時27分発、乗換駅のサルバまでのアクセラレータチケット、しめて195,000レイ。やっぱり安いよなあ。
まだ日があったので、マーケットに足を伸ばす。やはりセーターは30万レイするのか。トレーナーは20万レイ。うーむ。ポケットティッシュとぶどうを買い、マガジンで1.5リットルのガスウォーター(Poiana
Negri)とURUS瓶ビール、チーズ、ヨーグルトを買う。それにしても、今日は暑い。珍しく晴れてるし。これまで曇って雨ばかりだったのに、動かない日にこれか。暑いといってもこの雲だから、いかにも秋なんだけど。というか、マーケットの端からブコヴィナ平原を見渡すと、実に見晴らしがいい。この景色が見れただけでも、今日残った意味はあった。
今日買ったガスウォーター、炭酸だから重いかと思えば逆で、えらく口当たりが軽くて飲みやすい。ビールはこのURSUSがすっきりとライトな味わいでお気に入りだ。
ルーマニア 10月17日(木) スチャバ → サルバ → ヴィシェウ → シゲット・マルマッティエ
ルーマニア国鉄CFR路線図
●さらばスチャバ
無事6時半に起床。7時40分、チェックアウト。いよいよスチャバを出る。気がつけば6泊もしてたんだ……。
スチャバ北駅に行くと、予想通りカシオの時計を欲しがっていた兄ちゃんがいた。朝食は駅売店で買った2,000レイのパン。さあ、行くか。
列車は8時27分発。外は寒いが、車内は季節柄、暖房が効きまくっているので暑い。
今日も天気がよく、日差しが強くてまぶしいぐらいだ。想像通り、晴れた日の車窓風景は素晴らしいの一言だ。窓外には天然の地形そのままの稜線がなだらかにうねり、畑のうねが山の上まで伸びている。
今日の車両はコンパートメント式で、八人がけの座席に四人。おっちゃん一人、仕事に行くらしい二人連れ、そして僕。
●Radu
「五つの修道院」に行くために先日利用したグラ・フモールを過ぎたあたりで、二人連れの一人、若い方の人が話しかけてきた。例によってどこから来たのか、一人か、どこへ行くのかと定番の質問。ヨーロッパでは日本から来たというと、ほぼ例外なく
「so far(遠くから来たなあ)」
と言われる。確かに極東アジアからヨーロッパは遠いよなあ。
この人も英語は片言だ。ここまで旅してきて感じたところだと、この国の英語レベルは基本的に日本のそれと大差ないような気がする。日本人と同じく、読むのはましだが話すのは苦手らしいし。
「俺も日本に行ってみたいが、遠すぎるし、何よりそんなお金は持ってない」
確かにお金が問題だよなあ。なんだかんだで盛り上がり、住所交換をすることになった。この人はラドゥ(RADU)、27歳で既婚、スチャバ在住で、今日は出張でカンプルン(10時に到着する)に行くところだそうだ。
ヴァマの近くで最近竜巻が暴れたという場所を教えてもらう。確かに山肌、樹々がなぎ倒されている。強い竜巻って日本ではそんなに聞かないから興味深い。
「ルーマニアではシビウに行くべきだ。古くていい町だぞ」
とも教えてもらったが、残念ながらこの後のルートからは外れている。スチャバに長居する前に聞いてたら行ってたんだけど。
「そうか、残念だ。シギショアラには行ったのか、うん、そう、似た感じの町だ」
なるほど。
「シゲットに向かってるのか。もし時間があるなら、マラムレシュ地方ならイザIza川に行ってみたらいい。きれいだよ(If
you have time,you should go Iza.It's so beautiful.)」
等々、短い時間にいろんな話をした。本当にルーマニア人ってなつっこいというか、親しみやすいなあ。場所的、時期的に、まさかヨーロッパで外人の友人ができるとは思ってなかった。
ラドゥ達二人は予定通り、カンプルンで降りていった。これでコンパートメントにはおっちゃんと僕の二人になった。
●カルパチアを越える
カンプルンを過ぎると列車はいよいよ山の中に入り込んでいった。これからカルパチア山脈を横断するんだ。自然、速度はゆっくりに、曲がりくねりながら進むようになった。ついでに空も曇ってきた。空は曇り、列車はひたすらにくねくねと山を登っていく。一昨日のモルドヴィッツァでも思ったけど、山間部に入ると林業が盛んに行われている。
単調でのんびりとした時間に誘われて、うとうととうたた寝。11時半に目が覚めても、変わらず山の中をゆったりと進んでいる。のどかだ。全身に埃を被った古そうなバスが走っているのが見えた。前のドア、開いたままだな。この辺りは畑か牧場か素人目には分からない緑地が山あいに広がっていて、目に快い。
この国の車内販売って、コンパートメントに商品を一通り置いて行き、しばらくしてから戻ってきて
「どう? 何か気に入ったのはあった?」
と尋ねるんだな。面白いスタイルだ。
ルーマニアの鉄道駅は、原則的にどこでも、『ゴミ』『チケット売り場』のようなイラスト入りプレートが掲げられているので、分かりやすくていい。また、まだまだ機械化が進んでないので、全部の駅に駅務員さんがいるのもなんだかほっとする。時刻表片手に流れ去っていく駅名表示を見ていると、列車はやや遅れ気味なようだ。
この辺りはトンネル・谷・トンネル・谷と連続していて、山深い土地だという事がよく分かる。常緑針葉樹の中に混じって見事に紅葉している樹々が散見され、その取り合わせがまた美しい。
ああ、今、自分の頭の中は9割以上が旅のことで占められている。働いている時に数日間の国内旅行をした時は雑念だらけで、せいぜい5,6割程度しか考えていなかったと思う。つくづく貴重な時を過ごしているんだなあ。
列車は山地のピークを越えたようで、気がつくと下りに入っていた。標高が下がるにつれ、平地が増え、紅葉した木の割合が増え、これまた見事な景色になってきた。
車内販売で、食べ物が出てきた。そういやこの列車はルーマニア東端のヤシから西端のティミショアラまで走り抜ける長距離列車だったな。洋ナシにパスタか。乗り換え駅のサルバで時間がたっぷりあるので、そこで食べるつもりだったから買わなかったけど。予定から23分遅れてそのサルバ(Salva)駅に到着。
●サルバ
予想はしていたけど、あくまでも鉄道線路の中継点なだけで、サルバは田舎の駅だった。
駅のトイレに行く。と。……おいこら。なんでこんなにトイレが汚いんだ……。便器が、じゃなくてトイレが……。これは酷い。いつから掃除してないんだ? 不幸中の幸いか、寒くて乾燥しているから悪臭とかはあんまりないけど……。少しでいいから東南アジアのトイレの清潔さを見習って欲しいものだ……。
ホームをうろついていると、カフェスタンドの二人の女店員さんに声を掛けられた。
「ズィア」
「ちわ」
どうせ列車が来るまでまだ45分もあって暇なので、そっちに行く。二人は僕が日本人だと分かっていたようだ。写真を撮ってくれ? お安い御用です。パチリ。
住所を教えるから、帰国したらこの写真と一緒に日本の写真を送ってくれ? いいよー。
以前やって来たという日本人ツーリストと写した写真を見せてもらったりしながらだべっていたら、コーヒーをご馳走になってしまった。タダでいいって、売り物じゃないの? 写真と交換だから気にしなくていいらしい。オーケー。
コーヒーを飲みながら今撮った写真をデジカメのモニターで見せると、二人は何事かルーマニア語で話し合い、僕の腕を引っ張ってどこかに連れて行こうとした。何? いいから来いって? まあ危険な感じはしないし、別にいいか。
二人の家は駅のすぐ裏手にあった。誘われるままに家の中に入り、言われるままに椅子に腰掛ける。なんでも着替えてくるから全身の写真を撮って欲しいそうだ。はぁ。
二人は着替えに家の奥に入って行ってしまった。僕は一人、ぽつんと取り残される。おーい。
なかなか二人の着替えが終わらず、なんだか不安になってきた頃、男の子が恐る恐る顔を出してこっちを覗いてきた。髪の毛が黒い方の人の子供かな? 彼は異邦人の僕が怖いようで、顔だけ覗かせたまま出てこようとしない。なんとなく緊張感を漂わせつつ、視線を交わしあう。
そんなこんなでよく分からない時間が過ぎ、ようやく着替えた二人が出てきた……っておい! ドレスを着てるよ!
着替えるっても、まさかここまでするとは思わなかった。びっくりしたあ。恐るべし、デジカメパワー。これは正直予想外だった。最後に写真のお礼にと、チョコレートまでもらってしまった。ありがとうございます。時間もないし、今日の昼食はこれだな。
しかし、まさか乗り換え駅のサルバでこんなことがあるとは思ってもなかったなあ。オニータ・アナーアンジェラさん、お世話になりました。
駅に戻って列車を待つが、遅れているようだ。20分以上待っても、まだ来ない。シゲット・マルマッティエイ行きの列車はここ始発じゃなくて、クルージュ・ナポカ始発らしいけど、それでも基本的に時刻表通りに運行するルーマニアの鉄道にしては珍しい。
それにしても、10両以上の編成の客車列車が当たり前のように走っているし、路線図を見ても国土を縦横に走りまわっているし、実は鉄道王国なのか、ルーマニア?(今現在、ルーマニア国鉄CFR(チェフェレ)のサイトで路線図を見てみると、旅した当時より増えている。本当に鉄道王国だったんだ……)
ホームではアコーディオン弾きの少年が物乞いをしている。ヨーロッパっぽいなあ。東南アジアではカラオケだったもんな。ここで気付いたが、辺りにいる女性の服装が変わった。頭の頭巾は同じだが、下半身がタイツにスカートになった。マラムレシュ地方の特徴なのかな。そしてここでは皆、僕を見て一言目に
「ジャポネ?」
と言ってくる。他の東洋人が来てないだけかもしれないけど、やっぱり嬉しい。
それにしても暇だ。これならオニータの家で、もうちょっとゆっくりできたなあ。……それにしても列車が来ない。あれえ? いくらなんでもおかしくないか? 次の列車って、14時45分発予定だよな? 不安になったので駅員さんを探して尋ねてみると、次のシゲット行きの列車は16時26分発だとのこと。時刻表に載っている14時45分発があるは、11月1日以降の話だそうだ。やられた……。
何ですか、はじめから三時間待ちだったわけですか。ここで時間を潰すのはいいけど、シゲット着が夜遅くなるなぁ……。
あまりに時間ができてしまったので、同じ列車でシゲットに向かうと言っていたオニータの友人の兄ちゃんに大リュックを見ていてくれるように頼み、駅の周りをぐるりと散策に出た。
道路を歩いていると先の子供とオニータ達を見かけたので、暇つぶしに折鶴をあげ、写真をもう一枚。と、またネスカフェをおごってもらった。割れたカップの縁をセーターの裾で拭いてコーヒーを淹れてくれるってまた豪快だな。慣れたけど。ありがとう。
●マラムレシュ地方へ
そんなこんなで時間が過ぎ、遅れるなんてとんでもない、列車は定刻通りにやって来た。客車列車で10両以上の編成、何時間も走り続ける普通列車だ。
定時の16時26分、列車はシゲット・マルマッティエイめざして動き出した。車窓を見ていて気付いたのだが、この辺りでは家々の屋根が赤くない。白というか、グレーっぽい色に変わった。材質もなんかスレートっぽくなった気がする。地方が変われば風習も変わるんだなあ。
夕日を浴びて輝く山あいの村々は、森、牧草地、畑、家、道、川、とコントラストが非常にはっきりしていて、まるで箱庭のミニチュアのようだ。日本でよくあるような、山を重機が削っているなどの近代的光景がほとんど目につかないのも、その印象を強めている。そして、さすがは山間部、ここでもとにかく林業が盛んだ。
サルバから一時間も行かないうちに谷が狭まってきた。線路は変わらず山肌を縫いつつ、次第にその高度を上げていく。紅葉に包まれた山々の中を列車で進んでいくこの光景は、日本ではお目にかかったことがない。山岳路線だけあって速度はゆっくりしたものだが、保線状態がいいのか、あまり揺れない。レールの継ぎ目の衝撃もさほどない。大したものだ。
しかし、ここまで山の只中へ突き進んでいって、果たしてこの先に本当に大きな町があるのかと疑いたくなってきた。いや、目指すシゲット・マルマッティエイは盆地の中にあり、到着までまだ四時間あると分かってはいるんだけども。駅に停車するたび、結構長く停車しているので単純計算は出来ないけど、ざっと平均時速は30キロくらいか。のんびりしたものだ。次第にトンネルも増えてきた。
18時。長いトンネルを抜けると、ついに列車が下りだした。行く手に谷が開けているのが見える。分水嶺を越えたようだ。ということは、マラムレシュ地方に入ったのか。谷の最上部に出た時も、線路も周囲の土地も、こまめに人の手が入っているのが分かる。元々山肌全体が畑や牧草地として開発されていることの多い地だが、こんな上のほうまでよく手入れしているものだ。
列車は谷底に降り、開けた土地を目指して進んでいく。時折、かなり暗くなってきた急斜面の牧草地に羊が群をなしているのが見える。
やがて、ついに暗くて外がろくに見えなくなってしまったので、暇潰しに『地球の歩き方』の中欧各国の歴史を読む。それによると、ここマラムレシュ地方は元々、ハンガリー帝国の版図だったらしい。そして現在のマラムレシュ地方は、南半分がルーマニア、北半分がウクライナに分割されている。ヨーロッパの歴史は多層的に入り組んでいて、難しい。
それにしても、広大なユーラシア大陸の一角、こんな谷あいの地で農牧生活をしていくのってどんな気分なんだろう。それは分からないが、逆にこっちの人たちは大陸の果ての島国で暮らす気分は分からないんだろうな。でもまあ結局のところ、『人が人として暮らしている』のは、どこでも変わらないんだが。そんなことも、実際に旅して体感すると違うものだと最近思う。
●シゲット・マルマッティエイへ
19時、ほとんど真っ暗になってしまった。が、少ない明りでも平地に出たことは分かった。と思ったら列車が停車した。16分停車する予定のヴィシュデ・ジョス(Visude Jos)だ。立地的には谷口集落だな。ここから先がマラムレシュ盆地だ。何も見えないけど。
見えない中を列車は走り出し、20時過ぎ、再度停車した。サルバからずっと一緒だった、オニータの友人の兄ちゃんが降りていった。シゲットまで行くと言っていたと思ったけど、勘違いだったのか。そして、なかなか発車しない。まあ今は『歩き方』の中欧の歴史を夢中になって読み耽っているので気にならないけど。
と、帽子に革ジャンの兄ちゃんがコンパートメントに入ってきた。何か言っているが、発音に癖があり、英語でもないのか何を言っているのか聞き取れない。そういう顔をすると、今度はゆっくり言い直してくれた。
「ヴィシェウ、パシュポルト」
「?」
やはり分からなかったが、よく考えると理解できた。彼は
「ヴィシェウ、パスポート」と言っていたのだ。「ここはヴィシェウだから、パスポートを見せて」と。
そりゃパスポートは肌身離さず持ってるけど……なんで? 確かにここはウクライナへ伸びる線路が分岐する駅だけど、僕はこのままルーマニアに居続けるんですよ?
「ヒア、ルーマニア?」
「ダァ」
「パスポート、ホワイ?」
「?」
残念ながら、彼我の英語力ではうまく伝わらないらしく、彼は笑顔の中に申し訳なさそうな表情を浮かべながら、パスポートを受け取る手を差し出したままだ。もしかしたらこの線路、一時的にウクライナ領に入ってしまっているのかな?
これ以上抵抗する理由もないし、この兄ちゃんは騙そうとしているわけでもなさそうだったので、パスポートを渡す。もちろんウクライナビザなんて持ってない。まあ、万が一必要だったとしても、どうとでもなるさ。兄ちゃんはパスポートを受け取り、ぱらぱらとページをめくって見ただけで、すぐに
「ムルツメスク(ありがとう)」
と返してくれ、まだ何かあるのかと腰を浮かしている僕に、
「もう終わったから気にせず座ってて」
とジェスチャーで示して去って行った。一体なんだったんだろう。タイや中国でもあったように、国境近くだからチェックが行われているんだろうか。
時刻表を見ると、Viseu Bistr hc 19時58分 → Velea Viseului 20時42分。両駅間の距離は8キロあるようだが、実際問題として、一度停車したっきり、ずっと動いていない。やっぱり国境関係なのかな? でも逆方向に行く列車は、両駅間の所要時間は13分と、こっちの44分に比して極端に短いから、チェックは行われていないのだろう。なんなんだ。
ともあれ列車は20時42分、定刻に動き出した。逆方向に。え? この駅でスイッチバックするのか。遠軽駅みたいだな。ということは、この間に機関車も付け替えてたのか。駅を出て行く際に見ると、見張り所に駅員さんが険しい顔で立っていたのが印象的だった。やはり国境で線路が繋がっているだけあって、他の駅とは緊張感が違うのだろう。
駅を出てすぐ、大きい川を鉄橋で渡った。ここから先、乗客は各駅に停まる度にどんどん降りて行き、だんだん寂しくなってきた。コンパートメントに居るのも、いつしか僕一人になっていた。
21時45分、さらに開けたところに出たようだ。はるか前方に、明りがいっぱい見える。シゲット・マルマッティエイの明りに違いない。7分程度遅れているが、ま、無事であれば後のことはどうとでもなる。22時、半日以上の移動を経て、シゲット・マルマッティエイ到着。
●シゲット・マルマッティエイ
……正直言っていいですか? 駅も、駅前広場も、想像していたほどのものではなかった……。
しかも、駅のまん前にあるはずのアルデアルホテルは例によって見当たらないし、期待していたミニホテルは時間が遅いから閉めきってしまっているし、場所かタイミングが悪いのか、プライベートルームの客引きなんて影も形も見えないし。むう。スチャバでホテルの支配人さんに写させてもらった『地球の歩き方 ブルガリア/ルーマニア』に書いてあったんだけどなあ。仕方ないので、駅からちと遠いけど、センター付近にあるというホテルTISAを目指し、大リュックを背負って歩きだす。決して近くはない。歩いて15分はかかるはずだが、他にホテルの情報は持ってないし。
もう夜も遅く、店も全て閉まっているが、それでもある程度の人通りはある。おかげで夜に大荷物を背負って一人歩きしていても、特に怖くない。また、道路には常夜灯がたくさん灯されていて、思ったより明るいのもいい。それと、道の両側の建物がやけに立派できれいなんだが、なぜだろう。教会も大きいし。というかこの教会、なんかこれまでと雰囲気が違うけど、もしかしてルーマニア正教会ではないのかな?
とかなんとか見聞きしながら歩いて行き、ホテルの近くにやって来た。はずだが、それらしき建物が見当たらない。あれえ? 看板も何もないから分からないよ。仕方がないので、たまたま通りかかった道行く人に尋ね、ようやくたどり着くことが出来た。
で、そのホテルTISA。フロントで尋ねると、シングル一泊54万レイ。なぬ!? ここ、一つ星ホテルやよな? 三ツ星のホテルスチャバと変わらないじゃないか。なんで? しかし、もう時間も遅く、へばっていたのでもうとにかくここで一泊することにした。
あてがわれた部屋は、妙にだだっ広いのはいいが、バスルームが正直古いだけじゃなくて汚い。いくらなんでもこの値段でこれはあんまりだ。しかも前使った人のトイレが流しきれてないし。感じ悪い。しかもドアの鍵が閉められない。こらー!
さすがに我慢がならなかったので、フロントに言って部屋を交換。今度はえらくコンパクトな部屋だなあ。これで同じ料金か。相変わらずバスルームは古いだけじゃなくて汚いし。なんでか天井はやけに高いし。この古さ、共産党時代からあるのは明らかだけど、この手入れ具合と格で54万レイを取られるのは……。田舎の都市は、ホテルの需要が少ない分、高いのか?
他のホテルに移りたかったが、もう疲れきっていて、気力が残っていない。寝るだけだし、もうここでいいや。
旅装を解き、何より空腹がきつかったので、下におりる。フロントに尋ねたところ、食事にはここから歩いて五分ほどのところにある、チャイナタウンに行くしかないらしい。というか、チャイナタウンがあるなら、もうちょっと安い宿もありそうだな。ともあれ、お腹が空いた。考えたら、今日は朝の2000レイのパンと、サルバでもらったチョコレート以外、口にしてないもんな。仕方ない。夜遅いけど、開いてたらラッキーということでチャイナタウンに行ってみよう。
鍵を預けて外に出ようとしていたら、フロントの兄ちゃんに呼び止められた。ホテルのレストランはもう閉まっているが、特別に何か出してくれるそうだ。
出されたのはパンとサルマーレとビール。正直このホテルにいい印象を持っていなかったが、このサルマーレは今まで食べた中で一番おいしかった! しかも、この食事は全て無料。もしかして、まかないを分けてくれたのかな? なにはともあれありがたい。
ついでにフロントでマラムレシュ地方の地図を15,000レイで売っていたので買おうとしたら、財布の中に13,500レイしかなかった。あちゃあ。財布の中を見せて苦笑い。諦めて部屋に戻ろうとしたら、フロントの兄ちゃんが13,000レイにまけてくれた。施設はともかく、この人は親切だな。タダでごはんを食べさせてくれるし、地図はまけてくれるし。
この兄ちゃんによると、ヴィシェウで長時間停まってパスポートチェックをしたのは、ウクライナとは関係なく、マラムレシュ地方に入るためのチェックだそうだ。だから逆方向の列車は早かったんだ。別に自治州とかではなかったと思うけど、いろいろあるんだなあ。
ホテルの部屋も、40万レイくらいならこんなもんかと思えるんだけどなあ。しかし、マラムレシュ地方の中心でこれってことは、地方の村にプライベートルーム、存在してるんだろうか。どこかの村で泊まりたいんだけどなあ。
部屋に戻り、寝る前にシャワーを浴びようとしたら、なかなかお湯が出てこなくて往生した。それでなくてもなんか鉄臭いというか薬臭い水だし。しかも、12時を過ぎたらぴたりと止まった。聞いてないぞ。おかげで歯を磨けなかったよ。変に都会だと思ってたのがまずかったんだな。少なくともシゲット・マルマッティエイはそういう所なんだと認識することにしよう。
ベッドに横になりながら、ここTISAホテルのパンフレットを眺めていたら、ここは二つ星らしい。えええ? ガイドブックには一つ星とあったのに、ランクアップしたのか。……なんで? 二つ星ならこの値段は分かるけど、この設備で二つ星を名乗るのは納得できない。全く、一泊4ドルのホテルに泊まったら「贅沢者ー」と言われていたカンボジアが懐かしいよ。
ルーマニア 10月18日(金) シゲット・マルマッティエ → サプンツァ → シゲット・マルマッティエ
●シゲットの朝
9時半に、どうにか目が覚めた。
宿泊代に含まれている朝食を摂りにレストランへ。……まさか、オムレツができるまで30分も待たされるとは思わなかった……。正直、食事抜きでいいからもっと安くして欲しいよ。
そろそろ洗濯物をなんとかしたくなってきたが、トレーナーを室内干ししてもこの気温だと乾かないよなあ。ランドリーサービスしかないか。フロントに尋ねてみる。やってなかった。頼みたければダウンタウンに行くしかないらしい。それはどこにあるんだと尋ねると、タクシーを呼ぶから25,000レイで行って来いとのこと。なんで洗濯ごときでタクシーに乗らなならんのか。今朝のフロントはなんか頭ごなしだ。
色々話した結果、ルームメーク係の人が特別に洗ってくれるということで話がついた。そこで料金を事前に確認しようと手持ちの13万レイを見せたら、有無を言わさず全額取られてしまった。大失態だ……性質悪いのに関わっちゃったなあ……。最近人の好意に浴しすぎて、警戒心が薄れていたようだ。気を入れ直さないといけない。
それにしても、このホテルTISAはやっぱりおかしい。長居してはいけないと強く感じる。今後の動きを考えるとどうしてもこの町にあと一泊はしなくてはならないし、宿を移る暇もないから今夜だけは我慢しないといけないんだけど。
腹立たしい気持ちを抑えつつ、外へ。……ここでは日本人がそんなに人気なのか。ただ歩いているだけで、次々と「ハイ」と声をかけて近寄ってくる。
ともあれ今日の目的地はここシゲット・マルマッティエイにはない。調べておいたバス停を目指して歩いていく。聞いたとおり、町の西の方、病院の側にやや大きめのバスのりばはあった。その辺の人に確認するが、ここで間違いないようだ。バス待ちの列に並ぶ。
バスを待っているうちにインド人の物売りがやって来た。目ざとく僕を見つけ、話しかけてくる。
「同じアジア人だから、このドライバーを買うか金をくれ」
なんだ、その無茶苦茶な論理展開は。
次いで物乞いがやって来て、片言の日本語で話しかけてきた。
「アナタ、クダサイ。ペン、Made in Japan」
そんなに多くいるとも思えない日本人用に言葉を覚えたことに敬意を表し、手持ちの余っているペンをあげた。Made in Indiaだけど。
とかしていると、バスがやって来た。目的地までは2万レイらしい。オッケー。だが、ここで雨が降ってきた。さっきまで晴れてたのに、大丈夫かなあ。
●サプンツァへ
今日の目的地は、シゲット・マルマッティエイから西に行ったところにある村、サプンツァ。ルーマニア政府の観光案内にも載っている『陽気な墓』があるところだ。バスの所要時間は20分らしい。
例によって、バスの中では同乗したおっちゃんやおばちゃんが何くれとなく気にかけてくれるので不安はない。バスはウクライナとの国境になっている川の南岸を、快調に飛ばしていく。
ほどなく到着したサプンツァは、村は村だけど、結構大きい村のようだった。やはり有名な観光スポットらしく、案内が出ている。幹線道路から300メートルほど入った教会の敷地に、目指す墓があるらしい。それにしても「陽気な墓」ってすごいネーミングだよなあ。
●『陽気な墓』
教会にたどり着くと、ちょうど小学生の集団がバスで見学に来ていた。入場料2万レイ。
教会の敷地に足を踏み入れると、中にはびっしりと『陽気な墓』が林立していた。普通の墓標もあるが、ほとんど姿を消しかけている。
でもこれ、もう新しいお墓を建てるスペースがほとんどないような……。
『陽気な墓』はその名の通り、落ち着いた中にも華やかな墓標にほのぼのとしたタッチで、その人の生前が描かれている。絵の下には文字もあるが、読めなくても絵で大体分かる。機織り、農夫、羊飼い、神父、教師、解体屋、散髪屋、酒好き、車好き、良き妻、等々……。表裏共に絵が描いてあるものもある。古いものになると、はげてしまって消えかけていたりもする。
だが、じっくりと見ていくと、そういうほのぼのとしたものばかりではないことが分かってきた。ただ人の姿が描かれているだけで、なんだろうと思って裏を見ると、車に轢かれて死んだことが分かったり、乳幼児のうちに死んだり、工作機械の爆発に巻き込まれたり、酷いのになると強盗に襲われて首を切られてたり……。交通事故死なんて五・六人はいたと思う。中には農場にいる故人をイエスが鞭打っているのもあった。意味深だ。
当然だが、いくら『陽気』といってもここは墓地。決して人の命、死というものが軽く扱われているわけではない。人の生とその終焉について、いろいろと思いを巡らせてしまう。
この村の人とか、これについてどう思ってるんだろう。形状的に土葬のように思うんだけど、静かに眠らせて欲しいと思ったりしないのだろうか。
1935年に『陽気な墓』を始めた人の墓もあった。そう、この風習は始まってから一世紀も経っていない。
小学生を引率している先生が簡単な英語を話せたので少し話す。
「一人旅なのか、ルーマニアはどうだ」
といういつもの会話だったけど、後でその先生、
「外人と話せるんだ。すげー!」
とばかりに子供達に囲まれていたのが微笑ましかった。日本と同じ光景だ。
小学生達が帰った後も、じっくりと見学を続ける。教会裏の空き地に新しい墓が作られていた。これからの墓所として使われるんだな。
一人になってから少しして、雨と風が激しくなってきた。もう完全に本降りだ。靴やジャケットの中にまで水が沁みこんで冷たくなってきたが、サプンツァにはもう来れないだろうから、頑張って見続ける。風邪を引かなければいいんだけど。
途中、教会の中からこっちを見ている神父さんと目が合って手招きされたので、しばらく軒下に雨宿りさせてもらう。この人も英語が話せたので色々と話を聞かせてもらった。
ようやく見終えて外に出る時には入り口の受付は閉まっていた。有名な割には普通の、素朴な感じの教会だったなあ。
●『陽気な墓』製作所兼博物館
雨はさらに激しさを増し、大雨になってきた。でも、神父さんの話によると、ここから奥に300メートルほど行った所に『陽気な墓』関係の博物館があるらしいので、折角だからと足を向ける。幅はあっても未舗装の道路は、この雨でぬかるみきって足の踏み場もなく、道の外、溝の外側を通るしかなかった。やがて、行く手に看板はないが、『陽気な墓』と同じものが壁や塀の素材に使われている家が現れた。ここだな。
中に入って声をかける。ちょうど納屋のような作業場で、おっちゃんと兄ちゃんが新しい『陽気な墓』を作っているところだった。もしかしてここ、博物館というより、『陽気な墓』の製作所なのか? 手を止めて相手してくれたおっちゃんに尋ねると、その通りだった。確かにここは現在進行形だもんなあ。
話を聞くと、このおっちゃんが『陽気な墓』職人の二代目だった。1万レイを払って中(と言っても二部屋だけだが)を見せてもらう。聖書の場面を抜き出したものや、ハンドボールの一場面など、色んなものを作っている。お墓だけじゃなく、椅子とかもあった。墓標屋というよりも木工職人なんだな。
僕が日本人だと知ると、クロークの中から写真家『みや・こうせい』氏のマラムレシュの写真集と、1965年にここを訪れた時のメッセージを見せてもらった。その人は知らなかったなあ。写真集を見ると、当時はまだまだ民族衣装が日常生活の中に存在していたことが分かる。十分に堪能したので、最後に作業中の写真を撮らせてもらい、辞去。ありがとうございました。
●サプンツァの村中にて
ぬかるんでなければ、かなり雰囲気のいい村道だ。特に黄葉がきれいで、歩いていて楽しい。日本人が珍しいのか、注目されているのを強く感じる。途中、彼方に木製の高い尖塔が見えたので眺めていると、通りかかったおばちゃんが「モネストリィ」と教えてくれた。あの尖塔は見事だなあ。ここでも言葉が通じないのは承知の上で、よく声をかけられた。人とのふれあいが旅を楽しくしてくれる。
教会まで戻ってきた時、雨がまた激しくなってきたので、近くの売店で雨宿り。ここで首に巻くアクセサリーがきれいだったので、つい衝動的に買ってしまった。自分には縁のない品なのに。しかも32センチと僕の首に巻くには根本的に長さが足りないし。確かに綺麗なんだけど、使い道がないなあ。
買い物ついでにシゲット・マルマッティエイ行きのバスの時間を尋ねると、店のおばちゃんがきっぱりと一言、
「マシン」
と。
『バスなんかに乗らなくても、車を捕まえて乗って行けばいいじゃない』
ってことらしい。そして、ちょうどその時店に入ってきた材木トラックの運ちゃんに、僕をシゲットまで送ってくれるよう、話をつけてくれた。……僕はバスの時間を尋ねたっきり、一言も喋ってないんですが……。いかにもルーマニアのおばちゃんらしい親切だ。ありがとう。
●東へ
ということで原木運び出し用のごついトラックの助手席に乗り込み、発車。が、サプンツァを出てすぐにエンジントラブルで停まってしまい、雨の中で修理を手伝う。で、どうにか再出発。
シゲット・マルマッティエイ方面を目指して東進するトラックの中から、見晴らしのいい時には左手、北方はるかに町が見えた。ウクライナの町だ。ティサTISA川が国境で、この道はその川沿いを走っているからよく見える。ここの人達にはこの風景が日常なわけだ。
国境といってもどちら側も同じマラムレシュ地方だし、両国の関係もいいのだろう、緊張感とかは全くない。それにしても、このマラムレシュ盆地はそんなに広いわけでもないのに、わざわざ真ん中で国境を分けるってのは、当時の政治的駆け引きの結果なんだろうな。
●シゲット散策
とかなんとかしているうちに14時50分、シゲット・マルマッティエイ到着。まず運ちゃんが道すがら、
「俺もよく使うが、あそこはいいぞ!」
と勧めてくれたモーテル、パーラPerlaがすぐそばなので、覗いてみる。確かに綺麗でいい感じだけど、一泊80万レイは痛いなあ。残念だけど今回はちょっと泊まれないや。三ツ星か。なるほど。
その後、まだ明るいのでシゲットの町を歩く。本屋を見つけたので地図を買い、遅めの昼食。その時たまたま目の前にあったので、マラムレシュ博物館に行ってみることにした。
ここもまた、スチャバで入った博物館のように、うっかりすると見落としてしまうような分かりにくいところにある。というか、スタッフの姉ちゃんが
「ミュージアム」
と声をかけてくれたから分かったけど、そうでなければ気付かずに素通りしてたよ。入館料は一万レイ。安いなあ。ここも明りは点いてなくて、僕が展示室に入るたびにスタッフの姉ちゃんが点灯し、出たら消すパターンだった。が、展示内容は結構本格的で、見応えがあった。特に木製の生活道具はいずれも使い込まれた光沢があって、説得力があった。実際に触らせてももらえたし。民族衣装でも獣の被り物などがあって、非常に興味深かった。キリスト教化以前のものが残ったのかな。木の門とかの大物の展示もあり、なかなか楽しめた。
土産に、本来のマラムレシュ地方の地図を買う。3万レイ。地図好きだから、こういうのはついつい買ってしまうなあ。
外に出て、あとは食事にパンでも買ってホテルに戻ろうと考えていると、一人の兄ちゃんが声をかけてきた。よくあることだと無視していると、憤慨した様子でそばに来て、
「お前の服を洗濯したのは俺だぞ!」
と。いや、そんなこと言われても。洗濯はもう済ませたという彼は
「今夜ディスコに行こう」
と誘ってきた。なんで? 好きじゃないので断ると、
「Why?」
興味ないから。そりゃあ君は洗濯だけで13万レイもせしめて気分がいいだろうが、こっちはその分気分が悪いんだよ。その上雨に濡れて空腹で疲れてて、とてもそんな気分じゃない。
彼と別れ、食事を求めてマガジンを探していると、小学生くらいの女の子が二人、好奇心に目を輝かせて寄って来た。本当に人懐っこい民族だなあ。彼女達がはじめはルーマニア語、次いでフランス語で話してくるが、申し訳ないけど分からない。
「イングリーザ?」
と聞いてみると
「ハウアーユー?」
と言ってきたので形通りに
「ファイン、サンキュー。アンドユー?」
と答えてあげたが、それ以上続かなかった。結局いつも通り、ガイドブックを指差したり、ジェスチャーでのたどたどしいコミュニケーション。なぜだろう、言葉はほとんど通じないのに、さっきの兄ちゃんと違って話してて楽しい。
彼女達と別れ、雑貨屋を見つけたので入る。パンとジュース、ソーセージ、マーガリンで65,000レイ。7万レイ渡したら、お釣りがなかったのか面倒くさいのか、荷物を袋に詰めて、これで勘弁してくれと。仕方ないなあ。まあ、ちょうど袋は欲しかったし、いいや。
●シゲット・アット・ナイト
宿に戻り、濡れた服を乾かしながら今日撮った写真を整理し、買った地図を見つつ日記を書く。うーん、どうもシゲットでは具合のいい安ホテルはないようだ。あるかどうか分からないプライベートルームにかけてみるか? 外では断続的に強い雨が、ごおっと風を巻きつつ降り続いている。明日もこんな天気なら、それこそ身動きが取れないぞ。買い物もしたいんだがなあ。
戻ってきた洗濯物、確かにちゃんと洗ってはいたけど、思い切り生乾きだ。これなら自分で洗って室内干ししてても大差なかったぞ……畜生。
気がつけば19時になっていたので、下に降りて夕食。ここのウェイターの兄ちゃん、「俺は英語が話せるんだ」という自尊心が強すぎて、柔軟性に欠けるなあ。ワインなんて誰も頼んでないぞ。しかも一本丸々ってなんだ。納得できない働きなのに、チップは当然として全額要求するし。やっぱチップ制度はなじめないなあ。
食後の一服に外に出たら、洗濯の兄ちゃんにつかまってしまった。しつこくディスコに誘ってくる。そんなことよりまず、仕事をきっちりやれよ。分かったよ、これも話の種だ、おごりなら付き合うよ。どうせ今日の13万レイから出すんだろうし。けど、しつこく誘ってくるガールやドラッグは断じていらんからな。
夜の10時半に店が開くらしく、それまで暇なので駅へ行く。やはりミニホテルは閉まってるなあ。駅舎内には時刻表も何も貼ってないし。状況を打開できる情報が得られない。うー、困った。
……なんか眠くなってきたので、やっぱりディスコはパスして部屋に戻ろうかと思いながら歩いていたら、路上でまたしても洗濯の兄ちゃんにつかまったので、諦めてついて行く。ディスコなんて初めてだし、まあ経験にはなったよ。暗い中に色とりどりの照明が乱舞し、タバコ、酒、音楽に踊り。まあ大体想像してた通りだ。自分には合わないや。おやすみ。
ルーマニア 10月19日(土) シゲット・マルマッティエ → ブルサナ → グロード
● I AM BAD MAN.
9時半に目が覚める。のそのそと11時までかけて身の回りを整え、全荷物を抱えてチェックアウト。
今日は世界遺産にも登録されている、マラムレシュの木造教会をいくつか見に行く予定だが、正直地方の小村だ。ホテルやプライベートルームがあるか分からないけど、チャレンジしてみよう。もうこれ以上ホテルTISAには居たくないし。自分を追い込むため、あえて出発を遅らせる。チェックアウトしてもすぐにはバスステーションに向かわず、ネットカフェでわざわざ日本語環境をダウンロードしてからメールチェックしたり。で、気がつけば午後2時。よし。
バスセンター(アウトガーラ)に向かう。この地方には世界遺産登録されている木造教会だけでも八つあり、しかもそれがマラムレシュ盆地内に散在している。もちろんそれ以外にも村ごとに教会はある。どこに向かってもいいのだが、どこにしようかな。
とりあえず、スチャバで会ったラドゥが薦めていたイザ川沿いに進んでみることにする。まずはイザ川沿いで一番近い世界遺産の教会がある村、ブルサナBarsanaに行ってみよう。バスの便がなければ便のあるところに変更するけど。選択肢はたくさんある。
が、アウトガーラではバスはたくさん停車しているが、時刻表も待合室も見当たらない。三々五々、それぞれが目的のバス停の前で待っているだけだ。仕方ない、片っ端から尋ねて回ろうと思っていたら、ここでたむろしている物乞いだろう、兄ちゃんが声をかけてきた。
「バイアマーレ?」
違う違う。僕はまだマラムレシュを見終えてないから、次の地方には行かないよ。
「ブルサナ」
すると何も言ってないのに、彼はブルサナ行きのバスを探してきた。あと10分で発車するらしい。と、その兄ちゃん、
「あんた、TISAホテルに泊まってただろう。昨日、一万レイのパンを買ってただろう。俺には四人の兄弟がいて、両親はいない。昨日は何も食ってないんだ。こんな俺に一万レイくれ」
いやあんた、そんなこと言いながらスナックの袋を手にしてボリボリ食べてたら説得力ゼロなんだけど。
「俺がいなければこのバスは分からなかったろう」
そんなことはない。というか、旅の素人相手じゃないとその手は通じないよ。
「なんでくれないんだ。お前はBAD MANだ」
「Yes,I am bad man」
その通りさ。自分がGOOD MANじゃないことなんてとっくに知ってるよ。
しれっとしていたら、笑って去って行った。この国の物乞いはしつこくないんだよな。まあ僕も、TISAホテルであれだけボられたりして嫌な気分になってなかったら、そして兄ちゃんがお菓子をボリボリ食べてなかったら、それくらいあげてたかもしれないけど。
●ブルサナ修道院
そんなこんなでバスは発車した。シゲットから南東のブルサナまで2万レイ。
乗客ははじめは数人だったが、町外れのアウトガーラからシゲットの中心部に行くと、一気に6割ほどの乗車率になった。ブルサナまではせいぜい20キロほどだから、そんなに遠い、というほどでもない。郊外をしばらく走り、ほどなくブルサナに着いた。
っておい、ブルサナはそれなりに大きい町だけど、通り過ぎかけてるぞ。大丈夫なのか? とキョロキョロ見回しながら心配していたら、それに気付いた運ちゃんが笑顔で振り返り、
「分かってる。心配するな」
と。かたじけない。
町の外れ、南東の端に、めざすブルサナの木造教会はあった。教会というより修道院って感じだな。写真にあった通り、やたらと高い尖塔がある教会だ。青空をバックに紅葉した山と木造の教会が映えて、かなりいい感じだ。
今夜の宿も何も決まってないので、重くて嵩張るが、大リュックを背負ったまま教会への坂道を上っていく。モネストリィは幹線道路からさらに坂を上った丘の上にある。
ちょうど教会を見終えた夫婦が降りてきていて、僕と目が合うと奥さんがカメラを取り出し、こっちに向けてシャッターを切った。僕なんか撮って面白いのかなあ。いかにもなバックパッカースタイルのアジア人は、ここでは希少なのかな。
例によって、入り口には受付が……と思っていたら、土産物売り場だった。チケット売り場は……閉まってるよ。勝手に入っていいのかな? 首をひねっていると、通りかかった修道女さんが教えてくれた。
「入場は無料だけど、写真撮影は禁止よ」
分かりました。
中に入る。一歩踏み入れて、衝撃に足が止まった。うわあ……すごく綺麗だ。これほどまでのものだとは。横にいる修道女さんに
「ビューティフル」
と言うと、修道女さんがルーマニア語で美しいは「フルモース」だと教えてくれた。うん、フルモースだ。
歴史を感じさせる教会その他の木造の建築物、敷地内の空間には見事に手入れされた芝生と石畳。背後には紅葉に燃える山。目に入る全てが、見事なまでに調和している。正直、こんなに美しいとは思ってなかった。フルモースだ。
ほうっとした心持ちで教会内を見てまわっていると、他の見学者(ルーマニア人)に話しかけられた。やはりアジア人は珍しいんだな。ってこの人達、教会の中で写真ばんばん撮ってるよ。いいのか? その様子を見ながら、修道女さん達が平然と通り過ぎていったし。確かに撮りたくなる眺めだけど、僕は禁止と言われてるんだからやめておこう。
そんなこんなでじっくりと見学し、外へ。
●気ままな旅をしている
坂を下った時、ちょうど小学生の見学バスがやって来た。それも2台。昨日サプンツァにもいたし、そういう時期なのかな。ちょうどいいタイミングだったんだ。大騒ぎしながら中に入っていく小学生達を見送ってから、これからどうしようか考える。
今は午後4時前だけど、このままブルサナに宿を取るか、思い切ってもう少し先まで進むか。と考えていると、向かいの家の中からこっちを見て笑っている女の子と目が合った。この子確か、ここに着いた時もいたっけ。目が合ってもにこにこと笑い続けているので、近寄って声をかける。そこに自転車に乗った男の子もやって来た。友達か兄妹か。やはり英語は99%通じないが、それでもなんとかコミュニケーションしていく。
なんとかこの近くに宿はあるか、という意思を伝えることは出来た。二人してああでもない、こうでもないと相談してくれる。うう、すまないねえ。
ルーマニア語なのでよく分からないが、どうやらブルサナの町中にあったはずだ、モネストリーで泊まれたはずだ、とか話しているようだ。そこにまた別の女の子の友達が登場。この子はちょっぴり英語が話せるので、意思の疎通度が向上した。
この子達とあれこれと相談した結果、このまま奥へ一キロほど進んだところにある、イザ(イーザ)川とスラティオアラ川の合流地点のルーム
フォア レント(CASA)を目指すことになった。彼女達に礼を言って歩きだす。ありがとう。
修道院が町の外れだったので、歩き出すとすぐに山の中だ。谷が少し切り立ち、道と川しかなくなる。交通量の少ない道を、てくてくと歩いていく。川、山、紅葉、静けさ、素晴らしい。
しばらく歩き、目指す川の合流点に到着。
さて、ルーム フォア レントはどこかな。と地図を広げて周囲を見回すが、それらしき建物は見当たらない。首をひねっていると、通りがかった馬車のおっちゃんが教えてくれた。背後にあるよ、と。指差されたほうをよく見ると、確かに川向こうの木立の中に、建物がある。あれかあ。
……しかしここ、本気でこのCASA以外何もないぞ。山の中にぽつんとあるキャンプサイトみたいだ。雰囲気的にもちょっとためらってしまう。
合流地点で地図を広げたまま、ここに泊まろうか、それとも夜になってしまうが少々無理をしてでも別の村まで行こうかと考えていると、ブルサナ方向からやって来た乗用車が停まり、おっちゃんが降りてきた。
このおっちゃんが例によって、英語がからっきし。イタリア語なら少し出来るらしいけど、僕がイタリア語はお手上げだから意味がない。それでもお互いの数少ない共用できる単語を頼りに会話を続ける。こんな夕暮れに一人、山の中にいるアジア人旅行者を見て、放っておけなくなったらしい。
このおっちゃん、どうやらこのCASAはあまり良くない、と言っている、ような気が、する。が、お互いに通じる言葉がないのでそれ以上の会話が進まない。
おっちゃん、自分の家はここで合流しているイザ川の支流、スラティオアラ川の上流にあるグロードGLOD村にあり、そこになら英語とイタリア語を通訳してくれる友人がいるから来ないかと言ってきた。異邦人が珍しいからもっと話したいようだ。僕にしても気持ちよく泊まれるならどこでも構わない、というか山の中にぽつんとあるCASAよりも、普通のルーマニアの村で泊まれるならその方が嬉しい。このおっちゃんは大丈夫そうだし。親切に甘え、連れて行ってもらうことにした。
ここからグロード村までは約8キロ。間にはスラティオアラ村が一つあるだけの山中だ。
車はスラティオアラ川沿いの道に分け入った。この谷は狭く、道路も車一台がやっとの細さだ。しばらく進むと道路の舗装もなくなり、本当にこの先に村なんてあるのか、と思うような具合になってきた。道中、おっちゃんは通じないと分かっていながらもルーマニア語で陽気にがんがん話しかけてくる。こっちも出来る範囲で答える。
「グロード、フルモース(きれい)」
「フム」
「ジャポネ、フルモース?」
「ダー」
「コミュニズム、良くない。チャウシェスクの時は国が下向きだった。けど今は、少し上を向いてきた」
なるほどねえ。
とかしているうちにスラティオアラ村を通過。想像通りの小村だ。そしてさらに未舗装の山道を上りつめ、グロード村に到着。
●グロード村の稀人
グロード村は、山あいの狭い谷に家屋が密集していた。やはり日本の村とは形態から違うんだな。
小さい村だが子供が多い。やはり異邦人、それもアジア人が珍しいようで、皆がじーっと見つめてくる。そりゃあこういう観光地でもない一番奥の村に外国人が来ることなんて、まずないもんなあ。
ここまで連れてきてくれたおっちゃんの家は、この村でマガジンをやっていた。もちろん家族経営だ。ちなみにこのおっちゃんはシュテファンという名前だった。英語が分かるシュテファンの友人の家(木工所のようだ)に行き、その友人を交えて話す。宿を探していると言うと、
「次の町に行ってもいいが、どうせなら彼(シュテファン)の家に泊まることをお勧めするよ」
外人を泊めるのって、滞在届を提出する必要があるってガイドブックに載ってるけど、大丈夫なの?
「そんなルールあるのか? 知らないけど」
まあいいか、シュテファンにお世話になろう。せっかくの縁だし、この村に泊まれるものなら泊まりたいもんな。
マガジンに戻り、カフェをご馳走になりながらシュテファンの家族と成立しているんだかいないんだか分からない雑談。『地球の歩き方・中欧編』に載っている2ページのルーマニア語解説ぐらいでは全然足りない。
それにしてもシュテファン家のマガジン、家の門の中にあるけど、この立地で人は来るのか? と思っていたら、来るわ来るわ。しかも聞くと、22時まで開いているらしい。グロード唯一の店なんだろうけど、それにしてもえらく遅くまでするんだなあ。
グロード村にも世界遺産ではないが教会があるというので、せっかくだから見てみたいと言うと、わざわざ神父さんの奥さんを呼び出して、鍵を開けてくれた。ちなみにこの奥さんも英語を話せた。
ここの教会も、1700年建立の背の高い木造教会だ。明日は日曜なので、礼拝に人がたくさん来るそうだ。教会の内部も案内してもらい、色々と説明までしてもらった。突然の来訪者なのに、ありがとうございました。
●グロードの夜
夜になったので、シュテファンの家に入れてもらい、今夜泊まる部屋へ案内される。居間だね。
これは立派な……。部屋にコンセントがないこと、トイレが屋外にしかなく、シャワーもないってのがちと残念だけど、それを除けば何の不満もない。実に感じがいい家だ。あそこでシュテファンに出会えて、幸運だったなあ。
シュテファンの娘はラオラ(LAURA)、奥さんはイオアナ(IOANA)と言うらしい。何くれとなく話をするが、2ページぽっちの『歩き方』が頼りでは、なかなか話が進まなくてもどかしい。
シュテファンが、
「自分は明日、バイアマーレまでマガジンの仕入れに行くが、君はどうする?」
と聞いてくる。どうしようかな。マラムレシュを見尽くしたのなら一緒させてもらいたいところだけど、まだちょっと物足りないかなあ。
折角タイミングが合ったんだし、日曜朝の礼拝は見たい。この村の人が民族衣装を着るのかどうかは知らないけど。朝のお祈りは10時から? じゃあそれは見せてもらいます。問題はその後だな。このまま山道を辿って隣村のポイエニレ・イゼイに行き、そこからイエウド、ドラゴミレシュと行くプランが考えられるけど……。
シュテファンによると、その三つの村はそこまですごくきれいというわけではないらしい。逆に、ここからバイアマーレに行く途中のオクナ・シュガタグ町と、山の上にあるスタティウネア・モゴシャがきれいだという話だ。行くならそこまで乗せて行ってくれるようだし、それもいいなあ。うーん、迷う。でもやっぱり、言葉が通じないのにこれだけ気を使ってくれるシュテファンの好意に甘えまくるのも申し訳ないので、明日は隣村のポイエニレ・イゼイに行くことにしよう。
こうして話している間、娘のラオラちゃんはお父さんにべったりで、こちらをじいっと見つめていた。仲のいい家族だ。
とか話しているうちに、外はすっかり夜になっていた。19時になり、シュテファン一家の夕食に同席させてもらう。一般のルーマニアの食事に同席する機会があるとは思ってなかったので嬉しい。チョルバ、バターを練りこんだパン、チーズたっぷりのマカロニ(小さいレンコンみたいな形)、ガス入り水。ふう。色々と満たされました。ありがとう。
食後、まだ早いけど部屋に戻る。日記を書いていると、シュテファンとラオラが一人の兄ちゃんを連れてやって来た。その兄ちゃんも英語を話せる人で、数学教師のマリウスというらしい。僕は本当によっぽどの珍客なんだなあ。
マリウスがシュテファンの言葉を受け、
「何か欲しいものはないか、Are you OK?」
と。うん、コンセントとシャワーがない以外、問題ないよ。その二つにしたって残念ってだけで、不満じゃないし。それをシュテファンがマリウスに通訳してもらってうなずいている。その後もマリウスが次々と話してくる。
「日本語は難しいと思うよ。どうだ」
「日本の働き盛りの教師の月給はどれくらいだ? 2,500ユーロは下らない? 俺は90ドルだぞ」
「ルーマニアは好きか? でも今現在、この国は貧しくて良くない。しかし、ビューティフルピープルが大勢いるので、将来よくなってくれることを望んでいる」
「シュテファンはいい建築屋だ」
大工さんだったのか。
「俺やシュテファンが日本で働きたいと言ったら、日本のオフィシャルワーカーは入れてくれるのか? 日本の会社の労働契約を基にした就労ビザがいるはずだ? あんた、俺達を雇ってくれないか」
帰国後に職探しをしないといけない無職の人間に、無茶言わんで下さい。
等々、雑談に興じた。やはり英語だと、あらかた通じるなあ。
それにしてもシュテファンもマリウスも、日本のことに興味津々だ。
「この村にも過去、日本人は来たことがある。君が初めてではない」
この村のたたずまいからするとちょっと意外ではあるけど、隣村が世界遺産のポイエニレ・イゼイだもんなあ。そういや神父の奥さんにポイエニレ・イゼイのことで世界遺産と言っても通じなかったっけ。意識されてないのかな。
マリウスが
「日本はすごい。コンピューターもいいし、経済力もすごい」
と持ち上げてくれる。その後で現在の失業率の増加と不況のことを聞いて驚いていたけど。
「アメリカ人は日本人のインテリジェンスがいいから、あんまり好いてないんだろう?」
え。そりゃあ好いてない人はいるだろうけど、そこまでではないと思うんですが。
いつも思うけど、外国でその国の人と話すと、日本にいたままでは見えてこない日本が見えてくる。これまでの旅では、それがかなりの割合でポジティブな印象なのが嬉しい。
たっぷりと話し、夜も更けてきた。ラオラはとうに眠りこけている。シュテファンとマリウスも、堪能して辞去していった。
寝る前に、屋外のトイレに行く。程よい寒さで夜風が心地よい。夜空を見上げると、いい月夜だった。十八夜くらいか。シゲット・マルマッティエイ最初の夜のような星空とはいかないが、ウロコ雲が月の光を反射して美しい。フルモース。山奥の村なので余計な音を出すものがなく、静かだ。小川の流れと風が渡る音が聞こえる程度だ。今日ここに来られた幸運に感謝。
ああ、いい夜だ。
ルーマニア 10月20日(日) グロード → ポイエニレ・イゼイ
● グロード村の朝
9時間寝て、8時半に目が覚めた。よく寝た。
朝食まで時間があるようだったので、村の中を散歩に出かける。といっても小さな村なので歩けるところは限られているが、ニワトリが集団で眠っていたり、メインストリートと村の中を流れる川の幅が同じくらいだったりと、なかなか楽しい。
シュテファンの家の敷地は結構広く、家も三棟ある。都会でこれならお屋敷なんだろうな。入り口には堂々とした門があり、マガジンはこの中だ。こんなの、知らなかったら絶対分からない。
朝食は10時前に、シュテファン家でご馳走になる。パンと肉入りペーストに、目玉焼き、焼きサラミ、スープ(さくらんぼみたいな果物入りの、甘くて冷たいの)。満足しました、ありがとう。
10時20分、日曜朝の礼拝を見に、教会へ行く。シュテファンの家から歩いて数分。場所は昨日行っているからよく知っている。それにしてもこの地方の教会って、実に背が高いよなあ。
礼拝に来ている人に、あんまり若い人はいなかった。
神父さんって黒いシックな服を着ているものかと思っていたけど、全然違った。目が覚めるようなド派手な衣装の上に、さらに派手なケーブを着て現れたので、たまげてしまった。すごいや……。次々にやって来る礼拝者を迎え入れるように、変わった形のハンドベルを手に、もう一人いる聖歌を歌う人と交互に、聖書の文句だろう、朗々と詠い上げている。もちろん、何を言っているのか全く分からない。時折「マラムレシュ」と言っているのは分かるんだけど。
……それにしても長い。いつになったら終わるんだろう。気がつけば、11時を過ぎていた。参加者はとうに集まり終わったようで、神父さんは礼拝堂の前で説教したり聖句を述べたりし続けている。みんな十字を切ったり立ったり跪いたりしてるが、もちろん僕には何がなにやらさっぱり分からない。次第に場違いな気がして心苦しくなってきたので、途中で抜け出す。神父さんの写真、終わったら撮らせてもらおうと思ってたんだけど、これは無理だ。
シュテファンの家に戻る。ちなみにシュテファンの家はオーソドックスではないので教会には行ってない。キリスト教も宗派がいろいろあるんだよなあ。この場合のオーソドックスってのはルーマニア正教のことなのかな。1700年建立の教会で行われているんだし。
●山中行
シュテファンが、近くまでなら送ろうと申し出てきた。どうやら今日バイアマーレまで行くのは取りやめになったらしい。
イザ川沿いの隣村ストラムトゥラStramturaか、山を越えた向こうの隣村、ポイエニレ・イゼイPoienile
Izeiのどちらか。代金は10ユーロ≒30万レイだとか。ちなみに昨夜泊めてもらった宿代も30万レイ。正直ちと高い気がしないでもないが、ついでもないのに出してくれるんだし、もちろんここグロードにはバスもなにも通ってないし。数キロ程度だから歩いて行くつもりだったけど、せっかくだし、ポイエニレ・イゼイまでお願いします。
と、シュテファン、昨日乗せてくれたオペル・アストラではなく、オペルのアウトドア仕様の車を出してきた。ポイエニレ・イゼイまでは山道のダートだと言っていたが、せいぜい5キロくらいなのに、そんなに酷な道なのか?
実際に乗り出してみて、納得。
「距離は短いし、アスファルトの道なら5ユーロでいいんだが、この通りの道だから10ユーロなんだ」
理解できました。改めてグロード村がいかに奥にあったのかを痛感。ガタガタと、ゆっくりとしか進めない細い山道だが、その分景色は素晴らしい。思わず途中、車を止めてもらって写真を撮ってしまった。
●ポイエニレ・イゼイ
ガタガタと山道を進み、やがてポイエニレ・イゼイが眼下に見えてきた。素晴らしいパノラマだ。いっぺんで気に入ってしまった。ここ、いいよ。
シュテファンが
「カーサ・ツーリスティカ(旅人の宿)に行くか?」
と尋ねてきたが、まだそこまで決めていないので、ともあれ最大の見所、木造教会に行ってもらう。ポイエニレ・イゼイはグロードより大きい村で、古い木造教会では手狭なのだろう、丘の上にある木造教会とは小川を挟んだ反対側、村の外れに新しくて大きい、真っ白な教会が建てられている。もしかしたら、世界遺産に認定されたから保存のためかもしれないけど。
……うーん、この木造教会、正直グロードの教会と大差ないのでは。素人目には、これが世界遺産でグロードは違うってのもよく分からない。建てられたのも同じ1700年らしいし。
と、教会の前に停まっていた車の運ちゃんと話をしていたシュテファンが、
「今、ヒストリカルチャーチ(木造教会)はキナのグループが見に行ってる。台湾人だ」
と教えてくれた。台湾人の集団か、それは珍しい。
シュテファンと別れ、丘の中腹にある教会を目指して歩いていく。どうも台湾人の集団はテレビの取材のようで、大きなカメラがこちらを捉えている。おいおい、もしテレビなら勝手に撮るなよ。と、その台湾人が声をかけてきた。
「こんにちわー」
……え? 「ブーナズィア」と聞き違えたか?
「日本人の方ですか?」
うわ、間違いない、日本人だよ。こんな所で会うかぁ。
教会まで登りつめると、そこにいたのは案の定、日本のテレビの取材スタッフだった。またか。まさかモルドヴィッツァで会った人達って事はないだろうし、もしかして今、日本ではルーマニアが流行ってるのか?
ともあれ久しぶりの日本語なので、テレビクルーの人達とたわいのない雑談に興じる。しかしそこはさすがテレビ製作関係の人、質問してくる内容が違う。
「マラムレシュにはどれくらいいるんですか?」
「ここの魅力ってなんですか?」
等々。さすがというか。やがてその人達が帰っていき、一人で教会を見る。やっぱり背が高いなあ。中は完全に閉まっている。常時開放してるわけもないしなあ。グロードで同じようなのを見てきたからいいか。
村の中心らしい三叉路まで戻る。疲れたので道端に腰を下ろし、同じように日向ぼっこしているおばあさんたちと挨拶を交わしながら一服する。
さて、これからどうするか。日曜日だからバスはないだろうけど、ヒッチハイクできるような車くらい通らないかな。……さっきから、一台も車を見かけないけど。と、教会の礼拝が終わったのだろう、新しい教会から人々がわっと出てきた。同時にこの三叉路の脇ではマーケットが開かれるようで、衣類が並べられはじめた。
それにしてもここポイエニレ・イゼイでは、民族衣装を着た人が多い。日曜礼拝時の伝統なのかな。かわいかったので、何人かに声をかけて撮らせてもらった。これは来て正解だった。
と、大荷物を抱えた異邦人の僕の姿を認めて、何人か集まってきた。宿の勧誘だ。ということは、この村にはプライベートルームがあるのか。
だが、例によってみんなルーマニア語なので、何を言っているのか要領を得ない。でもルーマニアの人はそんなこと、全く気にしないんだよなあ。僕の感覚では、言葉が通じないと分かれば口数も少なくなりそうなもんだけど、こっちの人は大きな声で気持ちを込めれば通じるとでも思っているかのように、余計にぎやかになっていく。「うちに泊まりなよ」って言っているのは分かるんだけど。
今の今まで今日中に別の村に行くつもりだったけど、これはポイエニレ・イゼイを堪能しろってことなんだろう。泊まるか。
結局、一番強引に僕を引っ張っていったおばあちゃんについて行くことにした。連れて行かれた先は、家族で暮らしている普通の民家だった。
この家のお母さんが食事を出してくれたので、早速いただく。家庭料理のチョルバ、こってりしていて温まるなあ。値段は食事込みで一泊30万レイ。相場なんだな。家の子供が帰ってきた。あ、君、さっき写真を撮った女の子じゃないか。
昼食を終えると、お母さんとおばあちゃんが外に行こうと誘ってきた。何やら分からないままついて行くと、先ほどの三叉路から音楽が聞こえてくる。伝統的な民俗音楽だ。お母さんが「トラディション」と言っている。三叉路では、音楽に合わせて民族衣装に身を包んだ人達が踊っていた。これがここの日曜日の風習なのかな。
ん、踊りの輪の中に一人、格好も雰囲気も違う妙な人がいるぞ……テレビの撮影だ。て、ことはもしかして……やっぱりいた、三田佳子だ。
マラムレシュの木造教会なんて八つもあるのに、なんでよりによってピンポイントで再会するかなあ……勘弁してくれ。
さっきヒストリカルチャーチで会ったスタッフが僕を見つけ、会釈してくる。なんかボスっぽい人が近付いてきた。
「あれ、三田さんて分かりました?」
そりゃあ、五日前に教えられたとこですから、いくら芸能界に興味がない僕でも分かりますよ……。五日前は、名前しか知らなかったけど。
正直げんなりしたが、せっかく珍しいものを見ているんだからと気を取り直し、日本人を意識の外に追いやってお母さんやお婆さんと一緒に踊りを見続ける。中世から変わっていないだろう、こういう風習を見るのは得難い機会なんだし。
と、ADらしき人がやってきた。
「すいません、そこにいるとスタッフのように見えるんで、人垣から外れてもらえます?」
理屈は分かるけど、どいて当然みたいな口調だし、感じ悪いなあ。思わずムッとして
「ああ、そうですか。ならどいてますよ」
とややつっけんどんに言うと、相手は慌ててとりなすように、
「いや、せっかくなんですから一緒に見ましょうよ」
……。まあ、ここでへそを曲げても大人気ないので、大人しく一緒に日本人クルーのところに行く。と、ボスらしい人が
「すいませんね、やっぱ、顔がね、違いますから」
はいはい。
三叉路では、三田佳子が民族衣装を着た現地の人の輪に加わり、踊っていた。
少しして気付くと、宿のおばあちゃんが僕を手招きしている。これ幸いとそっちに行くと、背の高い男の人と引き合わされ、
「イングリーザ」
と。おお、英語が話せる人か。夫婦でいたが、旦那は英国人、奥さんはルーマニア人だそうだ。旦那の長期休暇でここに来てる由。
まだ三叉路での演舞は終わってないが、木造教会に行こうとおばあちゃんとその夫婦が誘ってきた。さっき行ったけど、場所を変えて気分転換するのもいいだろう。行きましょう。
途中でおばあちゃんが教会の管理人さんを呼んできて、鍵を開けて中に入れてくれた。関係者がいると大違いだなあ。英国人の旦那の言うことには、ここの中のペイントは赤を多用して地獄を表現していて、他の教会とは違うんだ、とのこと。確かにグロードの教会は普通にキリストとかだったなあ。ここでも中は写真撮影禁止だそうだ。残念。
「昔は撮れたが、今はルーマニア政府のおかしな政策で撮れないんだ」
と管理人さんが言っていた。
ルーマニア語−英語の通訳を、奥さんがしてくれる。助かるなあ。というか、いつの間にか英語なら普通に喋れるって扱いで旅してるぞ、僕。我ながら変わったもんだ。
ともかく中に入って見てみる。たしかにこれは地獄図だ。管理人さんがそれぞれの図柄を丁寧に説明してくれる。
「中絶した人が、悪魔に中絶した子供を食べさせられているところです」
「パンを不正に高い値で売った人は、体がパンのように膨れます」
等々。
「世界の最後の日と、再生です」
ううーむ。確かに地獄に類したものがメインだ。薄暗い屋内でこういうのを見ると、なんか怖くなってくる。
ここの記帳を見ると、日本人の名前は過去10年で6人だけだった。グループとしては3組。よくそんなところで、日本のテレビ局とかちあったものだ。えらい偶然だ。それにしてもここ、おばあちゃんと一緒に再訪して正解だったな。
英国人の旦那が
「ルーマニアはヨーロッパで一番美しい国だ。ハンガリーは平原だからあまり面白くない」
と言っている。ハンガリーは知らないけど、ルーマニアが美しい國だってのは同意見だ。
帰り道、墓地を見かけた。普通に十字架の墓碑が林立している。ううむ、やっぱりサプンツァの陽気な墓は独特なんだなあ。
また、谷間を護岸工事してもいた。いくら昔の伝統とたたずまいが残っているのが売りとはいえ、安全性は確保しないといけないもんな。
●ポイエニレ・イゼイ周辺逍遥
木造教会を見終えて戻ると、もう踊りは終わっていた。テレビ局の人達も撤収している。一度宿に戻り、ツイカをごちそうになったりしながら少し休んで元気を回復してから、グロード村との間の山道を戻ってみることにする。山上からのパノラマをもう一度見ておきたかったので。
そこへ向かう道すがら、村を抜けて行っていると、道行く人が次々に声をかけてくる。特に子供が素直になつっこい。
道でテニスと言うかラケットボールと言うかのまねごとをして遊んでいた男の子の集団につかまった。一人の子がラケットを手渡してきた。しぐさで
「仲間に入って。一緒に遊ぼう」
と言っている。よし。いっちょやりますか。こういう時は僕の不器用さが笑いを取るアクセントになる。
その後会った幼い姉弟は、すれ違った際に挨拶したら引き返してきて、言葉は分からないけど色々しゃべりながら、山道の途中まで一緒についてくるし。いいなあ、この村。子供が懐っこく、人々がフレンドリーな地は滞在していて楽しい。
その姉弟とも別れ、未舗装の山道をえっちらおっちら登っていく。
とうに村域を外れ、民家はなくなっている。周囲は見渡す限りの牧草地だ。だから見晴らしもよく、緑が目に心地いい。目指す地点に到着した。うん、このパノラマは目に快い。頑張って歩いた値打ちはある。いい眺めだ。ルーマニアの区切り、締めとしては最高の景色だろう。
ちょっとした動画です。眼下の集落がポイエニレ・イゼイです。
下に降りて村に戻ってきたところ、路上に何やらこの村に不似合いな、ゴージャスな最新式のベンツのバスが停まっている。もしかして……やっぱり。テレビ局のスタッフが出発準備をしていた。ここまで縁があるのか。せっかくだから、出発くらいは見送ってあげよう。物見高い村人も大勢集まってきてるし。
出発前と言っても時間には余裕があるらしく、僕を見かけると何人かのスタッフがやって来た。ので、彼らの出発の時間までだべる。僕が31歳だというと、後ろにいた若いスタッフが
「同い年ですね。僕も旅に出ないといけませんかね」
と同僚と話していた。別に出ないといけないことはないけど、出ると色々違うよー。僕も実際に出るまでこんなに違うとは思ってなかったし。言葉に限っても、この僕が、旅の間限定だろうけど、一応英語が話せる方に分類されるようになっちゃってるし。
ルーマニアを、英語とガイドブックのわずか2ページのルーマニア語だけを頼りに旅していると話すと、驚かれた。僕も十分じゃないのは分かってるけど、他にどうしようもないし。諸国を遍歴するバックパッカーなんて大体そんなもんですよ。
「日本を出て、どれくらいですか?」
「えーっと……な、七……」
「七日ですか。ずっとルーマニアを?」
「いえ、七ヶ月です」
また驚かれた。こういう普通の反応を日本人にされるのは、実に久しぶりだ。逆に考えれば、こういう「普通」の人がバックパッカーと話す機会ってのも、そうはないよなあ。
「柔道やってたんですか。それなら一人旅も怖くないですね」
僕も旅に出る前は少しはそう思ってたけど、あんまり関係ないと思う。そういう経験なしで、僕よりずっと大胆な旅をしてる人もいくらでもいるし。
「休職して旅に出てるんですか?」
「いえ、辞めてますよ」
また驚かれた。なんか驚かれてばっかりだな……。
なんでもこの人達は、テレビ東京系のスタッフで、正月番組の取材に来ているそうだ。正月には帰国している予定だけど、テレビ東京系って実家では見れないんだよなあ。(というか、帰国してから調べたけど、そういう番組が本当に放送されたかどうか不明)
彼らはモルドヴァ(ブコヴィナ地方のことだな)、マラムレシュと取材していて、この後トランシルヴァニア(シギショアラ、ブラショフともう一つ)を回る予定らしい。そりゃあ行く先々で被るわけだ。
出発が近付いてきたようだ。スタッフが宿の人に別れの挨拶をしている。
「えーと、こういう時はなんて言うんだっけ。……ム、ムルツメスク?」
おいおい、それは「ありがとう」だよ。さようならは「ラ・レヴェデーレ」。一週間はルーマニアにいるんだから、それくらいは頼むよ。
いよいよバスにもエンジンがかかり、いよいよ出発だ。これで次に日本人に会うのはいつかなーなどと思いながらバスを見ていると、同じく見物していたルーマニア人のおっちゃんが、
「乗らなくていいのか? もう出るぞ」
と言ってきた。
「ノー。ヌー。TVスタッフ。ツーリスト」
と身振りつきで話し、なんとか分かってもらえたけど。そういや木造教会に行った時も、途中まで英国人夫婦にTVスタッフの一人だと思われてたっけ。まあ、こんな場所で偶然かち合うなんて普通はないことだし、無理もないよなあ。
三田佳子さんがバスの窓から顔を出して、現地の人に挨拶している。さすがは芸能人、綺麗な人だ。そして腰が低い。
バスが去ったので宿に戻ろうとしていると、まだテニスもどきをして遊んでいた子供達に再度誘われた。今日はもう予定はないので、今度は腰を据えて遊ぶ。なんか子供の数、増えてるし。
たっぷり遊び、子供達と別れて宿に向かっていたら、三叉路で今度はおばあちゃん達につかまった。言葉が分からなくても、僕を肴に会話が弾んでいるようだからまあいいか。
●夜の帳
とかやってようやく宿に帰りついたとたん、おばあちゃんに大声で何事かまくし立てられた。何を言っているのか全く分からないが、なんとか言葉の中に
「ロケティア」
という単語を聞き取り、僕の住所を書いて欲しいんだと理解する。ロケーションと同根の単語だろう。書きながら
「ポリツィア(ポリス)?」
と言うと、
「ダー」
との返事。外国人を泊める届出のためで間違いなさそうだ。
書き終えると今度はここの住所を書かされ、それを手渡された。これは? 娘のマリアナかレナのどちらかが
「フォトグラフィ」
と言ったのでようやく分かった。国に帰ったら今日撮った写真を送ってくれってことね。了解。
いや、だから言葉が通じないからって大声を張り上げないで、言葉を変えてみてくださいよ、おばあちゃん。全人類がルーマニア語を解するわけじゃないんですから。今度は
「クンドゥ マイビー ○○?」
と連呼してくる。分からないってば。またお穣ちゃんが
「クントゥ マイビー ポイエニレ・イゼイ?」
と言い直してくれた。クントゥは分からないけど、マイビーはメイビーかな? えーと、今度はいつ来るのか、あるいはいつまで居るのかってことかな? 宿泊なら一泊の予定だけど。
とかなんとか悪戦苦闘しながら話していると、まだ日はあるが夕食だと食堂に呼ばれた。呼ばれたのは僕一人だけだけど。
パン、フライドポテト、西洋漬物(名前は失念。なんかピクルスっぽかった)、ツイカ、水、牛乳、ヨーグルト。
お腹いっぱいだ。今はいいけど、これって食べ続けてたら年を取ってから太りそうな食事だなあ。ともあれ、ここまでの感謝を込めて、食後に折り紙を贈呈。マリアナとレナ、折鶴もいいけど、紙飛行機が一番のお気に入りらしく、作って飛ばすと大喜びだった。
娘さん達と遊びながら、明日の予定を考える。いい所だが、この村で見るべきものはもう見尽してしまった。沈没してみたいところだが、旅のタイムリミットを考えるとあんまり長居はできないし。
バスの時間を尋ねると、朝の五時に一本あるだけらしい。朝の五時? 人の懐っこさだけじゃなく、そんなとこまでラオス的だとは。なんてとこだ。そんな時間に起きだすのも申し訳ないなあ。と、奥さんが車を出してもいいと言ってくれた。ありがとうございます。
ここからなら、反対方向に行ってサーセルという町で鉄道に乗る手もあるが、そこからだとシゲット方面にもサルバ方面にも、夜の便しかないらしい。ならやはり、一度シゲット・マルマッティエイに戻るしかないか。それからバスでバイア・マーレかサトゥ・マーレ、あるいはオラデアまで動くのがベストだな。じゃあ車、よろしくお願いします。え、シゲットまで60万レイ? 高いけど仕方ないか。グロードからここまででも30万したんだし、タクシーと思えば。いや、幹線道路まで出たら他の村から来るバスがあるだろうから、そこまででいいよと言おうとしたけど、言葉が通じなかった……。
自分にあてがわれた部屋(ピアノや大きな荷物のある、普段は物置として使われてそうな部屋)に戻って休んでいると、おばあちゃんがやって来て暖炉の火を見てくれた。ありがとう。そしてまた、何事かまくし立ててきた。最後には単純な単語だけになったのでなんとか理解できた。
「ムイネ(明日)、マシン(車)、シゲット?」
「ダー」
「ムイネ、マシン、コスタ(いくら)?」
このレベルならなんとか理解できるよ。
この後、僕の言語理解力の足りなさと、ツイカで少し酔ってたせいで起きた勘違いが元で、お金のことでちょっとやりあってしまった。簡単に言うと、こっちは車代のつもりで出したお金が、額面を間違えて渡したために向こうはチップと取ってしまい、渡した渡してないの話になってしまった……。こういう時、言葉がまともに通じないと事態を収拾させるのが激しく困難なんだよなあ……。最終的にはお互いの誤解に気付き、なんとか収まったんだけど。家の人も最後には「お互い様だから」と言ってくれたけど、それにしても情けない。恥ずかしくて申し訳ない……。ただただ、猛省。
『人は、様々な過ち、誤解、誤謬などから、互いに迷惑をかけ、かけられて生きていくしかない。願わくば、それが取り返しのつく過ちでありますように』