ほろほろ旅日記2002 6/11-20
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カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月11日(火) プノンペン
直前まで行く気はなかったのだが、プノンペンに腰を落ち着けている以上、行っておくべきだと思い直し、キリングフィールドに行く事にした。場所的に一人で行くのはなんだったので、食堂の一角に窓口があるキャピトルのツアーに申し込む。
11時出発。参加者は3人。偶然にも、全員日本人。他の二人は昨日ベトナムから来たそうだ。ベトナムで日本語教師をしている女性のイトウさんと、大学を卒業して一年の予定で旅に出ているSくん。
ミニバンで走る事しばし、キリングフィールドは田園地帯のただ中にあった。敷地には芝生が敷かれ、一見のどかなように見えた。が、中に入ってみると、全くそんなことはなく、かつてポル・ポト派による大虐殺が行われたところだという事実が、圧倒的な迫力で迫ってきた。
中央に建てられた慰霊塔の真ん中には、透明なプラスチックの囲いの中に、9,000近くの頭蓋骨がそのまま積み上げられている。死者や死体に対する対応・認識は国や民族によって違うものだと改めて実感したが、それにしてもなんて数だ。
周囲は、虐殺があった跡を掘り起こし、そのままの状態で保存されている。ツアーのガイドが英語で話してくれる。プノンペンの町中から自力で歩かされてきた人達は、ここで殺されたのだと。銃は弾丸が高いのであまり使わず、斧やそのへんに生えている硬い木、鋸状の葉で首を切り落とす手法が主だった等。
殺されたのは知識階級を中心に、人口の1/3、200万人と言われている。途方もない話だ。想像力の限界を超えた話だが、その現場で聞くと、重さが違う。処刑場所の発掘は完了しておらず、周囲の地面のそこかしこから、処刑された人の衣服の切れ端や骨が顔を覗かせている。
言葉もなく、ただ手を合わせ、祈る事しかできなかった。
……ここは、トゥールスレーン刑務所博物館と同じく、プノンペンに来た以上は見ておくべき場所だと思った……。
トゥールスレーンを見た時と同じく、言いようのない重い気持ちのままミニバスに乗り込み、キャピトルに戻った。
戻って一息つき、気持ちを入れ替えて伊藤さんと近くの屋台で食事。麺料理1,000リエル、かき氷500リエル。外人相手の店とは値段の水準が違う。
一人でぶらっと歩きに出る。王宮方面へ歩いていき、独立記念塔を見た後、ガイドブックにあった本屋、モニュメントブックを見つけたので入る。冷房が効いていて涼しい。この国では本屋自体、ほとんど見かけないので貴重だ。クメール語人口も決して多くないし、教育水準がそこまで上がってないのかもしれないけど。ブティックみたいな店構えで、本の陳列数もあまり多くない。本も外国語の本の売り場面積のほうが大きかった。日本語の本も少しだけあった。
さて、前回は見なかった王宮とシルバー・パゴダ(銀寺)。入場料は3ドル、カメラ持込料は2ドル。アンコールとは規模が違うとはいえ安くはなかったが、それだけの価値はあったと思う。
立派なものだった。壮麗というか。カンボジアではアンコール遺跡ばかりが取り上げられるが、クメール文化はそれだけじゃないんだな。独特で精緻な建築物・仏像・壁画を感心しながら鑑賞する。こういうので圧倒されたのは久しぶりだ。バンコクでワット・ポーを見た時以来かも。
王宮は昔の住居も公開されていたが、伝統的なクメール風の宮殿の前に、こじんまりとはしているが、瀟洒なフランス建築の建物がセットで建てられていたのが植民地時代を彷彿とさせられた。
シルバーパゴダは拝殿? に入ると、銀色に敷き詰められた床、本尊はエメラルド仏。参りました。シルバーパゴダの庭に、完全な形でのアンコールワットのミニチュアが展示されていたのも興味深かった。
堪能して、外へ。小雨がぱらついているが、疲れたのですぐそばの川べりに出て休む。
南を見ればカジノ船が、北を見れば日本橋が、東を見ればクレーン車が中州で工事をしているのが、下を見れば奥様連が洗濯を、子供達が水遊びをしているのが見える。春と同じ風景だ。
閉館時刻が近づいていたが、せっかくここまで来たのだからと、王宮の北隣にある国立博物館にも足を踏み入れた。時間がなく、駆け足気味になってしまったが、それでも見応えがあり、様々な展示物を興味深く見てまわることが出来た。かつてカンボジア地域を中心としたクメール帝国が、タイ・ラオス・カンボジア・南ベトナム一帯を支配した大帝国だったことが実感できた。確かにそれくらいの規模と力を持ってないと、アンコール遺跡群や、ここの展示物のようなものを産み出す力は持てないよな。
博物館は閉まったが、まだまだ日が高いので、用事はないけど日本大使館を目指して歩き出す。と、とある寺院の横を通りかかったら、お坊さんが日本語で話しかけて来た。そういや、日本人が再建に協力した寺院がこのへんにあるんだっけ。雑談をちょっとした程度で別れたが、日本に対して凄く好意的なのが伝わってきた。旅をしていると、各地で尽力してきた日本の先人の凄さを実感する事が多い。素直に頭が下がる。
日本大使館のある場所にたどり着いて見ると、3月19日に移転した後だった。移転先は遠いようなのでもういいや。そこから北へ歩き、セントラルマーケットへ。まだ5時前だったが、大部分の店が閉めかけていた。このマーケット、5時までなのかな。
今日もよく歩いて疲れた、と食堂でへばっていると、今日のシェムリからの便で、アランヤプラテートとシェムリアップで会った日本人二人組みが来た。ルアンパバーンとシェムリアップで会った大島君も来た。風邪は治ったようだ。数日遅れて来るとは言っていたが、本当にカンボジアでは動いた先でも同じ人に会うなあ。観光ルートが大体決まってしまってるから当然といえば当然なんだけど。
夜、日本人男性3人で、昼に見つけていたサウナに行ってみる。が、入浴料が7ドルと高かったのでやめにした。メインストリートにある中華料理屋で餃子(1ドル)を食べて宿に戻る。
関係ないが、町を歩いていて屋台の散髪屋の兄ちゃんに「髪を切れ」と声をかけられた。そこまで伸びてきてるのか。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月12日(水) プノンペン
昨夜、寝付けなかった。疲れていたはずなのに。昔からままあるんだが、本当に難儀する。横になった0時から、少なくとも4時過ぎまでベッドの上を転がっていた。やっと眠れたと思ったら、6時過ぎに目が覚めるし。強引にもう一度寝ると、今度は昼前まで寝てしまった。なんというか、ものすごく時間を無駄に使った気分。
特に予定のない日でよかった。なんかだるいが、全く動かないのもなんなので、セントラルマーケットに行ってみる。この活気の中に多少の緊張感を持ちつつ身を浸すだけでも楽しい。改めて店をじっくり見てまわる。何軒かある本屋、英語の書物中心だなあ。異様に安いのは、コピー本だからなのだろうか。
なんか疲れたので、部屋に戻って昼寝。三時ごろ、猛烈な雨音で目が覚める。いつものスコールかと思ったら、3時間近くも降り続いた。自分は部屋で大人しくしていたから何の被害もなかったが、外に出ていた旅行者達は往生したらしい。特に市の南の方は、道が水没していたそうだ。トゥールスレーン刑務所博物館の辺りとか凄かったらしい。ビエンチャンでもあったけど、治水インフラの整備はまだまだこれからのようだ。
夜、いつものようにキャピトルの食堂で他の日本人客とだべる。今日はSくんと大島くん、大島くんの連れ。自分がシアヌークビルへ鉄道を使って行くつもりだと言うと、大島くんの連れ、吉村くん(大島くんは吉村隊長と呼んでいた。なぜ隊長なのかは不明)もそのつもりだと言う。大島くんは一般的なバスで行くつもりらしい。どうせなら吉村くんと同行したいところだが、彼等は昨日プノンペンに来たところなので、日程が合わず断念。自分はプノンペンの主だったところは大体見た気分になったので、沈没しかける前に動きたくなっているので。
可能なら明日に発ちたいが、今日の生活リズムがおかしかったので、きちんと早起きできるかどうか、不安だ。
関係ないが、キャピトル3のスタッフ、みんなニコニコと愛想いいなあ。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月13日(木) プノンペン
……懸念通り、朝、起きられなかった……。
次の列車は土曜の朝までない。カンボジアを再訪した最大の目的が列車に乗ることなので、バスで動くなんてのは考えられないし。というわけで、二日間の暇が出来てしまった。
気を取り直し、とりあえずセントラルマーケットへ。
建物の中では貴金属や時計、敷物などの高価な店が多く、周囲の露店は雑貨や衣服など、身近なものが多い。せっかくなので、ハンドタオルを200リエル(6円程)で一枚買う。
日本から持ってきた鞄、4月にはナップサックがいかれたが、大きい方のリュックサックも時間の問題になってきている。2ヶ月ほど旅しただけでへたれるような安物を使っていたわけではなく、学生時代から10年ほど使い続けていた物で、そろそろ限界が来ていたのだ。
そこでどんなものかと物色すると、中国製の70gの物が30ドルから交渉開始と言われたが、縫い目とかを見る限り、どうも貧弱で、ここから先の長旅に耐えられそうになかったので、パス。今のリュックも破れかけてはいるが、まだしばらくもつだろうし。バンコクに戻ってからか、その次のマレーシアはクアラルンプールに行ってから買えばいいや。しっかりしたものは、高くてもしっかりした店で買うべきだし。
次に、先日国際便を出しそびれたGPOへ向かう。途中、駅からトンレサップ川へと伸びる緑地帯を横切り、露店を見物しながらのんびりと。途中、レストラン脇で靴磨きをしている子供達に「靴を磨かせてくれ」と呼び止められた。自分は運動靴を履いているからいらないと言っても、「それでもいいから」と言ってくる。いかにも子供らしい冗談だ。
そして中央郵便局(GPO)。ガイドブックにはそう載っているが、本当にここが中央、つまりカンボジア郵便業務の中枢だとは思いにくいなあ。確かに裏手には国際業務部らしいものもあったけど。ともあれ日本への葉書をエアメールで出す。一通1,700リエル。まあそんなものだろう。
(余談だが、帰国してから聞いたところ、ここで出した郵便は日本には届かなかったらしい。半分覚悟してたからいいけどさ(^^;)
さて。
これで今日の用事は終わってしまった。このまま宿に帰っても暇なので、観光スポットというわけではないが、日本の援助で掛けられたという日本橋を見に行ってみる事にする。
少々離れており、バイタクを使うのが普通なのだろうが、歩いて行く。時間も体力もあることだし。途中、目についた建物をじっくり見物したり、路肩で物売りをしている女の子と言葉が通じないのに30分程だべったりしつつ、のんびりと向かう。
そして到着。4月、初めてベトナムからこの町に来た時に渡った橋が日本橋だ。その時も思ったが、脇に立っているマイルドセブンの看板がやたらと目を引く。車専用の橋なのかとも思ったが、よく見ると太くないながらも歩道がついていたので、渡ることにする。
橋が川の上に差し掛かろうとしたあたりで、万一に備えてだろう、軍人の詰め所があった。中では暇なのだろう、一人の当直がライフル銃片手にうつらうつらと舟を漕いでいた。それだけ平和になったということなのか。のどかだ。
もしかしたら警察官だったかもしれないが、制服の違いなんて知らないし、武装はものものしいしで、素人の部外者には判別できない。橋の上からの眺めを堪能し、橋の向こうも大都市とは言わないまでも、十分大都市近郊の郊外レベルはあることを確認して戻る。
東南アジアに来て、2ヶ月。正直お寺には飽きが来ていたのだが、他にガイドブックに載っているところには大体行ったので、ワット・ウナロムに行く。すると、日本語を話すお坊さんが出てきて、わざわざ相手をしてくれた。
今は改装中で、中には入れないとのことだったが、どうせほとんど観光客がいないからいいよと、本堂にも、建設中のストゥーパにも入れてもらい、拝ませてもらった。話を聞くと、この寺も例に漏れず、泥棒に入られる事が多いそうだ。賽銭から何から取られて困っているとのこと。命の危険は減っても、まだまだ先は長そうだ。
このお寺には42人のお坊さんがいるそうだ。王宮近くの学校で日本語を勉強しているが、この時期は日本人がほとんどいないので、勉強の機会が少ないらしい。途中で出会うお坊さんも、自分が日本人だと見ると、日本語で挨拶してきてくれる。なんかこそばゆいな。相手をしてくれたお坊さんは、ひらがななら自由自在に読み書きできた。これまで日本語を話す外国人には何人も会ったが、読み書きがひらがなだけとはいえ、完璧に出来る人は初めてだ。
うーむ、日本語教師って、なんだかんだ言って需要は多そうだな。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月14日(金) プノンペン
今夜はワールドカップの日本-チュニジア戦がある。ネットで見る限り、前回のロシア戦と違い、勝ち目は十分あるらしいが。
夜まで暇なので、ぶらぶらと散歩に出る。のんびりしたい気分だったので、王宮そばのトンレサップ川べりへ。……久しぶりに物乞いの子供にお金をあげた。どうやら自分は、少数の子供がニコニコしながら「お小遣い頂戴」と寄ってくるのに弱いようだ。
一時間余り居ると、日差しが辛くなってきた。この二ヶ月で皮膚は強い紫外線に適応したが、それとは別に、しんどいものはやっぱりしんどい。今まで通った事のない道を選んでキャピトルに戻る。
午後、キャピトルの食堂で気怠く過ごしていると、大島くんと吉村くんがやって来た。「サッカーくじをやりに行きませんか」とのお誘いだ。連日のワールドカップ中継で気分も盛り上がっているので、行ってみる。それぞれのカードのスコアを当てる方式。そうそう当たるもんじゃないが、まあ記念に。くじの販売所には、カンボジア人だけじゃなく、白人も結構いた。
そして夜。日本-チュニジア戦。日本、見事勝利でグループリーグ突破!
日本人同士で大いに盛り上がり、その勢いを駆って大島くん達とサウナに行く。先日、入浴料が7ドルと高いので断念した所だ。実際行ってみると、その値段に見合うだけの価値はあった。日頃シャワーばかりなので、サウナは気持ちよかったし。これで浴槽があれば言う事なしだったんだけど、日本じゃないのでさすがにそれは無理か。
サウナの後は、クーラーの効いた部屋で無料のドリンクを飲みつつ、リラックスチェアに転がってビデオムービーを鑑賞。こんなお大尽気分でくつろいでいいんだろうか。
客は自分達以外、ほとんど全ての人が中国人、というか華僑だった。なるほど。
四月に来た時、プノンペンに来つけている日本人旅行者が、今は昔に比べて相当安全になった。夜だって、一人で変な路地に入ったりしなければ、日付が変わるまでならまあ大丈夫だ、と言っていたが、確かにそんな印象を受けた。
さて、明日こそ起きて列車に乗らないと。今度はプノンペン観光を終えた吉村くんも一緒だ。カンボジアで鉄道に乗ろうという物好きが自分以外にもいるのは嬉しい。大島くんは、もう一日プノンペンを見てからバスで動く予定らしい。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月15日(土) プノンペン
頑張って5時台に起き出し、キャピトルの食堂前で吉村くんと合流。いざプノンペン駅へ!
……着いたのはいいけど、がらんと静まり返っている。人も列車もいない。気配さえない。え? 6時40分発で、今は6時20分だから、問題ないはずなんだけど。この辺の国では遅れるのは日常茶飯事だから、しばらく待ってみるけどさ。
7時半になった。相変わらす何の気配もない。いくらなんでもこれはおかしい。実はやっぱり潰れていたのか? このままでは訳が分からないまま鉄道を断念するしかなくなるので、誰かいないかと駅の中を二人で探し回る。吉村くんが窓口から必死に呼びかけて、ようやっとのことで駅員さんが一人、姿を現した。彼が聞いてくれたところによると、
列車が出るのは明日なんだと。
ダイヤは火・木・土だと思っていたが、火・木・日なんだそうだ。うわちゃあ。案内板を見ても分からなかったけど、クメール語でなら書いてあったのかな。道理で。というか、それでよく駅員さんがいてくれたものだ。
鉄道に乗る予定は変わらないので、ともあれこれでまた一日無為に過ごすしかなくなってしまった。吉村くんも同じ意見のようだ。仕方なく宿に取って返し、「さっきチェックアウトしたのにどうしたんだ」と驚くスタッフに苦笑いしつつ事情を話し、同じ部屋にもう一泊チェックイン。
一度、気持ちが完全に移動モードになってただけに、辛い。吉村くんと二人でキャピトルの食堂でうだっていると、大島くんが起きてきた。なぜかいる僕と吉村くんを見て目を丸くしている。そりゃそうだ。大島くんも明日シアヌークビルに行く予定なので、せっかくだから一緒に鉄道に乗らないかと誘いをかけてみた。橋が落ちてるかもしれないし、まともに最後まで走らないかもしれないし、そうでなくてもバスなら4時間弱で行くところを、一日それだけで潰れてしまうけど、そこが面白そうじゃないか、と。
今日は何もする気にならなくて、一日うだっていただけだった。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
6月16日(日) プノンペン → シアヌークビル(コンポンソム)
朝5時半、吉村くんと大島くん、三人で連って駅に行く。今日は列車ももいるし、人もいる。よしよし。窓口でシアヌークビルまでの切符を購入、12,000リエルなり。って、バスより高いぞ。まず間違いなく外国人料金だ。まあいいや。走ってても外国人は乗せてくれないって噂まで飛び交ってたくらいだから、乗れるだけでも幸せだ。
6時過ぎ、ホームにいる列車を見る。貨物車両と客車車両が一緒になっている、いわゆる貨客合同の編成だ。貨車2両、客車2両。客車の座席は既にあらかた埋まっている。仕方ないので他のカンボジア人と同じように、貨物車両の空きスペースに乗り込む。うーむ、小説やドラマでよくある、「貨物車両に乗る」ってこういう感じなんだ。外は見えないし、板一枚だけの床、その破れ目からは地面が見えるし、肥料か何かの匂いが染み付いてるし、家畜か何かになった気分。ともあれ後は発車を待つばかりだ。
と、近くにいたカンボジア人と言葉は通じないながら、身振りや日本語・英語で適当にコミュニケーションを取っていると、しきりに何か言われた。え、この列車はバッタボン行き? シアヌークビル行きはこの奥にある車両? 慌てて降り、教えられた方に向かう。あった。解り難いけど、確かにシアヌークビルと書いてある。教えてくれてありがとう。
というか、この列車、ホームに停車してないし。教えてもらわなきゃ分からないよ。タンク車5両、客車1両の編成だ。貨車がタンク車ってことは、そういう路線なのか。それはともかく、バッタボン行きよりさらに客車の扱いがぞんざいだなあ。車両自体、さらにボロいし。いや、こういうのが好きで、何か嬉しくなってきたのは否定しないけど。乗り込んでみると、こっちは思い切り座席に余裕がある。なので3人でそれぞれ別のコンパートメントに席を取った。多くもない客は、ほとんどが地元の人だ。まあ当然だな。外国人は、我々日本人三人と、白人グループが一つのみ。
あとは発車を待つばかりだ、と、ホームで車両を物珍しそうに見ている60絡みの日本人を見かけた。声を掛けてみると、当然というかこの人も列車が好きで、見に来ていたのだそうだ。乗ってみたいが暇が取れないとのこと。確かに短期旅行では難しいかも。
発車予定時刻は6時40分だが、当然、時間になっても発車する気配などない。6時47分、6時20分発車予定だった隣のバッタボン行き列車が発車。普通列車が発車するだけだが、なんとなく手を振って見送る。そんな気分。
それにしてもこっちはいつ発車するのだろうと思って前を見ると、そもそも牽引する機関車すら接続されてなかった。本当にこの列車は発車するのだろうかとも思ったが、現地の人も乗ってる以上、そのうち動くんだろうとのんびり構えることにした。こういうところでは、焦るだけ馬鹿馬鹿しい。
そして待つこと2時間半。9時8分、ようやく機関車がやって来た。十数両の貨車を引き連れて。まさかと思ったが、これがそのまま連結した。過疎ダイヤから考えるとありえないほどの長大編成になったような。客車車両は最後尾だ。貨物がメインで、客車は明らかにおまけだな。
9時26分、発車。約3時間の遅れ。よかよか。当然アナウンスなどはなく、合図は笛一つ。さすが、バスなら3時間半で行くところを10時間かかると言われているだけはある。動き出しても、ほとんど加速はなく、徐行より少し速い程度で落ち着いた。線路か路盤かその両方か、ともあれろくにメンテされてないせいで、大きく横揺れしつつ、のんびりと進んでいく。
発車してすぐ、車両基地だったらしいところの横を通る。古いSLや客車が野ざらしで置かれていて、その隙間に人が住んでいるようだ。そこを抜けると、住宅街の横を通る。タイとかでも見慣れたが、民家のすぐそばを通り、住民が列車を見ている。この速度ならあまり危なくないだろうけど。週3本ってことは、線路脇の住人にとってもそこそこ珍しい見世物なのだろうか。
発車してから一時間で、2つの駅に停まった。その後はプノンペンの都市圏を抜けたようで、滅多に停まらなくなったが。郊外に出ると、線路は恐ろしいほど真っ直ぐに引かれていた。が、状態は恐ろしいほど悪い。路盤はボコボコ、レールも歪み放題、レールの繋ぎ目は離れたり浮き上がったりしている。明らかに、保守点検はされていない。なので、揺れが凄まじい。これではスピードなんて出せるはずもない。出したらその瞬間、脱線事故を起こすだろう。さすがに人が歩くよりは速いが、走ったら十分ついていけそうだ。時速15km/hと言われているのもあながち嘘ではないと実感。というか、12,3km/h位しか出てないのではないか。
車両も凄い。座席が木のシートなのは別にいいんだけど、座席の木材は欠けているのが普通だし、木張りの床も、ほうぼうが破れて、隙間から地面が覗いている。窓にはガラスなんて上等なものは端からなく、風が出入り自由だ。車掌さんはいるが、駅近くで業務をする以外はハンモックで休んでいる。まあこれはこの車両、スピード、運行状況を考えると、仕事でこれに常時乗るのなら、そうでもしないともたないと思うけど。
列車は茫漠たる平野をゆっくりと進んでいく。途中の駅も、ホームなどあってなきが如しなところばかりだ。駅名標はあるのだが、クメール語表記なので、さっぱり分からない。走っていると、そこかしこに支線跡を見かける。昔は鉄道ももっと盛んだったんだろうなあ。
発車自体が3時間遅れているので、終点のシアヌークビルに日のあるうちに着くのは無理だろう。それでなくても10時間かかると言われているのに。まあ、確かにそういうのを期待して乗ったんだけど。存分に堪能しよう。雄大と言っていい広がりを持つ平野の中を往く列車。のんびりと流れる時間に身を任せ、旅する楽しさ。贅沢な一時だ。
午後三時半、スコールが来た。窓に何もないから、当然まるのまま吹きこんで来る。打つ手なしだ。風向きの関係でそこまで大惨事にはならなかったが、場合によっては傘を差さなければならなかったかも。……列車内で傘を差す必要があるって、どんなんだ。
夕方、列車が進路を西向きに変えたあたりで海沿いのクラヴァン山脈に近づいてきたようで、山が姿を見せてきた。中には奇岩といっていいような姿のものもある。ラオスのバンビエンが「ラオスの桂林」と言ってるくらいだし、ここも「カンボジアの桂林」とでも名付けて観光開発したら、人来そうだな。プノンペンからもあんまり遠くないし。
午後六時、夕闇が迫る中、大き目の駅に停車した。9時間走ってるんだし、いくらなんでも全行程の3/4程は来たかと思って車掌さんに駅名を聞くと、カンポット。って、せいぜい2/3やないか。
ホームになんか英語を叫んでいる兄ちゃんが居るなと思って見てみると、シアヌークビルからGHのピックアップバンが来ていた。予約なしでもいいそうだ。白人グループはさっさとそちらに乗り込んでいった。自分達はどうしようかと相談するが、せっかくだから自分は最後まで列車で行くことにした。大島くん達はバンで行くなら行ってもらい、宿を決めてそこで落ち合ってもいいと言ったのだが、結局彼等も列車を選び、三人で最後まで乗っていくことになった。
これがまあ。ある意味失敗、ある意味僥倖。思い出的には後者、その時の気分としては前者だった。この車両には窓に何もない事は先述したが、加えて電気はもちろん、何の灯りもなかった。そして列車はカンボジアの田舎、人家もまばらな荒野を進んでいく。集落が姿を見せる事自体、あまりない。当然、常夜灯などというものはお目にかかれない。 つまり、日が沈んだら、真の闇に包まれるわけだ。
それに気付いてから、日が沈んだらどうするのだろうと話していたのだが、どうもしなかった。暗くなるに任せるだけ。またこの闇が濃く、本当に何も見えない。それでもこれが普通なのだろう、少ない乗客は闇の中、大人しく列車に揺られている。車掌さんがたまに見回る時、懐中電灯をつけるのが唯一の灯りだ。これ、手荷物を掏られても分からないな。まあそれ以前に灯りなしでは自分の手すら見えない闇なんだし、フクロウ並みの視力でも持ってなきゃ何も出来ないんじゃなかろうか。危険なんだか安全なんだかよく分からん。
しかし、こんな暗中列車にも幸せはあった。大量の蛍の乱舞が見れたのだ。こんなに光の強い蛍なんて、初めて見た。ちょっとした電球くらいあったんじゃなかろうか。点滅もゆっくりで、実に見応えがあった。木に群がっている様なんて、まるでクリスマスツリーのようだった。これが見れただけでも、列車に乗り続けてよかったと思う。
シアヌークビルが近づいてきたあたりで、車窓風景が変わった。こう言っては失礼だが、これまでのカンボジアのイメージとかけ離れていた。普通に港町だ。オレンジ灯が明々と輝き、コンビナートが林立している。こんな所もあるんだ。
が、それはそれとして、実に時間がかかった。結局シアヌークビルの駅に到着したのは、日付すらとうに変わった17日の午前1時。発車してから15時間半、乗り込んでからだと18時間半。こんな列車、初めてだ。いくら列車好きとはいえ、さすがに参った。お腹も減った。考えてみたら、乗ってからこっち、食事も摂ってないし、トイレにも行ってない。
列車を降り、外に出る。こんな時間なのだから当然なのだが、駅前にはバイクタクシーなど一台もいない。加えてスコールまで降り出した。まさに弱り目に祟り目。とてもホテルを選んでる余裕なんてない。というか、駅は市街地から離れているので、まずホテルのあるところまで行かないと。どっちがホテルかもわからないけど。もはやヤケになり、三人で雨の中を濡れるに任せ、適当に歩きだす。
途中、こんな夜中にどうしたんだと声を掛けてきた車に道を聞き、歩いて行っていると、バイタクが通りかかった。これ幸いと乗せてもらう。行き先はガイドブックにあった、メリーチェンダ。荷物の盗難の話もあるとかあったが、四の五の言っていられる状況ではない。時間的に当然門が閉まっていたが、バイタクの運ちゃんに宿の人を呼んでもらい、開けてもらう。三人で二つの部屋に分かれてチェックイン。吉村くんが一部屋、僕と大島くんで一部屋。
大変だったけど、これでカンボジア再訪の最大の目的は果たした。満足。さて、明日からはどうしようか。
※この鉄道を同道した吉村くんのレポートが彼のページにあります。「世界一の列車」
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6月17日(月) シアヌークビル(コンポンソム)
お腹がゆるいのが治らない。ラオスを出てからずっとだ。シェムリにいる間だけは大丈夫だったが、そろそろ正露丸ではあかんぽい。
10時半に一度起きて朝食を摂ったが、どうにもこうにも眠いので、もう一眠りする。同室の大島君も同じ。16時半に再度目が覚めて、今度こそ起きる。ちなみに吉村くんは今朝、とっととタイに旅立っていた。どんどん先へ先へと動くタイプの旅人なんだな。
もう夕方ではあるが、さすがにもったいないので大島くんと散歩に出た。広い町というか、栄えてる場所が何箇所かに分散している地方都市という印象だ。遠くまで行く気も時間もなかったので、宿からそんなに離れていない海岸に足を向ける。
浜も水も、本当に綺麗だった。想像していたよりずっと。ゴミとかもほとんどないし。海の右手はるかを見ると、コンビナートが見える。もう夕方だったし、水着も持ってきていなかったので泳ぎはしなかったけど、地元の人たちが服のまま海に入って水と戯れていた。
その後がよくなかった。18時半頃、ガイドブックにあるサメのオブジェクトを探しにもうひとつ東手にあるビーチを見てから、夕闇迫る草原を貫く道を宿へと戻っていると、後ろから寄ってきたバイク(3人乗り)の男に、カバンをひったくられた。この時していたのはバンコクのお寺で買った布カバンで、それをお坊さんがしているように首から肩を通してはすかいにかけていたので、物理的に奪われる事はありえなかったし、この袋が思いのほか貧弱で、とっさにカバンを掴んで「アホがあー!!!」と叫びつつひったくり犯と引っ張り合いの形になると、即座に破れて中身が散らばってしまったので、結果的には何も取られなかったんだけど。被害は破れたカバンのみ。まあ運が良かった。アスファルトに叩き付けられたデジカメも壊れなかったし。
大した被害がなかったのはよかったけど、何かあるのかな。旅に出てから、こういう事が多すぎる。トランプ詐欺の誘いが数回、ゲイの誘いにパスポートの盗難、そしてひったくり……。
宿に帰って一息ついた夜。これから先、マレーシアの後でヨーロッパに向かう旅路について、大島くんが10円玉を使った八卦で占ってくれたんだけど、何か変なのばかり出る。
インドに行くか、パキスタンからイランに行くか、いっそ中国に抜けてそこから中央アジアに行くかなどと考えていたのだが、どのルートを観て貰っても変な卦ばかりだ。日本には完璧に無事に帰国できるらしいが……。途中を挟まず一気にヨーロッパに行くのが一番いいようだけど、それはなんだかなあ……。特に中央アジアを占ってもらうと、天地否という相当悪いのが出た。少なくとも中央アジアは除外して考える事にしよう。大島くんは、自分は素人だしあまり気にしなくてもと言ってくれるが、これも縁の一つだ。大いに参考にさせてもらおう。
それにしても、寒い。雨と曇りばかりの一日だったからか、東南アジアに入って以来、一番寒いぞ。
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6月18日(火) シアヌークビル(コンポンソム)
朝から、雨。神さんはどうあっても僕を海で泳がせたくないようだ。
仕方ないのでラジオ日本を聞いていたが、それも飽きて10時。ネットでもしようと町の中心部(ダウンタウン)へ。ちょうどゲストハウスのミニバスがそっちに行くからと、タダで乗せていってもらう。
道が広く、やはりカンボジアとは思えない。そんなに大きい町ではないが、それなりに活気は感じる。嫌いじゃない。ぶらぶらと見てまわっていると、一足先に散歩に出ていた大島くんと出会う。小さな町だ。
一緒に屋台で昼食。ごはん大盛りとおかず2品で2,500リエル(500+1,000×2)。やはり庶民の味は安いなあ。
町見物も大体終わり、ネット屋を探す。あったが高い。一時間5$とか4$とか……。一日乗って一人12,000リエル(3$)だった鉄道関係者が怒るぞ。でもメールチェックもせずにそろそろ3日なので、仕方なく4$の所に入る。大島くんはひと泳ぎしに戻っていった。日本語環境はないぞと脅されつつ繋げてみると、なんだ、日本語読むことはできるやん。
その後、二キロほどの道をアップダウンしながら歩いて宿に戻る。
さて、ワールドカップだ。日本対トルコ。……負けた。サッカーにはそんな思い入れなかったはずなのに、なんだこの脱力感は。
でも時間はまだ夕方。雨もあがっているので17時半、泳ぎに行く。天気と時間、曜日の関係か、さすがに人気がない。けど、きれいで遠浅で、いい砂浜だ。他に人が居なかったらわびしかったけど、小さな子供が何人かいて遊べたので楽しかった。ああ、この体が浮く感じ、海だ。考えたら旅に出てからこっち、川とかでしか泳いでなかったな。
海からの帰り、いつものように声をかけて来るバイタクの兄ちゃんをいつものようにあしらって歩いていると、腹立ち紛れか「ジャパン、ルーズ!」と連呼してくる。放っとけ。
明日はタイに戻る日だ。タイ国境までの選択肢は2つ。公共の船で行くか、ゲストハウスに案内のあったツーリストバスで行くか。乗り換えの手間がいらない分、バスが楽そうだが、バスの話はこの町に来て初めて聞いたから安全性がさっぱり解らない。それ以前にできるなら公共交通機関に乗りたいというのもある。さて、どうしたもんか……。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia → タイ王国
Kingdom of Thailand
6月19日(水) シアヌークビル(コンポンソム) → ココン → ハートレック → トラート → バンコク
目が覚めたら8時半。バスは6時半に行ってしまっているので、自動的に船に決定。
GHでチケットを購入、14ドルなり(ちなみにバスだと国境まで15ドル)。宿から船着場まで、ジープで送ってくれるそうだ。言われるままに大島くんと二人でジープに乗り込むが、例によってなかなか出発しない。近所の子供が「何してんの」と寄ってきたので遊ぶ。
送迎してもらうのは二人だけかと思っていたら、近所の宿から白人客一人、日本人女性一人がやってきた。なるほど。
そして船着場へ。このジープ、メーター類が壊れていて、一切合財ぴくりともしない。旅を始めた頃に見たら驚いていたろうな。もうなんとも思わないけど。
船着場の木製桟橋の上で他の旅行者やカンボジア人達と一緒に乗船の時間を待っていたら、もう一人日本人旅行者が現れた。アランヤプラテート、シェムリアップ、プノンペンと行く先々で出会った二人連れの一人、ヒデさん。やはり昨日のW杯の関係で、日本人旅行者の行動日程が重なってるのかな。
12時過ぎ、発進。窓が小さくて汚れているため見晴らしもいまいちで、手慰みにあやとりをしたり、寝たりして時間を潰す。
しかしまあ、山に森、海、どんよりと曇った空。シアヌークビルに近づいて以来何度目になるか分からない感想を抱く。カンボジアらしくない。住人にすれば、余計なお世話だろうけど。山脈一つ隔てるだけで、こうまで地勢が違うとは。
船旅は好きな方だが、ちと今回は揺れがきつく、酔い気味だ。後半は目を閉じてひたすら酔いとの格闘に専念する。
15時半過ぎ、ココン着。思ったより早く着いた。場合によってはこの町で一泊する必要があるとガイドブックにはあったが、これなら今日中にタイに入れそうだ。
ここからボーダーまでは、まずボート、さらにバイタクと乗り継いでいく必要があるのだが、そのボートの客引きの勢いが凄い。雲霞の如くって表現を思い出してしまった。やっぱここ、カンボジアだわ。皆、判で押したように「タイボーダー、3ドル」と叫んでいる。事前情報よりずっと高いので交渉を試みるが、一切のディスカウントを受け付けない。畜生、独占事業だからカルテルでも結んでるのか。仕方ないのでその値で乗り込む。
と、出発待ちの時間に、例によって子供が群がってきた。なんか愛想よくニコニコしているので、写真を撮った後、ちょうど大量に余っていた飴をあげようと缶を差し出し、蓋を開けた瞬間、子供達の手がピラニアの群れの如く殺到した。一瞬の後、数十個は入っていた缶には、わずか二個しか残っていなかった。うーむ、油断した。
モーターボートで20分程かっ飛ぶ。なかなか爽快な乗り心地ではあった。ラオスのスピードボートより格段に安全には配慮されているようで、ライフジャケットもヘルメットも着けてないのに、乗船中、命の危険は感じずに済んだ。それが何より嬉しい。16時頃、船着場到着。
船着場のすぐ北に、川を横断する立派な橋がかかっていた。ガイドブックには車で来たらこの川はフェリーで渡るとあり、橋があるなんて一言もなかったが。時代は進んでいるんだなあ。それにしてもこの橋、立派だな。それこそカンボジアらしくない。またぞろどこかのODAで架けられてるような気がする。
船着場といっても港なんてものはなく、ボートをもやう杭が並んでいるだけの川岸だ。ボートが着岸する前から、川岸ではバイタクの大軍団が我々を待ち構えている。気の早い者がボートが停止する前に飛び乗ってきて、客のリュックを勝手に持ち上げ、「俺のバイクに乗れ」と強烈すぎるアピールをしてきた。これ、放っといたらこのまま荷物を持ち逃げしないか?
バイタク軍団は「ボーダー1$」と口々に叫んで腕を引っ張りにかかる。え? ボートに乗る前、確か「タイボーダー3$」って言ってたよな。じゃあこのバイタクには金払わなくていいんじゃないのか? ……もちろん、そんなわけはなかった。白人客はどんどんバイクに乗って出発していくが、自分達は値切り交渉に余念がない。と、ヒデさんが20バーツで話がついたと先に出ていった。それを聞いて、横にいたバイタクに「20バーツ、ボーダー?」と聞くと「Yes」と答えたので、自分も乗車。この後にバトルが待ち構えていることも知らずに。
川べりの空き地を抜けて太い道に出ると、国境まで8kmと看板が出ていた。バイタクに乗りながら前を見ると、道一杯にバイタクの大行進だ。
バイクは途中まで快調に走っていたのだが、途中、運ちゃんがヒデさんの運ちゃんと何事か話していたと思ったら、何故か段々とスピードが落ちていき、とろとろ走りになった。ヒデさんのバイタクも一緒なので、マシントラブルって感じではなかったが。後続のバイタクに次々と抜かれていく。いぶかしんで「ホワイ?」と尋ねると「1km20バーツ、タイボーダー、10km、200バーツ」などと言い始めた。突っ込み所だらけだが、それはともかく。さっきヒデさんの運ちゃんと話していたのはこの共謀の相談だったのか。「ノー! ユー セイ オンリー20バーツ!」と叫んでも、とろとろと走りながら同じ台詞を繰り返すだけ。ヒデさんも同じ状況のようだ。
そうこうしているうちに、最後尾集団だった大島くんや他の白人客のバイタクにも抜かれた。大島くんが驚いた顔で「どうしたの?」と言っていたので「金銭トラブル!」と答えておいた。折悪しく雨が降りだし、しかもそれがかなりきつい降りになってきた。
そして、ついに二台のバイクは停止した。実力行使か。だが、そんな無茶な料金を払ういわれはどこにもない。ともかくボーダーまで行ってから話そうと言っても聞く気はないようだ。自分たちが圧倒的に有利だと思ってやがるな。ヒデさんはボーダー閉鎖に間に合えばいくらか払うと交渉しているようだが。時刻は16時20分。ボーダーは17時に閉まる。畜生、足元見やがって。
ここまでの交渉で頭に血が上っていたこともあり、運ちゃんに20バーツを叩きつけて、バイクを降りた。ヒデさんに「ごめん、いちかばちか先に行くわ」と声をかけ、雨の中、バイタク兄ちゃんの制止の声も振り切って走りだした。数十キロのリュックを背負い、30分程で3、4キロ走り抜けるのは無理があるような気もするが、こんな出鱈目な金を払って間に合うよりましだ。
この行動は予想外だったようで、バイタクの兄ちゃんが慌てて併走してきて、「走ったんじゃ間に合わないぞ。大人しく金払って乗れよ」と言って来るが知らん。頑張ればギリギリ間に合わない事もない気がするし、こんな田舎の国境だ、少々の遅れなら融通してくれる事だってあるかもしれない。そしてもう一つ、先ほどから仕事を終えたバイタクがちらほらと戻ってきている。そういうバイクに道半ばだから20バーツで乗せてくれと交渉する手だってある。
と、数百メートルほど走ったところでバイクに乗ったヒデさんが追いついてきた。交渉がまとまったらしい。トータル1ドルだとか。どうやら現在、この区間は1ドルが相場のようだ。なら20バーツのディスカウントに応じるフリなんてするなよ。
「だから今なら1ドルで乗れますよ」
と言ってくれるが、自分の乗っていたバイタクの兄ちゃんは物凄く不満顔で、全然納得していないのがありありと分かる。こりゃ、乗ってももう一度揉めそうだ。と思って走り続けていたら、ヒデさんが自分の運ちゃんと交渉して、追加料金なしで3ケツで行ってくれる事になった。申し訳ない。ありがとう、ヒデさん。バイクの3ケツなんて東南アジアでは珍しくもないが、そのうち二人がガタイのいい日本人で、しかも長期旅行用のごっついリュックが複数個あるという状況は、さすがにそうはない。というか、正直言って激しくデンジャラスだった。
バイクが停まっていた所からすぐの丘を越えると、警察の関所があった。なるほど、ここに話を持ち込まれるのが嫌で、あそこに停まったんだな。その後は何事もなく、ボーダーに到着。ごたごたはあったけど、景色はきれいだったな。
ボーダーでは大島くんがバイタクの運ちゃん達と何やら交渉していた。聞いてみると、バイタクの元締めと「20バーツで話がまとまったんだ」「1ドルが適正な値段だ」とやり合っているらしい。ああ、ここでも同じ事が。1ドルが適正みたいだよ。
自分の方は、ヒデさんが1ドル払ったら「もう一人乗せたんだからあと1ドル払え」と言ってきた。半分しか乗ってないやん。はじめ乗っていたバイタクを指し「オーレディー ペイ」と言ったら黙ったけど。それでもまだごねそうな気配だったので、元締めに「こいつはさっき、200バーツと言っていたんだ」と告げると、元締めもそれはやりすぎと思ったのか、兄ちゃんをギロリと睨みつけ、今度こそ大人しくなった。ふう。ココン-ハートレックのボーダーは外国人に正式に開かれてから日が浅いので、余計こういうトラブルが起きやすいのかもしれない。
というか、ベトナムに入国した当時は相場の百倍をふっかけられ、それを十倍まで下げるのが精一杯だったのに、相場の5倍の料金、しかも別に大金じゃないものに対して激怒しているとは。自分も変わったなあ。成長とは言わないけど。
昨夜、大島くんが占っていたのを思い出した。「ボートを使って行くと、はじめはいいが、対立が起きる」当たってるよ、おい。
どうにも我慢ができず、去り際にバイタクの運ちゃん達に向かって一言、叫んだ。
「グッバイ、ボリボリ!」
ようやく国境審査だ。このボーダーはチェックが厳しい。今タイで外相会談があるからなのか。カンボジアの出国手続きを終え、タイに入ったところで手荷物検査があった。陸路国境では初めてだ。けど、自分達が日本人だと分かると、サブバッグをざっと調べ、大バッグの口を開けるだけでOKだった。係員が笑って「ジャパニーズ、ナカタ」と通してくれる。他の白人さんはかなり念入りに調べられてるのに。日本人の信用は本当に凄い。先人に感謝。
入国審査のイミグレーションでも、係官のおっちゃん、こっちのパスポートと書類を受け取り、こっちが日本人だと見るやいなや、満面の笑みをたたえて一言。
「GOOD!」
え?
その後も、パスポートのページをめくるたび、スタンプを押すたび、
「GOOD!」
「GOOD!」
「GOOD!」
と連呼の嵐。なんかここまでくるとこそばゆいんですが。というか、審査してない気がするんですが、いいんですか?
恐るべし、海外での日本人手形。
とまあ色々あったが、どうにかタイに入国できた。大島くんとヒデさん、3人でクローンヤイかトラート行きのソンテウかミニバスがないか、夕闇迫るハートレックを歩く。そんなに大きくない町だが、国境の町だけあってゲストハウスもあるようだ。なんとなればここで泊まってもいいのだが、タイなんだから夜でもバスが走っているはず。と、バスステーション発見。ミニバスでトラートまで行ける事になった。値段は100バーツ。高い気もするが、バス横の看板に明記されてる以上、仕方ない。
我々を含む最後に国境を抜けた一団を拾い、日の光が辛うじて残っている中、ミニバスは発車した。さすがタイ、道はよく整備されており、バスは快調に飛ばしていく。道中、横に座るイングランド人にデジカメの写真を見せたり、プノンペンからシアヌークビルまで、列車だと19時間かかったと言って驚かせたりして遊ぶ。
18時10分、トラート郊外のガソリンスタンドに到着。ここが終着のようだ。一時間程で着いた計算だ。カンボジアの感覚では信じられない移動能力だ。ここまで来たら、一気にバンコクまで行ってしまいたいところだが、便はあるのだろうか。
ここまで運転してきたおっちゃんの話によると、ここから先、公共バスは夜7時に出て、6時間かけてバンコクのバスステーションではなく、空港に行くらしい。料金は190バーツ。おっちゃんの出すミニバスなら、300バーツかかるがカオサン通りまで直行するし、しかも4時間で行くらしい。この辺の口上、うまいなあ。
バンコクには深夜着を覚悟していただけに、その早さはありがたい。が、300バーツはさすがに高い。と思っていると、横にいたイングランド人の兄ちゃんが、突然我々をも巻き込んで値段交渉をはじめた。曰く、「3人掛けシートに4人で座るから、一人頭200バーツでバンコクまで行ってくれ」と。おいおい、いいけど事前にこっちに言ってからはじめてくれよ。結局、一人230バーツで行ってくれることになった。こういう交渉をする頭は自分にはなかったので、助かった。
トラートで一泊するヒデさんと別れ、残る外人客達は鮨詰め状態で一路、バンコクへ。体の大きい白人客だらけで3人シートに4人掛けはけっこうきつかった。この車も飛ばしに飛ばした。アベレージで110〜120km/hくらいは出てたんじゃなかろうか。途中、休憩後に右後輪ホイールがいかれ、さらにはパンクまでするという余禄はあったが、それでも23時47分、日付が変わる前にバンコクはカオサン通りに到着した。
いつものようにPSゲストハウスにチェックイン。部屋に荷物を放り出すと、すぐさまカオサンに取って返す。カンボジア終了を記念して、大島くんとパーッといくために。
カオサン通りのレストラン、初めて入ったよ。さすが外国人向け、いい値段するなあ。一人だと絶対足を踏み入れなかったよ。まあ今夜は特別だ。パーッといこう。ビールにビールにシェイクにスパゲティにごはんに以下略。
タイ王国 Kingdom of Thailand
6月20日(木)バンコク
朝6時に目がさめる。三時間しか寝てないのに、何故だ。部屋が悪いのかもしれない。2階にあるこの部屋は外の音が入ってきてうるさいし、ベッドも寝心地が悪く、変な臭いがする。
ということで、目覚めついでに部屋換え。幸い4階に部屋が空いており、早速移動。快適さが段違いだ。もう一眠りしたいところだが、やっぱり起きないと。
現金を引き落としにカオサンのネット屋に行くと、大島くんがいた。よく会うなあ。
その後日本人街に行き、漫画・おにぎり・日本風パンを購入。さらに東京堂書店でバングラデシュのガイドブックを買おうか悩むが、915バーツもするものだから、行くと決めたら買うことにして今日は見送り。
寝不足でフラフラするので、今日はとっとと宿に戻って大人しくしていよう。