ほろほろ旅日記2002 4/1-10
ベトナム社会主義共和国 Socialist Republic of Viet Nam
4月1日(月) ハノイ → 7,955歩
今日はゆっくり過ごすつもりだったが、いろいろあった。具体的に言えば、犯罪に巻き込まれかけた。
朝は部屋でごろごろし、昼ぎりぎりにチェックアウト。荷物を宿に預け、ホアンキエム湖まで散歩する。中心部にこんな湖がある町ってのもいいよな。さすがハノイ。漢字表記で河内と書くだけあって、水は豊富なようだ。
朝昼兼用の肉まんを食べ、湖を眺めてぼうっとしてると、若い兄ちゃんが話しかけて来た。沖縄にいたことがあると言う、クルーカットで日本語が少しできる兄ちゃんだ。アメリカ軍の関係者っぽいことを言っていたが、よくわからない。話してるうちに、僕の列車の時間まで、彼のおじさんの家で食事をしようということになった。ここで怪しいと思えないのが未熟だったんだな。ここで妹と待ち合わせをしていて、なんかパーティーがあるらしい。妹さんが来て、3人でタクシーに乗る。少し距離があるようだ。この人はどうやってここまで来たんだろう。妹さんはえらく饒舌で、僕が英語を全然喋れないと言うのにタクシーの中でもどんどん話しかけてくる。彼らのおじさんの家の近くまで来た時、ハノイに着いた日に見たDAEWOOホテルと大使館のそばを通る。
「I know this place.I came here yesterday」と言うと、なんか黙った。
おじさんの家とやらに着いた。ごみごみした下町の中にある古アパートの一室だ。ここでやっと怪しいと気がついた。遅いよ。
部屋に入るが、パーティーらしき気配はどこにもない。45歳のおじさんと言う人が一人で出迎えただけ。その人の奥さんが病院に行ったとかでパーティーは中止になったらしい。そもそも準備してた気配すらないんだが。ふーん? ともかく、せっかく来たんだからと昼食をご馳走になる。アドレス交換をするまでは良かったが、そこからいよいよおかしくなってきた。そのおじさんがスタークルーズでディーラーをしているのでカジノでの勝ち方を教えると言い出したのだ。出た。賭博詐欺。当然、断る。「I never play gamble.」すると今度は、そのおじさんの妻が妊娠中で、帝王切開をする必要があり、血がいると言いだした。僕の血液型が合うので助けて欲しいと。この結婚の早い国で、45歳の人の妻が妊娠? 首都の病院に血がない? そんな状況でパーティーだなんだと見知らぬ外人(僕ね)を連れて来る? 不自然極まりない。しまいには血は1パック50ドルで売れる、金を稼がないかと言ってきた。
この三つ(ギャンブルで儲けよう、妻を助けて、血を売ってくれ)を順に繰り返し言ってくる。駄目すぎ。頑として断り続けていたら、最後には折れて帰してくれた。未熟な詐欺師で良かったよ。近くのDAEWOOホテルを知ってると言ったのも良かったのかも。後で知ったのだが、家に向かう車内で喋り続け、場所をわからなくさせるのも手口の一つらしいから。
最初に会った兄ちゃんのバイクで帰る。警官を見るとバイクから降りて歩いてた。国際免許を持ってないと言っていたが。結局、詐欺でかもられるどころか、食事・交通費・一切払わずに終わった。結果オーライと言うべきか。
宿に帰ってきたがまだ時間があるので、再度ホアンキエム湖にのんびりしに行く。また声をかけられた。今度は若い女の子だ。東南アジア系っぽい。ホーチミン廟にはどう行くのか、と。今日は開いてない日だったのでその旨を教えると、もう少し話したいのでお茶しませんかと誘われた。またか。見た目は真面目そうだが、美人局じゃないだろうな。結局、すぐそこのカフェならということで時間潰しに付き合うことにした。その子はインドネシア人で、バリ島でウェイトレスをしているそうだ。マレーシア・タイ・ラオス・香港・台湾と回ってきてハノイに来たらしい。いとこが5月から阪大に留学するとかで、日本のことをいろいろ聞いてきた。で、何事もなく別れた。
宿に戻ると、旅の達人ぽい風貌の日本人旅行者がいた。一緒に夕食を取りながら、いろいろ話を聞かせてもらう。
列車の時間が来たので、駅に向かう。宿のお兄ちゃんがバイタクを出してくれた。こういうのならぼったくられることもないし、信用できる。
駅はすごい人込みだ。中国と違い、外国人旅行者も多い。三段ベッドの寝台は初めてだが、確かに狭い。ベッドと言っても掛け布も何もなく、ゴザが敷いてあるだけだ。なるほど、ハードベッドか。冷房もなく、扇風機が回っているだけ。でも気候的にはそれでいいぐらいなんだな。コンパートメントには、下段に地元のおっちゃん、おばあちゃん。中段に欧米人カップル。上段の向かいにはベトナム人の若者。騒々しい雰囲気の中、列車は闇の中を南へ走りだした。
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4月2日(火) → フエ 10,510歩
朝6時に目が覚めた。どうもこの列車、停車駅以外でも行き違い停車をよくしているようだ。車内にはベトナムのカントリーミュージックが流れ、それがまた雰囲気を出している。
夜明け前に雨が降ったのか地面は濡れており、車窓にはうっすらと霧がかかった原野が広っている。その中に家と畑があるような具合だ。耕作には機械はほとんど見られず、牛が主力になっている。その牛を田んぼの脇に繋ぎ止めるのに、釣り竿のようなものを使っているのが目についた。牛にすれば比較的自由度が高く、ストレスがたまらないのかもしれない。家は藁葺きが多い。モンカイあたりではコンクリート製の家が多かったが、国境の方が金の回りがいいのかもしれない。たまに散見されるベトナムの墓地は、墓標が立派な砦のような形をしており、独特だ。
それにしてもこのあたりでは、見渡す限り「直線」がどこにも見えない。こんな景色を実際に見れただけでも、旅に出て良かったと思う。
午後2時過ぎ、フエに到着。古都らしいが、駅は町から少し外れたところにあり、ぴんと来ない。というか、そんなことを考える前にシクロ・バイタク・ツーリストエージェンシーが入り混じった客引きの群れに取り囲まれた。誇張なしで50人は楽にいる。脱出不能。とにかくなんとか無視して切符売り場へ。まずはホーチミン行きの切符を買わないと。おいおい、ついてきていた兄ちゃんが勝手に気を利かせて先に窓口に尋ねてるよ。自分でも聞いてみたが、列車は金曜日まで満席とのこと。金曜日は先すぎて駄目だ。列車は諦めて、バスを探すしかない。
と、先の兄ちゃんが「自分の会社のバスで行かないか?」と言ってきた。どのみちバス会社を当たるつもりだったし、あんまり性質が悪いようにも見えなかったので、ついて行く。駅前の掘建て長屋のような建物の一角が事務所らしく、その前でお茶を出されながら話を聞く。クイーンカフェと言ってるが、政府運営というのは嘘だろ。でもま、営業自体はちゃんとやってるようだったし、駅前に停まっているきれいな大型バスを指して「これがウチのバスだ」と言うので信じることにして、ここに決めた。ツーリストバスでホーチミン(サイゴン)まで385,000ドン。明日の午後2時発、翌日の午前10時着予定。
ホテルはどこか適当なところを探そうと思っていたのだが、この人達の持っているホテルに泊まるように押し切られてしまった。「一泊だけなら長期滞在者のいる安宿よりもシングルルームの方がいい」「ドミトリーに泊まるとイスラエル人がいるから荷物を盗られるぞ」って、後半のはものすごい言い草だな。なんだそれ。着いてみると、大きい建物だが、客室は2部屋しかない。妙にだだっ広くて寂しい感じ。他に客はいないし、レセプションもない。裏には客引きの兄ちゃん達の家がある。そして兄ちゃん達、今日の仕事は終了なのか、休んでしまってるぞ。うむう? もっと毅然としないといかんなあ。押しが弱いといくらでも貧乏くじを引き続けそうだ。
宿にいると女はどうだ、バイクでこのフエ近郊の寺院を巡るツアーに行かないかとしつこい。立派な寺院だろうと、わざわざ高いバイクタクシー代を払ってまで見に行くつもりはない。ので、一人で散歩に出る。まだ明るいが、フエの王宮は閉まっている時間なので、そぞろ歩きのみだが。フエはハノイに比べると、こぢんまりと落ち着いた感じだ。といってもやはり東南アジア、活気は十分すぎるくらいある。あまり古都らしい雰囲気は感じ取れないが、風情はある。
インターネットカフェに行くが、日本語環境がなく、マシントラブルが連続したので断念。
宿に戻り、夕食はそばの食堂で、フエ名物ブンボーフエ。辛口の麺料理なんだけど、特徴は麺の上にこれでもかと(文字通り)山盛りに積み上げられた生の葉っぱ。おいしいんだけど、この葉っぱを平らげるのはちときつかった。
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4月3日(水) フエ →(ホイアン)→ 13,800歩
6時半起床。今日は朝から世界遺産であるフエの王宮を見に行く。だから宿の兄ちゃん、なんで歩いて見に行くというのを理解できないんだ。しつこく「バイクに乗っていけ」と言ってくる。「Why?」って、こっちが聞きたいわ。この国では排気ガスが多いせいか、バイクに乗っている人はマスクをしてることが多い。
ともかく歩く。歩いて歩いて歩き倒す。王宮が開くまで少し時間があったので、どれくらい大きいものか、まず王宮のぐるりを回ってみることにした。だいたい一周40分ほどだった。
開場したので中に入る。入場料55,000ドン。
予想はしていたが、世界遺産の基準を姫路城に置いてはいかんのだな。手入れ不十分とというかなんというか……。一部だけだが、修復されている部分は確かに立派だった。何年後か、修復作業が完了した後に来たら、全く違う印象を受けそうだ。今もあちこちでがんばって直しているし。ツアー客の日本人も結構いた。後ろをついて行ってガイドの説明をタダで聞いたりしながら回る。
ようやく王宮を巡り終わった。暑い中を歩き回ったので、さすがに疲れた。休み休み、宿に戻る。戻る途中でベトナム語の新聞を買って歩いていると、やたらと地元の人が声をかけてきた。ジェスチャーで「その新聞、読めるのか?」と。ごめん、ベトナム語は初歩の初歩しか分からないんだ……。
宿に着いた。とにかく暑い。バスの時間までここでへたばっていることにしよう。暇そうな宿の兄ちゃん達と話していると、ベトナムに入った日にバスの中で両替した50,000ドン札が偽札だと判明。なんてこった、畜生め……。
宿の子供と遊ぶ。折り紙をしようとしたが、鶴の折り方を忘れていた。子供にベトナム流の折り方を見せてもらうと日本と違い、翼がとがってなくて平行だった。微妙に違うもんだなあ。デジカメのモニターが相当珍しかったらしく、夢中になって遊んでいた。格好のおもちゃだったようだ。
予定より30分ほど遅れてバスが来た。マイクロバンが。僕以外の乗客は皆、白人。アジア人に合わせて作られた車に白人が詰まってるもんだから、もう狭くて狭くて。1時間半ほど走ったところで、さっそく20分休憩。どこまで予定から遅れるんだろうなあ。休憩した食堂のウェイトレスが自分を日本人と見るや、日本の戦時中の硬貨を見せて、今の日本の硬貨と交換しないかと言ってきた。帰国間近なら考えんでもないけどな。
このバスでサイゴンまで行くのかなあ。地元の人が使うバスは安いんだけど、恐ろしく混んでいる。道すがらちょくちょく出会うけど、人と荷物が限界を超えて詰め込まれている。カーブでこぼれ落ちないのが不思議なほどに。古くてぼろいバスが重さに耐えかねて壊れないのが不思議なほどに。こんなんでハノイ→サイゴン2泊3日とかしてる人もいるのか。凄いな……。自分にはまだ無理だ……。
バスはホイアンに近付き、海沿いの山道に差し掛かった。非常に美しい景色だった。が、峠を下っている最中にバンがパンク。乗客の一人も手伝って直していた。別に珍しくないんだろうな。修理に一時間ほどかかった。
夕方6時、ホイアン着。この町も時間があったら見てみたかったが、仕方ない。ここでバスを乗り換え。今度こそきれいな大型バスだ。白人仕様なのか、シートも大きい。一夜を過ごす事を考えると、これはありがたい。これでこそツーリストバスだよな。ベトナムではツーリスト産業が発達していて、地元の人用とは別に、外国人旅行者向けのバス網が全国に発達している。車中のアナウンスは英語のみ、かかる音楽も欧米系のみ。ここで流れる英語、流暢すぎて今の自分ではちんぷんかんぷんだよ……。ここで交換されたチケットによれば、サイゴン着は明日の夕方5時。ずいぶん遅くなったな……実際にはまだ遅れるんだろうが……。バスの中はガラガラ。やはり日本人はいない。自分以外は白人のみ。
バスは大きくなったけど、乗客はあまり増えてないからかなりゆったり座れた。一人あたり2座席はある。おかげで横になって眠る事ができた。こんなところで日本の鈍行夜行に乗り付けていた経験が役立つとはなあ。
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4月4日(木) →(ニャチャン)→サイゴン(ホーチミン) 5,634歩
かなり早い時間から目が覚めていたが、ベトナムは今、春休みじゃないのか。朝の5時から小中学生が普通に登校しているのを見かけるぞ。朝もやに浮かぶ景色は幻想的で、なかなかいいものだ。だんだん明るくなってくる中、結構大きい港町の中に入っていく。一大リゾート地のニャチャンだった。
予想通り、ニャチャンでバスを乗り換えた。今度は地元客も多くいる。というか、外人客の方がずっと少ない。相変わらず日本人客はいないけど。大体席が埋まり、予定より12分遅れで9時12分、出発。今日も暑そう。
この辺りは今が稲刈りの時期のようだ。日本では田起こしさえまだだし、広東では田植えをしていたというのに。南下してきた事を実感。牛の群れがそこらじゅうにいる。当たり前の風景なんだろうけど、まだまだインパクトを感じてしまうなあ。
11時頃、景色が変わってきた。これまでは日本とそんなに違わず「日本も昔はこうだったのかなあ」と、「この道はいつか来た道」的なものだったんだけど、明らかに違う地勢になった。山も平地も、見渡す限りの荒野。道路と線路、昼食休憩のために停車したドライブイン以外、何もない。人が生活している気配が全く感じられない。まさに荒漠。元々こうなのか、ベトナム戦争の関係でこうなったのか。他の地勢との関連性がなく、唐突にこうなったので戸惑う。
休憩に停まったドライブインだが、お腹は空いていなかったので何も食べずに済ます。売り子の女の人が笹に包んだ海老のすり身を蒸したのを試食させてくれたが、それでもう十分だった。おいおいバスのドライバー、食事しながらビールを飲んでるよ。大丈夫か? 確かにベトナムのビールは軽いけど、まさか飲酒運転が合法ってことはないだろうに……。
数時間進み、海岸リゾート地らしきMUINEで再度休憩。他に日本人はいないと思っていたが、いた。よく日に焼け、物腰も落ち着いていたのでどうかと思ったんだけど、話し掛けてみたら日本人だった。話してみると、向こうもこっちを日本人かどうか決めかねていたとか。このMさんはベトナム・カンボジア・ラオスを回る予定で、サイゴンの手前で途中下車してニョクマム(ベトナム独特の魚醤)の工場を見学するつもりだそうだ。旅慣れてるなあ。けどバス会社の人にスケジュールを理解してもらえなくて、結局中止せざるを得なかったようだ。
バスは順調に遅れ、暗くなってからサイゴン(ホーチミン)に入った。さすが大都会。ハノイより栄えている印象で、林立するビルや喧騒がすごい。町中に入ってからも一時間くらいバスは走り続け、ようやく19時半、バックパッカー街のファングーラオそばに到着。Mさんの申し出を有難く受け、部屋を2人でシェアして泊まることにした。少し見て歩いて決めたのはホテル211。ダブルルーム1泊8ドル。つまり一人4ドル。レセプションの男性が愛想よく、カタコトとはいえ日本語を話している。それだけ日本人客が多いということだよなあ。
こんな時間でもツーリストエージェンシーは開いているということだったので、ベトナム一番の大手、シンカフェのオフィスに行く。早速カンボジアビザを申請。遠いカンボジア大使館まで出向かなくていいのは助かる。出来上がるまで明日一日かかるそうだ。ついでに明後日の8時半発、所要時間9時間のプノンペン行きバスも予約。ボートでカンボジア入りも魅力的だが、時間がないんだ。お金もないし。Mさんに「えらく急ぐんだね。クチトンネルとかは見ないの」と言われたけど、今は急がないといけないもんで。代金はビザ30$+手数料3$+バス6$。安いなあ。しかもこのシンカフェ、日本語がそこそこ通じるので助かる。愛想はそんなにいいわけではないが、そこまで求めては贅沢だろう。サイゴン→プノンペンのバスはガイドブックでは12$となっていたのに、安くなったんだ。
Mさんと夕食。歩き回ったけど、そんなにめぼしいものはなく、結局小さな屋台でフォー・ガと炒飯と333ビール。7千+6千+7千で、しめて2万ドン。ついでに1.5gの水を7千ドンで。立地条件のせいか、店主のおばちゃんはカタコトの日本語を話した。
とかしてたらもう9時半。フロントにランドリーサービスを頼み、寝る。昨夜はバス寝だったので疲れた。
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4月5日(金)サイゴン(ホーチミン) 16,181歩
この町、正式名称はホーチミンのはずだけど誰も使ってない。バスの行き先表示から何から、サイゴンばかりだ。
サイゴンは今日だけなので、行ける範囲の観光に出る。まずは戦跡博物館。予想はしてたけど、強烈だ。ドロドロの殺し合いや枯葉剤散布の結末を捉えた写真の山を前にして、胃のあたりが重くなった。平和とは何かと考えこんでしまった。それとは別に共産党の勝利を称えるコーナーがあったので、ここが社会主義国家だと改めて実感。
次いで旧大統領官邸。さすがに豪華だ。あきれるほどに。その反面、地下が軍司令部になっていて、そこは完全に別世界だったりする。やはり戦争中の建物なんだな。ベトナム人客がいっぱいいたが、各国のツアー客も多かった。この二つは見て良かった。いろいろ考えさせられた。しかしまあ、土産物に銃や戦闘機のおもちゃが置かれているというのがなあ。
話には聞いていたが、サイゴンのバイタクは根性が違う。「1時間3万ドン」と日本語は喋るし、日本語の自分の名刺は作ってるし、無視して歩いててもしつこく付き纏ってくるし。宿を出てからずっと、バイクを押してついて来るのには参った。大統領官邸を見て外に出たらまだ待ってたし。最後には乗せるのを諦めて、過去の日本人客が書いたメモを見せてきて、「俺は日本語が分からないから英訳してくれ」と言って来た。まあそういうのなら、面白いし英語の勉強にもなるからいいけど。
今日の観光はこれで終了。その後は特に目的もなくぶらぶらと。途中、この国唯一のCDが設置されている銀行に寄り、現金を補充。手持ちが少なくなっていたので助かる。次に行くカンボジアでもCDはないという話だし。その後適当な広場で休んでいると、ココナッツ売りの少年がやって来た。始めは全く買う気はなかったんだけど、1時間ほど相手をしてだべっているうちに情が移ってきて、最後には買ってしまった。少年が包丁で手際よくココナッツの先端を切り開いた。ボリュームがあっておいしかった。
次は暇そうなおっちゃんが話しかけて来た。よく喋るおっちゃんで、英語で日本は物価が高い、寿司は美味いが高い、麻薬は怖い、女は楽しい、等々喋りまくる。ベトナムの学校は7歳から11歳が小学校、12歳から14歳が中学校、15歳から17歳が高校で、女子は中学生以下は赤ネクタイに青のスカートが制服。高校生は白のアオザイ、色つきアオザイを着ているのは20歳を越えた大人の女性のみだとか。この国では中学生でもバイクの運転をしてもいいらしい。よく見かけたはずだ。
おっちゃんが去った後、今度はココナツ売りの姉妹がやって来た。さっき買ったところなのでさすがにもういらない。が、暇なのかじゃれついてきたので、適当に相手をする。人懐っこく、あれやこれやと世話を焼いてくる。聞いてみると、サイゴンの泥棒は最近は減ったが、市場では今でも多いそうだ。チョロンギー地区は安全で、ファングーラオは少し危ないらしい。また、パスポートや現金を入れた貴重品入れを首から下げているのを見て「それは服の中に入れないと危ないよ」と忠告されたりもした。
その娘達と別れ、日本領事館を探し歩く。用事はないんだけど。見つからなかったので、次にJCBプラザを探す。こっちはあっさりと見つかった。プラザ内は日本水準で見てもきれいで空調が効いており、スタッフもほとんどが日本人。ここだけ日本だよ。変な感じ。ビルの17階というロケーションで、見晴らしがいい。特に用事はなかったので、新聞を読んでくつろがせてもらった。ジュースのサービスがありがたい。
外に出るとやはり暑い。路傍のニューススタンドで、なぜか昨日付けの日経新聞を売ってるのを見つけた。どうやって入手してるんだ? 同じく路傍のコミックスタンドでは、ほとんどが日本の漫画の翻訳版だった。話には聞いていたが、実際に見ると凄いもんだなあ。宿に向かって歩いていると、先のココナッツ売り姉妹に再会した。これも何かの縁だと、ココナッツを買った。なんか姉妹それぞれから買うことになり、飲みきれないほどのココナッツを抱えて宿に戻る羽目になってしまった。
ホテルの目の前に広がる大きい公園で6時過ぎまで夕涼みをする。ベトナム人の憩いの場になっているようで、多くの人がくつろいでいる。親子連れも多い。遊んでいるのを見ると、セパタクローとキックバトミントンのようなものが人気だ。
暗くなったので宿に戻り、Mさんと合流して食事に出る。昨日と同じ食堂で、炒飯とTGIビール。ベトナム式のグラスに氷塊を入れ、そこに常温のビールを注いで飲むやり方にも慣れたなあ。暑い気候に薄いビールが合って、ぐいぐい進む。そういやこの氷、生水だっけ。あまり気にしなくなってきた。その後、肉まんが食べたくなったので買いに行ったんだが、そこで20歳くらいの日本人の兄ちゃんが、普通に日本語で「おばちゃーん、肉まん食いたい!」と言って、それで通じていた。なんかくらくらしてしまった。なんてとこだ。
ベトナム社会主義共和国 Socialist Republic of Viet Nam → カンボジア王国
Kingdom of Cambodia
4月6日(土)サイゴン(ホーチミン) → プノンペン 11,762歩
定刻の9時に大型観光バスでカンボジアに向け、発車。もう少しベトナム観光をする予定だったMさんも、昨夜予定を変更して一緒だ。今日は自分達の他にも一人、日本人が乗っている。ローカルバスではなくツーリスト向けなので、ベトナム人客はいない。10時半、ガソリンスタンドで休憩。何か欲しくなったので一番安く買える1000ドンのアイスクリームを買うと、店の人に「こんな安いの、他に買う人いないよ」と笑われた。
国境到着。シンカフェのバスはここまでだ。「チェンジマネー」と何人も付きまとってくる。ええい、レートが悪いと分かってるところで両替するかよ。Mさんがニャチャンで知り合ったという日本人Aくんが別のバスで来ていた。そのAくん、ベトナムビザの期限を一日過ぎてしまっていたらしく、別室で話し合った結果、20ドルで手を打ってもらっていた。なんだかんだで出国手続き完了。ベトナム入りした時と違い、同じ状況の人がいっぱいいるから心強い。500メートルほどの何もない緩衝地帯を歩いてカンボジア側へ。カンボジアの入国管理官が人懐っこくて、緊張していた気持ちがほぐれた。無事カンボジア入国。
カンボジアの国境のゲート、アンコール遺跡をモチーフにしてるな。陸続きなのに、国境を越えると雰囲気が一変。不思議なもんだ。全員の国境手続きが住むまで時間があったので、同じバスに乗っていたもう一人の日本人(この人も旅慣れていて、英語もすごく達者)も入れて、4人でカンボジア国境脇にある食堂で昼食を取った。国境にあるだけあって、ベトナムドンでもカンボジアリエルでもアメリカドルでも支払い可能だった。
ここからはキャピトルツアーのバスだ。キャピトルといえば、プノンペンで有名な安宿だが、ツーリストエージェンシーもやってたのか。ここからはマイクロバス2台に分乗になった。地元の人とツーリストに分かれて出発。ここからプノンペンまでは、「ダンシングロード」として有名な悪路なので、大型のバスでは行けないんだろう。ぎゅうぎゅう詰めになって、いざ出発。道路は未舗装がほとんどだ。たまに舗装されていたかと思うと簡易舗装で、逆にえぐれが酷くなっていたりと、かなり凄い事になっている。橋が落ちていて、迂回路に回ることも一度や二度ではない。乾季の真っ只中なんだろう、土ぼこりがすごい。とはいえ、覚悟していたほど「ダンシング」ではなかった。年々整備が進んでいるのかな。道を行くバイクや車は、乗れるだけ乗って走っている。バイクには4人乗り、車にはバンの背中に鈴なりに乗っているのも珍しくない。地平線が見えた。水平線はともかく、ずうっと広がる地平線を見たのは初めてだ。
国が変わると、民族・風俗も変わった。人々の顔立ちや肌の色が変わり、女性はスカートを履くようになった。中国・ベトナムとズボン文化圏だったので、新鮮だ。小さい子供は裸で走り回っていることも珍しくない。田舎の方では電気も通っておらず、家もあまりしっかりした作りではない。家はほとんどが高床式になっているのは雨季対策かな。土ぼこりにまみれた景色からは、雨季の様子は想像もつかないけど。
メコン川の渡河地点に到着した。橋などかかっておらず、はしけで渡るようだ。はしけの順番待ちで暇になったので、バスから降りてくつろぐ。物売りの子供が群がってきて、わいわいと楽しい。この国に入ってから特に強く思うのは、子供の笑顔の良さだ。屈託のない、いい笑顔の子が多い。まわりを見ると、まだ馬車が現役で働いている。
メコン川をはしけで渡り、再出発。ここでキャピトルゲストハウスの兄ちゃんが乗り込んできて、営業を始めた。なるほどね。道は舗装道路になったが平らではなく、結局跳ねながらプノンペンまで行った。プノンペンに入ると、舗装がちゃんとしたものになった。他とは違い、バイクも多いが車の方が多い。ネオンサインもいっぱいあり、それまでの景色から比べたら、違う世界に来たみたいだ。貧富の差が激しい事を実感。
かなり暗くなった18:49、キャピトルゲストハウス前に到着。ここについてはいろいろと怪しい噂を聞いていたが、部屋を見てみるとそうでもなかったので、キャピトル1に投宿決定。もう夜だしね。MさんとAくんと一緒に3人部屋。1泊6ドルなので、一人あたり2ドルだ。下の食堂で夕食。アンコールビールとフライドライス。ここ、ビザやツアー、交通機関の手配から両替までやってるんだ。至れり尽せりだな。
その後、3人で夜の町をふらつく。プノンペンの治安はかなり良くなったとは言ってもまだまだ危険と聞くし、実際に明かりがなかったりとかなり怪しい雰囲気の場所もあるので、メインストリートだけだけど。スーパーマーケットがあったので思わず入り、野菜ジュースを買う。外国人向けだよなあ、ここ。宿に戻り、ベッド毎にある蚊帳をセットして寝る。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
4月7日(日)プノンペン 15,300歩
明日の朝、スピードボートでシェムリアップに行くのでプノンペンを見れるのは今日だけ。そこで、プノンペンに来たら避けて通るわけにはいかないトゥールスレーン刑務所博物館へ行くことにした。同室のMさんとAくんも一緒だ。キャピトルから歩いていける距離だ。
博物館といっても、元々高校だった建物を流用した本物の刑務所跡だ。元高校だけあって、普通に住宅街の中に建っている。
しかし、ここは……。覚悟はしていたつもりだったが、きついなんてもんじゃなかった。死者の怨念が渦巻いているようで、暑いのに寒気がして、胸から胃にかけて重いもので満たされ、気分が悪くなった。ここで実際に万単位の人間が虐殺されたんだ。老若男女関係なく。処刑前の写真、教室を仕切っただけの独房の跡、拷問室、夥しい頭蓋骨……。人はここまで残酷になれるのか。それも同じ民族、同朋に対して……。日本で生きて来た自分には、考えられないことだ。本当に考えられない。ただただ、合掌。それしかできない。MさんとAくんも同じような様子だった。一人で見に行っていたら、もっと辛かっただろう。重く沈む自分たちの横で、白人ツーリストが現地の女の子と笑顔で記念写真を撮っていた。精神構造が根本的に違うんだな……。ここに入ってからホテルに戻ってしばらくするまで、軽口一つ叩く気にもなれなかった。
それ以上観光する気が失せてしまった。屋台を探す気力もなく、昼食はキャピトルホテル下の食堂で済ませる。そのままぼんやりしていると、一人の日本人旅行者が話しかけてきた。他の2人はその人と話し込んでいたが、自分は少し元気が戻って戻って来たので、一人で町歩きに出た。観光する気は失せたままだし、そもそも日曜日なので開いている所が少ない。それでも知らない町をそぞろ歩きするだけで、結構楽しいものだ。もう来ないかもしれないプノンペンを、少しでも感じておこう。
王宮や寺院、商店街などを横目に見ながらぶらぶらと歩き、トンレサップ川縁に出た。大きい川だ。暑いのは変わらないが、風があって少しは気持ちいい。護岸の下、水際を見ると、洗濯したり泳いだりしている人が結構いる。決してきれいな川ではないんだけど。物乞いや物売りが次々とやって来る。物売りは小さい子がほとんどだが、みんなコーラ、コーラと言う。外国人はコーラを飲むものと思ってるんだろうか。冬瓜のジュースを買う。夕方までぼんやりと過ごし、宿に戻る。夜は件の人の案内で、4人で連れ立って屋台へ。焼きそばとラーメン、おいしかった。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
4月8日(月)プノンペン → シェムリアップ 1,513歩
朝6時半、キャピトルゲストハウスからのピックアップでシェムリアップ行きのスピードボート乗り場へ。早起きしたから眠い。MさんとAくんはもうしばらくプノンペンにいるとのことだったので、ここでお別れ。まあ、バックパッカーでこれだけ急けて動く奴も少ないよなあ。アンコール遺跡群観光の拠点・シェムリアップへはバスの方がずっと安いのだが、治安が今ひとつという話も聞くし、ボートに魅力を感じたので、こっちにした。船室内の座席を見るととても狭かったので座る気をなくし、他のツーリストと同じように屋根に登る。転落したらおしまいだろうなあ。
ボートはトンレサップ川を遡ってトンレサップ湖を横断し、シェムリアップそばまで行く。地元の人がボートで漁をしている。水上集落が散見される。水牛がゆったりと散歩している。異文化の中に身を置いている事を改めて実感。
屋根の上では白人客たちが上半身裸になり、日光浴を楽しんでいる。風もあって気持ちいいけど、日差しが強い。ものすごく強い。始めは気にならなかったが、二時間も経つと露出している部分がどんどん日に焼けていくのがわかった。当然日焼け対策なんてしてなかったし、辛い。途中2度、湖の真ん中で30分ほど停船する。エンジンの調子が悪いのか。数年前、湖を渡るスピードボートが強盗に襲われたと聞いているので、停まっていると少し不安だ。肌がさらに日に焼けて辛い。結局、所要予定時間5時間のところを6時間以上かけて目的の船着場に到着した。
本当にただの船着場。それだけしかない。トンレサップ湖が年間水位の変動が激しいためか、草叢を切り開いて車の駐車スペースを確保し、湖の中にボート停泊のための杭と小屋を仮ごしらえしているだけだ。湖岸までは小さなボートに乗り換えて行くしかない。
スピードボートから降りると、凄い人数の客引きが群がってきた。日本語で言い寄ってくる者も少なくない。それを振り切ってキャピトルツアーのバンでシェムリアップへ。町は湖から結構離れていて、原野の中をひた進み、村をひとつ通過して、やっと到着した。着いたのは予想通り、キャピトルと提携しているゲストハウスの前。この町では日本人宿というものに泊まってみたかったので、勧誘をなんとか断り、それでも断りきれなかったバイクタクシーに乗って日本人宿の1つ、タケオゲストハウスへ。ハノイで会った女の子達が泊まって良かったと言っていたから。
有名な日本人宿は三件あるのだが、見たところそんな悪い感じではなかったので、他を見るのも面倒臭く、ここに決める。ドミトリーなら一泊一ドルだったが、今日は部屋の気分。一泊二ドル。ただし2人部屋なので他に客が来たらシェアになるとのこと。来なかったが。チェックインが済んだらウェルカムフードをごちそうになった。こんなの初めてだ。客用の本棚も日本語の本ばかり。というか、この漫画の多さはなんだ? ああ、ここのシェイク、おいしいなあ。
今日はしんどいので観光はなし。アンコール遺跡は入場料が高いし、入場券自体一日券・三日券・一週間券の三種類しかないので、見るのは明日一日だけ。バンコクでの約束の日も迫ってきてるし。遺跡が夕方5時から入場無料になるので夕焼けを見に行かないかと、自分と同じく今日到着した二人の日本人客に誘われたがパス。曇ってるし。その2人が帰ってきた。彼らは今日利用したバイタクの兄ちゃんに明日も世話になることにしたそうで、その兄ちゃんの紹介するバイタクで明日一緒にまわらないかと誘ってきた。アンコール遺跡は広大で、一日で見て回るならバイクをチャーターしないと無理らしいし、言っている値段も相場だ。どうせ探すんだしと一緒に行く事にした。
夜ぶらぶらしていたら、カンボジア入国時に会った旅慣れた日本人と再会した。自分と同じく今日この町についたらしい。ただしバスで。バイタリティー溢れる人で、英語を自在に操り、バイタクの兄ちゃん達とすっかり友達になって遊んでいた。凄いなあ。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia
4月9日(火)シェムリアップ(アンコール遺跡群) 19,296歩
○夜明けのプノン・バケン
朝5時起き。約束の時間に外に出るとバイタクが2台、もう待っていた。僕を乗せてくれるバイタクの運ちゃんは女の子だった。女の子の運ちゃんなんて初めて見たよ。昨日の二人連れと一緒に、バイク二台でアンコール遺跡群へ。こんな時間でも受付は開いているんだ。一日券20ドル。カンボジアの物価からしたら信じられない値段だ。外国人料金なんだろうけど。
まず朝日を見るためにプノン・バケンへ。アンコール遺跡群はほぼ平地に作られているのだが、ここだけ丘の上に建っており、眺望が素晴らしい。人気がほとんどない中、朝もやにかすむ地平線の向こうから昇る朝日は美しかった。
一時間ほど、不思議な空気に包まれて朝日を眺めていた。と同時にプノン・バケンの遺跡も見ていたのだが、銃弾が撃ち込まれた跡がそこここにある。つい最近まで内戦の戦場になっていた事実を痛感。
○アンコール・トムとバイヨン
プノン・バケンを見終えてから他の遺跡が開くまで、売店で一息。子供の物売り集団に取り囲まれる。絵葉書12枚で1ドルか。安いけどいらないよ。と断ったら「You、オカマ」と連呼された。誰だ、嘘の日本語を教え込んだのは。
8時からアンコール・トムとバイヨン、その周辺を一人でてくてくと見て回る。確かに壮大だ。が、戦争と放置で荒廃しており、かなりの部分がぼろぼろだ。手入れされていた時はどれほどのものだったんだろうか。あちこちで修復作業が行われているが、ちょっとやそっとで完了するものではないだろう。建物自体もそうだが、びっしりと施された浮彫まで修復する事を考えると、気が遠くなる作業だな……。バイヨンの内部を歩いていると、所々でおばあさんが手招きする。何かと行ってみると、線香を上げないかと。やる。1,000リエル。同じ仏教とはいえ、作法とかはやはり日本と同じではない。
バイヨンを出てから、アンコール・トム周辺を散策。これが大変だった。強烈な日差しにふうふう言いながら歩く。そこらに露店があるが、観光地料金で高い。ジュース一本1ドルって、(1ドルは大雑把に現地通貨で4,000リエルだったが、ドルでないと通用しない)日本と同じじゃないか。また物売りがしつこいことしつこいこと。断っても無視しても、どこまでもついてくる。ベトナムと違い、カンボジアの物売り・物乞いはあっさりしてる印象だったが、ここは違うようだ。特に子供。「学校に行きたいからお金をくれ」それが本当かどうかは知らないが……。
観光用の象に乗って遺跡を巡っている人がいる。かと思うと、自転車を乗り回している白人カップルもいる。観光スタイルもいろいろだ。自分は地道に歩くだけだが。広大すぎる敷地内にいくらでも遺跡があるため、ジャングルを切り開いて見に行けるようにしただけで放置されている遺跡もゴロゴロある。ここまで広いとは思ってなかった。これなら1日券20ドル、全然高くないぞ。これくらい取って当然だわ。
○深閑のタ・プローム
他の人たちと合流して昼食。ここの観光にあと半日しか使えない身として、外せないのはあと二つ。タ・プロームとアンコール・ワット。まずはタ・プロームに行くことに。バイクでそばまで行き、遺跡に向かって歩いていると警官が声をかけてきた。「ポリスワッペンいらないか?」と。この国では警官の給料が安く、こうして小遣い稼ぎをしているとは聞いていたが、実際に会うとは思わなかった。別にいらないので買わなかったけど。
アンコール遺跡に行くなら、絶対行きたかったタ・プローム。その期待は裏切られなかった。圧倒された。凄い。まさにラピュタだ。崩壊しかけた遺跡、その中に根を下ろし、太い幹を伸ばす大樹。幹線道路から離れており、物売りもいない。観光客も少なく、他の遺跡と違って周囲のジャングルは切り開かれてはいない。それらが相まって、神秘的な静けさが漂っている。正直言って今日、初めて心から感動した。来てよかった。たまに会う欧米人観光客も、口を開けたまま「amazing」と呟いている。崩れかけの遺跡内部をさまよっている最中、ポルノグラフィティーの「アゲハ蝶」が頭の中でリフレインしていた。なんかこの歌詞が心に沁みる気分だった。
途中で件の二人組日本人の一人と出会ったので二人でまわっていると、遺跡内で地元の人が仏像に祈りを捧げている場面に遭遇した。彼が興味を持ち、やらせて欲しいと頼み込んだのだが、そこで供えようとした線香の数は二本。呆れて見ていたら、地元の人が苦笑しながら三本だよと忠告してくれた。そうしたら彼、真剣な顔で「Why?」と尋ね返していた。……えーと……心の中で彼に「Why?」と突っ込み返してしまったことは黙っておこう。
○アンコール・ワット
アンコール・ワットは建物の向きの関係で他の遺跡とは違い、夕方が美しいらしい。だから行く順番は最後だ。予定より早く着いたので、本殿そばの売店で一服。さすが一番の観光名所、他にも増して物乞いの子供が多い。さかんに「キテル」と言うので何かと思ったら、クメール語でゴミという意味らしい。屑鉄がお金になるのはどこでも一緒か。飲み終えたジュースの空き缶をせびってきたのであげる。あと「ワンダラー」とも言ってくる。現地通貨のリエルより、アメリカドルの方が信用度が高いらしい。
日が傾いてきたので本殿に入る。浮彫がびっしり彫り込まれた、長大な回廊にまず圧倒される。威風堂々とはこのことか。好みとしてはタ・プロームの方に軍配だけど。と言っても決してアンコール・ワットがしょぼいというわけではない。何層にも巡らされた回廊、それを中に、上にと入っていく。一番中心の、ワットの中心部に登ろうとしたら、手すりなどついていない、とんでもなく急な階段を上らなければならなかった。スカートの女の人だと登れないよな、これ。それ以前に日本だと、危険だからと登るのを禁止されてるだろう。
そこを上りきると、想像以上に広い空間があった。今は枯れているが、大きな貯水池跡まである。これだけの遺跡を作ったクメール文明って、最盛期にはどれだけの栄華を誇ったんだろう。
○夜のシェムリアップ
カンボジア最後の夜。昼間一緒に回った2人と外の屋台に食べに行く。孵化しかけた卵をゆでたのなんて初めてだ。見た目はともかく、味はゆで卵と変わらなかったけど。
地元の少年を相手に、英語が達者な2人は盛り上がっている。何を言っているかさっぱり分からないし、盛り上がっているのに水を差しても悪いので黙っていたら、「会話に加わらないと面白くないし、英語も上達しませんよ」と言われてしまった。何を言っているか分からないと加わりようがないんですが。仏様にお供えする線香の数や神前の礼も知らずに、英語だけ喋れてもなあと思うのはひがみなのかな。
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia → タイ王国
Kingdom of Thailand
4月10日(水)シェムリアップ →(シソポン)→(ポイペット)→ バンコク 6,425歩
シェムリアップからバンコクへのツーリストバス、朝7時予定のところ、7時半に来た。タケオゲストハウスのまでピックアップに来てくれたんだからいいけど。例によってマイクロバス。悪路にももう慣れた。窓の外は、ひたすらに続く地平線。こんな景色はそうそう見れないだろうから、今のうちに堪能しておこう。
10:40、シソポンで休憩。食堂でファンタを頼み、ドルで払ったらタイバーツでお釣りを返された。タイが近い。悪路をさらに進み、12:20、いかがわしい雰囲気だが、活気に包まれた町に来た。国境の町、ポイペットだ。バスから降りて国境に向かう際、青いビニールテープを渡され、服につけるよう言われた。タイのツーリストエージェンシーへの引継ぎのためだろう。
カンボジアの出国審査は1時間程かかったが、タイの入国審査は一瞬だった。並ぶ人がバラけたせいかな。ビニールテープを見て声をかけて来た者に付いて行くと、ワゴン車が待っていた。どうやらカンボジアからの旅行者を引き継ぐ車としては最後のようで、おかげで12人乗りのところに8人と、ゆったり座れて快適なドライブになった。クーラーも効いてるし。いつ以来だろう、こんな快適に移動できたのは。
タイに入ってまず驚いたのが、道がきちんとアスファルト舗装されていて、しかも空いていること。次に驚いたのが、バイクが少ない事。先進国じゃないか。車も左側通行だ。今までの国は右側通行だったよなあ。車を見てみると、いすず車が多い。それ以外も、日本車ばかりだ。
18:30、目的地のバンコクはカオサン通りのど真ん中に到着。こんなに早く着くとは。
カオサン通りは有名だからどんなものかと思っていたんだが、驚いた。なんだここは。日本語・英語が猥雑に溢れていてタイとは思えない。バイタクもトゥクトゥクも物売りも、全く声をかけてこない。今までの町とはあまりにも異質だ。正直、戸惑いを覚える。しばらく滞在する予定だから、印象は変わるんだろうけど。
タイの通貨、バーツを入手。バーツには硬貨があるんだ。今までの中国・ベトナム・カンボジアでは紙幣しかなかったから、新鮮だ。次に宿探し。明日からのソンクラーンの直撃を避けるため、カオサンから少し離れた所に宿を取るよう、明日会う友人と事前に打ち合わせてある。ニューメリーXのシングル、一泊130バーツに無事投宿。
バンコクだ。とにくかくにも、ここまで来たんだ。